親鸞聖人関東布教・日野左衛門の済度(4)
親鸞聖人からすべての人の無明の闇を破り、本当の幸せ(=絶対の幸福)にする阿弥陀如来の本願を聞いた日野左衛門。
しかもそれは、死んでからではなく生きているただ今のことであると聞き、驚きます。
しかし日野左衛門には自分の立場を省みて、ある疑問が湧いてくるのでした。
殺生をしているのは誰か
親鸞聖人との対面で、日野左衛門は初めて、今生ただ今の救いを説く仏教の真髄を知ります。
ですが猟師の自分を省みて、彼はこう吐露しました。
「だがなぁ。殺生ばかりしている俺なんか、どうせ縁なき衆生さ」
獣の血で汚れた自分が救われるはずがない。落胆する彼に、親鸞聖人は仰せられます。
「日野左衛門殿、あなたが殺生されるのは、肉を好んで食べる人がいるからでござろう。たとえ自分が殺さずとも、肉を食べれば、同じ殺生罪(せっしょうざい)と教えられているのが仏法です」
「え、それじゃあ、みんな殺生していることになるじゃないか」
驚いて返す日野左衛門に、
「いかにも。殺生せずしては生きてはいけない。私たちのどうにもならぬ、恐ろしい業なのです。すべての人がどうにもならぬ極悪人だからこそ、阿弥陀如来は我を信じよ、必ず、救い摂ると誓っておられるのです」
親鸞聖人のご説法は続きます。
三つの殺生
猟師の日野左衛門は、生き物の命を奪うことを生業としている。仏教では殺生といい、大変恐ろしい罪だと教えられています。
それは一人、日野左衛門だけのことではありません。殺生せずして私たちは、一日として生きられないのです。
一口に「殺生」といっても、三とおりあると仏教では教えられています。
・自殺(じさつ)
・他殺(たさつ)
・随喜同業(ずいきどうごう)
の三つです。
「自殺」とは、一般には「自ら命を絶つこと」ですが、この自殺は、自ら手を染めて生き物を殺すことです。
夏の夜、むずがゆさに目をやると、蚊が腕に留まり、今にも血を吸わんとしている。
思わず〝ピシャリ〟たたいたことがだれにもあるでしょう。
「自殺」とはこのようなことです。
「他殺」は、他人に命じて殺すことをいいます。
たとえ自分が殺さずとも、売られている肉を食べれば、同じ殺生罪と仏法では教えられています。
牛や豚、鶏や魚を取り、育て、さばいて売る漁師や養殖業者、畜産業者、屠殺業者などに命じて殺させていることになるのです。
「随喜同業(ずいきどうごう)」は、他人が殺生しているのを見て喜ぶ心があれば同罪、ということです。
テレビをつければ温泉紀行やグルメ番組が目白押しですが、いずれも見せ場は食事。
肉や魚を食べる時、イヤイヤ食べる人はないでしょう。
「口の中でとろける」「甘みたっぷり」「歯ごたえ抜群」
言葉を極めておいしさをレポートしています。喜び喜び口に運んでいるさまは、まさに随喜同業です。
日々の言動を振り返れば、このように殺生を犯さずには生きられぬ自己の姿が知らされます。
猟師として毎日野山を駆け回り、獣を仕留めて生計を立てている日野左衛門は、
「オレなど縁なき衆生(しゅじょう)」
と言わずにいられなかったのでしょう。
その根底には、救われるのは悪を犯さぬ者であり、善のできる人のみが救われる、という思いがあります。
だが、ここで親鸞聖人は、驚くべきことを言われます。
「阿弥陀仏は、どうにもならぬ極悪人を必ず救ってみせる、と誓われています」
日々、悪ばかり造っている極悪人をお目当てに、
「どうにもならぬそんな者を、絶対の幸福の身に救ってみせる」
と誓われた阿弥陀仏の本願を明らかにされています。
「いかなる罪悪深重の者をも必ず救う」お誓いこそ、弥陀の本願の真骨頂。
「無上殊勝の願」「希有の大弘誓」といわれるのも、深くうなずけることでしょう。
悪人正機
慈愛あふれる親鸞聖人のお言葉でした。しかし日野左衛門は、己を振り返ります。
命をつなぐためとはいえ、残忍にも生き物の命を殺め続けている自分が絶対の幸福に救われるとは、どうしても信じられず、思わず親鸞聖人に尋ねました。
「そ、それは、本当か?」
自信に満ちた親鸞聖人は、笑顔でゆっくりと語られる。
「この親鸞が生き証人でござる。欲や怒り、愚痴の塊の、助かる縁の尽きた親鸞が、もったいなくも、阿弥陀如来のお目当てじゃった」
瞑目合掌なされ、静かにお念仏を称えられました。
その尊い姿に、日野左衛門と妻・お兼は、何かを感じ、身をのり出します。
「あなたは違う、どっか違う……。親鸞さま、もっと詳しく聞かせてくだせえ」
あぐらから正座に居ずまいを正し、二人は食い入るように聞き始めました。
親鸞聖人の教えは、一般に「悪人正機」といわれ、有名な『歎異抄』第3章がよく取り上げられます。
「悪人正機」とは、阿弥陀仏の本願のことです。
「人間の正しい機ざま(真実の姿)は、悪人である。その悪人を、必ず絶対の幸福に救ってみせる」
と、阿弥陀仏は約束しておられます。
この弥陀のお約束どおりに救われた親鸞聖人は「この親鸞が生き証人」と宣言され、〝欲・怒り・愚痴の塊の、助かる縁の尽きた親鸞〟を目当ての弥陀の本願だったと仰っています。
阿弥陀仏は、私たちすべての人間を煩悩具足、欲・怒り・愚痴の塊と見て取られています。
欲とは、何一つ不自由ない生活をしていても、あれが欲しい、これが足りない、ああしたい、こうできれば……と自分の利益だけを底なしに求める心です。
飢えた狼が狂ったようにエサに貪りつくがごとく、金や色を求め、己の利益のために奔走しています。
思いどおりにならないと、チェッと舌打ちし、腹を立てるのが怒りの心です。
憎い相手が失敗して泣き苦しむと、祝杯を挙げる。これがおぞましい愚痴の心です。
そんな恐ろしい心ですが、表面は何事もないような紳士淑女を装う。役者顔負けの他人だましのうそっぱちを、親鸞聖人はこう仰っています。
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる
(意訳)
なんとしたことか。蛇や蝎のような心は少しも止まない。悪性の根の深さに反省・努力するが、一時の善を売り物にする醜さに驚かずにおれない。毒の雑じった善、うそ偽りの行と言われて当然だ。
こんな親鸞一人を救わんがための弥陀の大変なご苦労であった。
金輪際、助かる縁の絶え果てた私を、未来永劫の限りない幸せにしてくだされたとは、何ともったいないことか。
極悪人を捨てず裁かず救い摂る弥陀の本願に、ただ合掌されているのです。
(続き)
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