「正信偈」と「歎異抄」示されたすべての人の生きる意味(後)
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阿弥陀仏の本願のみぞまこと
その親鸞聖人が
「本当の幸福になりたければ、絶対に裏切られない信心を獲なさいよ」
と教えられているのですが、絶対に裏切られない信心などあるのでしょうか。
聖人は前述の『歎異抄』の続きに、こう断言されています。
ただ、念仏のみぞまことにて在します
ただ、阿弥陀仏より賜った本願念仏のみが、まことである
ここで念仏と言われているのは、「阿弥陀仏の本願」のことです。
この「阿弥陀仏の本願」こそ、私たちを絶対の幸福にする三世十方を貫くまことだと教えられているのです。
阿弥陀仏とは弥陀ともいい、大宇宙の無量の仏方の王様であり、本師・師匠と仰がれる仏さまです。
阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、光明の中の最明無極なり(大阿弥陀経)
と、お釈迦さまは言われています。
次に本願とは、誓願ともいい、お約束のこと。
阿弥陀仏の約束は、お経には漢字36字で書かれていますが、現代の平易な言葉でいうと、「どんな人も必ず、絶対の幸福に救い摂り、無量光明土に生まれさせる」というお約束です。
「どんな人も」とは、老少・善悪・賢愚・貧富・美醜など一切関係ない、すべての人のこと。
『歎異抄』にはこれを、
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、(第1章)
と記されています。
阿弥陀仏は「すべての人を、全く差別なく、必ず絶対の幸福に救う」と誓われています。
ところが、この世は無常、一切は時事刻々変わりゆくものばかり。
私たちはそんなはかないものしか知りませんから、
「絶対の幸福にしてみせる」と聞いても「そんな幸せになれるはずがない」と、まことの弥陀の本願を疑いはねつけています。
そらごと・たわごとばかりで、まことの心のない私たちは、まことを信ずる心を念ずる心もないのです。
弥陀より賜る他力心
そこで阿弥陀仏は「まことの心」が私たちにないのなら「まことの心」を与えて絶対の幸福に救おう、と誓われています。
阿弥陀仏より賜るまことの心で、まことの阿弥陀仏を信ずる。
これを「他力の信心」といいます。
親鸞聖人が本当の幸せになれる「正しい信心」と言われるのはこの他力の信心のことなのです。
他力とは阿弥陀仏から賜ることです。
阿弥陀仏から頂いた信ずる心も「まこと」。
だからこの「他力の信心」は、絶対に崩れることも、裏切られることもありません。
阿弥陀仏は、阿弥陀仏を信ずる「まことの心」を南無阿弥陀仏の「南無」に収められ、その南無阿弥陀仏の名号を与えて、信ずる心も念ずる心もない私たちを絶対の幸福に救う、と約束されているのです。
「南無阿弥陀仏」を阿弥陀仏から頂くことを「信心獲得」といいます。
信心獲得して初めて私たちは、何があっても絶対に裏切られない安心・満足を獲て、「人間に生まれてよかった‼」と絶対の幸福に生かされるのです。
親鸞聖人は、信心獲得した喜びを『正信偈』の冒頭に
帰命無量寿如来
南無不可思議光
「親鸞は阿弥陀仏に救われた、親鸞は阿弥陀仏に助けられた」と仰っています。
同じ意味のことを繰り返し書かれているのは、どれだけ言っても言い足らない、どんなに書いても書き尽くせない喜びの表現です。
このように親鸞聖人は、自ら他力の信心(南無阿弥陀仏)を獲得され、皆さんも早く親鸞と同じ大安心・大満足の幸福になりなさいよ、と『正信偈』に勧められているのです。
これがすべての人の生まれてきた目的であり、「なぜ生きる」の答えなのだよと親鸞聖人は仰っています。
ではどうすれば、この他力の信心(南無阿弥陀仏)を獲得できるのでしょうか。
南無阿弥陀仏は「聞く一つ」で受け取れるように完成されていますから阿弥陀仏は、「聞く一つで救う」と約束されているのです。
これを「聞其名号、信心歓喜」とお釈迦さまは教示されています。
蓮如上人は、「仏法は聴聞に極まる」と言われています。
南無阿弥陀仏を聞く一つで受け取れば、「弥陀の本願まことであった」と疑い晴れる。
それは、平生の一念です。
その瞬間に、来世の浄土往生もハッキリいたします。
生きては絶対の幸福、死しては無量光明土。
まさしく生きてよし、死んでよしの、広大無辺な世界がひらかれる。
そこまで真剣に聞き抜きなさいと、お釈迦さまも親鸞聖人も、蓮如上人も勧められているのです。
苦労をいとわず、聞法の場に足を運んで、一筋に進ませていただきましょう。
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