蓮如上人と一休和尚のとんち比べ|ありのままに見るとは|本当の私とは
本当の私とはどんな姿をしているのでしょうか。
自分のことは自分が一番よく知っていると思っていますが、他人から癖を指摘されて初めて気づくことがあります。
私が知っているのは本当の私ではなく、自分で自分を見た私の姿の一面です。
では私をありのままに見たらどのような姿が見えてくるのでしょうか。
汝自身を知れ
古代ギリシャの時代から「汝自身を知れ」と、自分自身を見つめることは大切であると言われています。
“自分のことは、自分が一番よく分かっているから見つめる必要はない”と思いがちですが、
「知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは 己なりけり」
(いちばん知っているようで、最も分からないのが自分自身である)
の歌に、思い当たる節が多々あるのではないでしょうか。
なぜ「私」が分からないのか
なぜ私に「私」が分からないのかというと、近すぎるからです。
私たちの目は、いろいろなものを見ることができます。
今、目の前のパソコン、スマートフォンも、夜空に映える名月も、近いものも、遠いものも、よく見えます。
ところが、目のすぐ隣にある眉や顔は直接見られない。
あまりに近すぎるからです。
「目、目を見ることあたわず。刀、刀を切ることあたわず」
どんなに視力のいい人でも、自分の目を直接見ることはできない。
どんな名刀も、その刀自身を斬ることは不可能という意味です。
はるか宇宙の構造を解明した科学者も、自分の顔についた飯粒には気づかないようなもので、どんなに頭のいい人でも、本当の自分はなかなか分からないものなのです。
蓮如上人と一休のやりとり
浄土真宗の中興として有名な蓮如上人と、「一休さん」のアニメでおなじみの一休和尚との間にこんなエピソードがあります。
時は室町時代。七曲がり半に曲がった一本の松の木の前に人だかりができていた。
そこへ蓮如上人が通りかかられる。
「一体、何の騒ぎか」
「これはこれは、蓮如さま。実は、あの一休和尚が“この松を真っすぐに見た者には、金一貫文を与える”と、立て札立てたので、賞金目当てに集まっているのです」
なるほど、ある者は松の木にハシゴをかけ、ある人は寝転がり、またある人は逆立ちしたりと、それぞれに工夫を凝らして松を見ている。だが、真っすぐに見たという者がない。
事情を聞かれた上人は、
「また一休のいたずらか。わしは真っすぐに見たから、一貫文をもらってこよう」
と事もなげに言われたので、一同仰天した。
「おい、一休いるか」
気心知れた仲だから、呼びかけも屈託ない。
「あの松の木、真っすぐに見たから一貫文もらいに来たぞ」
出てきた一休さん、
「ああ、蓮如か、おまえはあかん。立て札の裏を見てこい」
と答える。実は立て札の裏には、“蓮如は除く”と書かれてあったのだ。
戻られた蓮如上人に気づいた人たちが、
「蓮如さま、一体どうやって真っすぐに見られたのですか?」
と身をのり出して尋ねると、蓮如上人はこう答えられた。
「曲がった松を、『なんと曲がった松じゃのー』と見るのが、真っすぐな見方だ。曲がった松を真っすぐな松と見ようとするのは曲がった見方。黒いものは黒。白いものは白と見よ。ありのままに見るのが正しい見方なのだ」
「なるほど!さすがは蓮如さま」
一同、感服したという。
近すぎる自己を見るにはどうすればいいのか
私たちは鏡を使います。
古来、自己を知る「鏡」に、「他人鏡」「自分鏡」「法鏡」の3枚あると教えられています。
鏡で大事なことは、私の姿を正しく映すかどうか。
本当の私より太って見えたり、痩せすぎだったり、有るものが映らなかったり、無いものを映す鏡では困ってしまいます。
では果たしてこれら3枚の鏡は、「本当の私」を映し出してくれる鏡なのか、詳しく検証してみましょう。
他人鏡 ──他人の目に映る私
第1は「他人鏡」。これは他人の目に映る私の姿です。
日々「他人鏡」に少しでもよく映るよう努力しているのは、それだけこの鏡に大きな信頼を寄せているからです。
誰もが他人の言葉に一喜一憂し、振り回されてきゅうきゅうとしていますが、果たして他人は私を正しく評価しているのでしょうか。
こんな話を通して、考えてみましょう。
ある奥さんが帰宅すると、泥棒とバッタリ鉢合わせになった。そこへタイミングよく、巡回中の警察官が通りかかる。
「助かった、地獄で仏とはこのことだわ。なんて頼もしいお巡りさん」
と奥さん、危機一髪、救われた。
ところが翌日、その奥さんが、路上に駐車していた車に乗ろうとすると、違反の貼り紙が。
取り締まっていたのは、昨日助けてくれた警察官である。だが、「見逃して」と幾ら頼んでも、警官は首を横に振るばかり。
「融通の利かない人ね。キライ!」
と腹を立てたのであった。
この警察官は、一日で人格が変わったわけではありません。奥さんの「都合」で評価がガラリと変わったのです。
「正も邪も 勝手に決める わが都合」といわれます。
誰もが、その時々の都合で他人を評価しますから、同じ人間が善人にも悪人にもなるのです。
このようなことは茶飯事ですから、
禅僧・一休は、「今日ほめて 明日悪くいう 人の口 泣くも笑うも うその世の中」と笑っています。
実際は、「豚は褒められても豚、ライオンはそしられてもライオン」で、人の価値はそう簡単に変わるものではないはずです。
見る人の都合でコロコロ変わる「他人鏡」が、変わらぬ本当の私を映す鏡でないことは、認めざるをえないでしょう。
もちろん、「他人鏡(他人の評価)など、どうでもいい」ということではありません。
他人の意見に耳を傾け、欠点を克服する努力は大事ですから、例えば同じことを3人以上から指摘されたら改めるよう努めていきたいものです。
自分鏡 ──自己の良心
他人鏡は本当の私を映し出す鏡ではないとわかりました。
3枚の鏡の第2は「自分鏡」。道徳的良心であり、自己反省のことです。
「一日三省」というように、自己を振り返ることは大切です。反省がなければ進歩も向上もなく、同じ失敗を繰り返すばかりでしょう。
しかし、いかに厳しくしようと努めても、自己反省は往々にして自分かわいい「欲目」によって甘くなるものです。
それは生んで育てたわが子にもしかり。
万引きをした子供の親に連絡すると、第一声は決まって「うちの子に限って……」だそうです。
本当はわが子が首謀者であっても、親はそう思いたくないし、思えない。「自分の」子だからです。
子供にさえ欲目を離れられないのだから、わが身となればなおさらです。
鏡の前で増えた白髪に一時は驚いても、「年下のあの人よりはマシ」と他人を引っ張ってきて上に立つ。
私は顔の色は黒いけれど鼻が高いから。色も黒いし鼻も低いが口が小さいから。口は大きいけれども色白だ。しまいには、「何にもできんが、素直な奴と皆から言われている」
と自分のことは何でも美化してしまう。うぬぼれ心が私たちの本性だからです。
「自分鏡」も自己の真実を歪めて見せる鏡で、本当の私を映し出すことはできません。
法鏡 ──真実の自己を映す
他人鏡は都合で曲がり、自分鏡は欲目で曲がる。
一体、「ありのままの本当の私」を映してくれる真実の鏡はどこにあるのでしょうか?
お釈迦様は「仏教は法鏡なり。汝らに法鏡を授ける」と遺言なされ、私たちに、真実の姿を映す鏡を与えてくださいました。
「法」とは、真実であり、三世十方を貫くもの。三世とは、過去・現在・未来で「いつでも」、十方とは、東西南北上下四維で「どこでも」ということ。時代や場所に左右されず、いつでもどこでも変わらないものだけを、法といいます。
*四維……北東、北西、南東、南西
仏法を聞くとは、法鏡に近づくことですから、仏法を聞けば、今まで気づかなかった自己が見えてきます。
もちろん、鏡から離れていては分かりません。
肉体を映す鏡でも、遠目には“まんざらでもない”とうぬぼれていますが、近づくにつれて“あら、ここにシワがある。こんなところにアザが。随分白髪が増えたなあ”と、実態に嘆く。
同様に、法鏡に近づくほど“こんなわが身であったのか”と、思いも寄らぬ自己の姿に驚くのです。
まとめ
自分のことは自分が一番よく知っていると思っていますが、「汝自身を知れ」と古代ギリシャから言われるように、本当の私の姿は近すぎるためになかなかわかりません。
私の姿を映し出す鏡として、他人鏡、自分鏡、法鏡の3枚の鏡があります。
しかし他人鏡は相手にとっての都合によって良く映ったり悪く映ったりするため、本当の私の姿を映してはくれません。
また自分鏡は欲目が働きますから、やはり本当の私の姿はわかりません。
本当の私の姿を教えているのが法鏡、仏教です。
では法鏡に映る本当の私の姿とはどのような姿なのでしょうか。
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