親鸞聖人の主著『教行信証』 52歳頃完成される
親鸞聖人が稲田の草庵を中心に布教されていたころ、主著『教行信証』の草稿を完成されました。
親鸞聖人「お師匠様(法然上人)の書かれた『選択本願念仏集』のみ教えを、少しでも皆さんにお伝えしたいと思うてなあ。どう書き表したらよいか……。この、阿弥陀如来のご本願、この広大無辺な仏恩、どう伝え、どう報いたらよかろうか。親鸞の果てしなき、悩みじゃ」
すべての人が本当の幸せになれる道を知らせたい、親鸞と同じ心になってもらいたい。『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を執筆なされた目的は、これ一つでした。
親鸞、全く私なし
『教行信証』は正式には、『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』といいます。
『教行信証六巻』と言われることもありますが、これは『教行信証』が教巻(きょうかん)、行巻(ぎょうかん)、信巻(しんかん)、証巻(しょうかん)、真仏土巻(しんぶつどかん)、化身土巻(けしんどかん)の六巻に分かれているためです。
『教行信証』は親鸞聖人が書かれたものですが、「私釈(ししゃく)」といわれる親鸞聖人ご自身の作文は少なく、多くはお釈迦さまの説かれた経典と、それを解釈した高僧の書物からの引用です。
「文類(もんるい)」とは、それらの経釈から文章を集めたものということです。
親鸞聖人は常に、こう言われています。
更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。
(意訳)
親鸞の伝えていることは、今まで誰も説かなかった珍しい教えではありません。如来の教法=釈迦如来の説かれた仏教を、親鸞、間違いないとハッキリ知らされたから、皆さんにも教えているだけなのだ。
〝ばかりなり〟とは大変強い言葉で、それ以外ない、それだけだ、ということです。
「親鸞、更に私なし」の常の仰せのとおり、私見を交えず、釈迦の仏教をそのまま伝えられたことが『教行信証』にハッキリ示されているのです。
『教行信証』は浄土真宗の根本聖典
親鸞聖人が激しいご布教の合間を縫って書き残してくだされた『教行信証』は浄土真宗の根本聖典(こんぽんせいてん)であり「御本典(ごほんでん)」と呼ばれています。
「よろこばしきかな」(総序)で始まり、「よろこばしきかな」(後序)で終わるこの書は、どれだけ書いても書き尽くせない、本当の幸せになられたあふれる喜びと感謝が縷々したためられています。
全六巻からなる『教行信証』は、多くの識者を魅了しています。
近代日本の哲学者・三木清は以下のように書いています。
思索と体験が渾然一体となった稀有の書、根底に深く抒情をたたえた芸術作品
文芸評論家の亀井勝一郎も以下のように書いています。
『教行信証』全巻には大歓喜の声が響きわたっている
この『教行信証』の草稿ができたのは52歳頃といわれていますが、親鸞聖人は、お亡くなりになるまで加筆・修正を重ねられています。
想像を超える本当の幸せの世界を、どう書いたら、どう表現したら知ってもらえるだろう。親鸞聖人の熱い思いは、著作の果てなき悩みとなったのです。それはまさに絶望への挑戦だったといえましょう。
この『教行信証』の内容を圧縮されたのが、浄土真宗で昔から朝夕拝読されている『正信偈(しょうしんげ)』で、教行信証行巻の末尾に書かれているものです。
(続く)
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