恋に煩悶される親鸞聖人
求道に行き詰まられた親鸞聖人が、京都の慈鎮和尚(じちんかしょう)に悩みを相談なされたその帰り、赤山禅院(赤山明神)の前で一人の女性に呼び止められました。
9歳から比叡山に籠もり修行されていた親鸞聖人を、なぜ知っていたのか。
一度も会ったことのない艶麗な女性が、経典の言葉を出して比叡山への疑問を突きつける。
『法華経』の教えで救われるのかと、疑問を抱かれていた親鸞聖人は、女性との出会いでさらに悩まれるようになりました。
*慈鎮和尚……慈円ともいう。天台宗の最高位・座主を務める
*比叡山……京都と滋賀の境にある山。天台宗の本山がある
*法華経……お釈迦様の説かれた経典の一つ
平家の落ち武者らの朝帰り
親鸞聖人が比叡山で修行をなされていたころ、源平の合戦に敗れた平家の落ち武者たちは、源氏の厳しい追っ手を逃れるために、刀を持つ者が入山できぬ治外法権の比叡山へ入り、にわか坊主となって隠遁生活を送っていました。
仏道を求めるのは、財や権力、名誉を得るためではありません。
後生暗い心を解決し、本当の幸せになることが目的です。
しかしにわか坊主たちはもとより、修行をしようと思っての出家ではない。
この間まで酒池肉林に溺れていた者たちにとって、形だけの修行であっても耐え難いものだったに違いありません。
昼間は仲間の手前ガマンしていましたが、人目につきにくい夜になると血が騒ぎ、山を抜け出して遊女と戯れては朝帰りをしていたのでした。
楽しそうに遊んでいる人や、おいしいものに舌鼓を打っている人を見ると、
「自分も楽しんだり、おいしい物を食べたいな」
と心が動きます。
自分だけ真面目に努力するのがバカに思えて、そんなに苦しい修行に打ち込まなくても……と、努力精進に力が入らなくなるものです。
縁によってどうにでも心が揺れる私たちですから、比叡山には本来、仏道修行の妨げになるものはありません。
店も遊ぶところもない、女性が入ることも禁じられていました。
そんな静寂な環境に、夜な夜な女と戯れ、朝帰りする者たちが入ってきたのです。
悪い縁には引かれやすいもの。
風紀の乱れる中、それでも親鸞聖人は、
「ああ、何たることか。人間の目はごまかせても、仏さまの目はごまかせないのだ。オレだけでも、戒律を守り抜いてみせるぞ」
と、昼夜なく、ひたすら解決に打ち込まれました。
浮かんでくる女性の姿
ところが親鸞聖人は、先に赤山禅院で出会った美しい女性のことが頭から離れなくなりました。
修行をしていても仏さまの顔が女性の顔に見えてくる。
経本に笑顔が浮かんで、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
仏道を求めながら、女のことばかり考えては修行にならぬ。
頭を振って、修行に集中しようとしますが、払っても払っても、浮かんでくる彼女の姿態に狂おしいほどに悩まされました。
親鸞聖人は、どうして心で思われることに、それほど苦しまれたのでしょうか。
仏の眼をあざむく偽善者
仏さまは、見・聞・知(けん・もん・ち)のお方。
おまえがどんなに隠れてやったことでも見ているぞ、誰にも聞こえないような声でしゃべったことも、聞いているぞ。心でひそかに思っていることも、皆知っているぞ、と私たちの体・口・心の全てをお見抜きです。
中でも仏教では心をいちばん重く見られます。体や口を動かしている大元は心だからです。
「心で何を思っても、体や口に出さねばいいじゃないか」
という人がほとんどでしょう。
しかし、もし親友が心では自分を憎み呪っていながら、笑顔で自分に話しかけているとしたら……。
鬼の牙を隠し、善い人だと思わせて、他人をだまそうとするその心こそ恐ろしく、醜い心ではないでしょうか。
初めは平家の落ち武者らを、仏の眼を欺くあさましい者と思われた親鸞聖人でしたが、赤山禅院で出会った女性に恋い焦がれ、かき乱され、
「ああ、何たることか。オレは、体でこそ抱いてはいないが、心では抱き続けているではないか。それなのに、オレほど戒律を守っている者はないとうぬぼれて彼らを見下している。心のとおりにやっている彼らのほうが、よほど私より正直者ではなかろうか。
醜い心を抱えながら、上辺だけを取り繕って、仏の眼を欺こうとしているこの親鸞こそ、偽善者ではないか。ああ、この心、一体どうしたらよいのか!」
と、やまらぬ心の悪に悲泣悶絶なされたのです。
その煩悶を、友人の覚明(かくみょう)に吐露されています。
「覚明殿。この親鸞ほど、あさましい者はない」
叡山の麒麟児(きりんじ)といわれた親鸞聖人ほど自己に厳しく、仏道一筋に修行なされる方は他にないと、親鸞聖人を慕い、そばで修行がしたいと入山した覚明には、何をあさましいと言われているのか分かりません。
ところが親鸞聖人は、
「心では醜いことばかり思い続けている。それが親鸞の実体なのだ。頼む覚明殿。煩悩に汚れ切った親鸞を、この棒で打って、打って、打ちのめしてくれ」
と懇願なされるのでした。
(続き)
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