蓮如上人から最初の御文を受け取った金森の道西とはどんなお弟子か
蓮如上人には、後世に名を残すたくさんのお弟子がおられます。
今回は、その一人、金森(かねがもり)の道西(どうさい)を紹介したいと思います。
金森とは、現在の滋賀県守山市金森町のことです。
道西は、もとは、川那辺(かわなべ)弥七と言い、18歳頃から、本当の親鸞聖人の教えを探し求めていた人でした。
蓮如上人とどんな出会いがあったのでしょうか。
蓮如上人との出会い
村人「おい、弥七、どうしたんだ。まだ法話の最中じゃないか」
弥七「いやいや、この寺も仏法を正しく説いておらん。わしは失礼する」
村人「おいおい、まあ、落ち着けって。そう言って、おまえは何十軒の寺を回れば気が済むのだ」
弥七「いいか、念仏を称えさえすれば誰でも極楽往生できるというのは間違いじゃ。正しい信心が肝要だと、教えられているのだ……」
村人「で、その正しい信心とはどういうものか?誰が教えてくれるのじゃ?」
弥七「それが分かれば、こんなに苦労などせぬ、ああ、どこかに、親鸞聖人の本当の教えを説いてくださる方はおられぬのか……」
村人「親鸞さまの教えといえば、やはり本願寺じゃろう」
弥七「本願寺か……確かに親鸞聖人の血筋は引くものの……」
村人「どうした?」
弥七「行ってみるか?」
…
村人「これが本願寺!?小さいのう、わしの村にある古寺よりも小さいぞ。」
弥七「お参りする者がおらん。寂れたものじゃ。何ということだ……」
蓮如上人が法主(ほっす)に就かれる以前の本願寺は、参詣者がほとんどなく、財政が窮乏していました。
本堂の広さも三間四面で、実にささやかな存在であったといわれます。
「御衣は肩の破れたるを召され候」
(御一代記聞書)
蓮如上人は肩の部分が破れた衣を着ておられました。
「幼童の襁褓(おしめ)をも御ひとり御洗い候」
(御一代記聞書)
自ら赤ん坊のおしめを洗っておられました。
「供御の御汁は御一人の分あなたよりまいらせられそうろうを、水を入れて のべさせられ、御三人みなみなきこしめしたると申候」
(天正三年記)
あまりの貧しさに、一人分のみそ汁を水で薄めて親子三人ですすられました。
「二、三日も御膳まいり候わぬ御事も候」
(御一代記聞書)
時には二、三日続けてご膳が来なかったことさえありました。
数年後のこと、本願寺にて
弥七「調べ物をしていたらこんなに遅くなってしまった…。うわっ!こんなところに人がっ!」
蓮如「申し訳ない。驚かせてしまいました」
弥七「こんな夜更けに、一体何をしておられるのですか」
蓮如「今、親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を拝読しておりました」
弥七「えっ?それならば、ともしびを使われたらいいではありませんか」
蓮如「この寺には油を買う金などございません。ほら、月の光で十分……。私は子供の時から、薪や炭の火で勉学してまいりました」
弥七「ここまで貧しいとは……もっと他宗他派のように、葬式や法事に歩かれれば生活の糧ぐらい稼げるのではないですか?」
蓮如「なるほど、ごもっともです。しかし、それだけに終わっては親鸞聖人の御心に反することになりましょう」
弥七「なんと!」
蓮如「親鸞聖人は、『教行信証』に「非僧非俗(ひそうひぞく)僧に非ず、俗に非ず」と明記されています。
本当の僧とは、お釈迦さまの出世本懐中の本懐である阿弥陀仏の本願を伝え切る人のことをいうのです。
だからこそ親鸞聖人は、死人の後始末をするようなことは、生涯一度もされなかった、亡き父母の追善供養に念仏一遍も称えたことがないと仰せです。
仏法は、生きている人に説かれた教えです。
常に親鸞聖人は、生きている間に絶対の幸福に救いたもう弥陀の本願のみを叫び続けられました。
親鸞聖人のみ跡を慕うこの蓮如もまた、生涯、非僧非俗を貫き通しますぞ」
弥七「違う……今まで教えを請うてきた人と全く違う……。蓮如さま、その弥陀の本願、もっと詳しく教えていただけませんか」
蓮如「もちろんです。よくお聞きください」
弥七「間違いない。このお方こそ、親鸞聖人のみ教えを正しく伝えてくださる方だ。蓮如さま、どうかこの私をお弟子の一人にしてくださいませ。お願いいたします!」
蓮如「そんな、私は法主ではないのですよ」
弥七「いいえ、わが師は蓮如さまよりほかに考えられません。どうかどうかお聞き届けを!」
こうして、弥七は蓮如上人のお弟子になり、道西房善従(どうさいぼうぜんじゅう)と名を改めます。蓮如上人35歳、道西はすでに50歳を超えていました。
金森から浄土真宗が広がる
道西は早速、自分の故郷、金森へ蓮如上人をお招きして法話を開催しました。
蓮如「皆さん、よくお聞きください。お釈迦さまは、すべての人が本当の幸福に救われる道を教えられました。
そのお釈迦さまの真意を、流刑に遭われながらも命懸けで明らかにしてくだされたのが、親鸞聖人なのです」
聴衆「ふーん、でも、仏教といっても、わしらみたいに魚を殺して生活しているような者は相手にしてくれないんじゃろ?」
聴衆「山に登って修行する偉い人しか助からないと聞いとるぞ」
蓮如「そこです。そこが、聞き誤って伝えられているところなのです」
聴衆「聞き誤り?」
蓮如「そうです。大宇宙のすべての仏さまの本師本仏(先生)であられる阿弥陀如来がお約束なされています。
漁や狩猟で生計を立てている人も、商いをしている人も、肉を食べ結婚している人も、そのまま救うと誓われたのが、阿弥陀如来の本願なのです。」
聴衆「へえ……初めて聞いた」
蓮如「よくお聞きください」
金森へ御方様(蓮如上人)を申入られ聴聞そうらいつるに在所の人々も驚かれ仏法も此時よりいよいよ弘まり申そうらいき (天正三年記)
「在所の人々も驚かれ」とありますように、蓮如上人のご法話を聴聞した人々は皆、驚嘆したとあります。
法主になられる前の蓮如上人には、自由な活動は許されていませんでしたが、年に2,3回は金森に布教に赴かれました。
43歳で法主就任と同時に、蓮如上人は大々的な布教活動を展開されます。
特に、近江に重点を置かれ、金森へも頻繁に足を運ばれました。
数年間で、金森から周辺地域へ真実が拡大し、赤野井、荒見、山賀、手原など、次々に聞法道場が生まれています。
最初の御文章
道西「蓮如上人さま、今日も金森までお越しくださり、まことにありがとうございました」
蓮如「皆さん真剣に聴聞されている。これも門徒衆が皆、道西の姿を見習っているからでしょう」
道西「いえいえ、とんでもないことです。蓮如上人さまから聞かせていただいたことを、各道場を回り、村人に教えようとするのですが……なかなかそのまま正しく話すことができません」
蓮如「まこと、親鸞聖人のみ教えを伝えることは、容易なことではないのう。どうすれば、正確に、多くの方に伝えることができるのか……。
ふむ……よし、では法話の内容を文章にして道西に送ろう。それを道場で読み聞かせるとよいのではないか」
道西「おお、なるほど」
蓮如「誰にでも読めるように、平仮名交じりで分かりやすく書くのじゃ」
道西「そ、それはありがたいことでございます」
蓮如「よし、すぐに京に帰って、文(手紙)をしたためよう」
こうして、蓮如上人からお文を最初に頂いたのは道西でありました。
寛正2年(1461年)、蓮如上人47歳の時のことです。
「こ、これは……これはまるで、蓮如上人さまが目の前でご説法くださっているようじゃ……これは阿弥陀如来から賜ったお文(ふみ)じゃ、「御文章(ごぶんしょう)」じゃ!」
蓮如上人からのお手紙を受け取った道西は「これ聖教(しょうぎょう)なり、これ金言なり」と感嘆したといいます。
蓮如上人が、村人に宛てて書かれたお手紙のような形になっていますが、まさに阿弥陀如来から賜った「ふみ」であるとして「御文」「御文章」と呼ばれるようになりました
「よ、よし。早速このお文を村人に読み聞かせよう。そして……、そなたはこれを書き写すがよい。それを他の道場に届けるのじゃ、それっ、急ぐのじゃ」
御文章は、寺や道場で、多くの人が集う中で、朗々と代読されました。
蓮如上人のお言葉を、間違いなく、そのまま門徒へ伝えることができたのです。
そして門徒から門徒へ、競って書き写されました。
一通の御文章が、数十、数百、数千と膨れ上がり、山を越え谷を渡って全国へ拡大していきました。
それは数十、数百、数千の蓮如上人が、時を同じくして各地で布教されているのと同じことになったのです。
「当流聖人の御勧化の信心の一途は~」で始まる「筆始めの御文」の原本は、今でも善立寺に保存されています。
正信偈大意のきっかけ
勉学熱心な道西は、蓮如上人に『正信偈(しょうしんげ)』の解釈を懇願しています。
それが『正信偈大意』として、今日、残されています。
正信偈大意のあとがきに蓮如上人は「金森の道西が自身の学問のためにと、絶えず望み、しきりに所望する意がしりぞけがたいので」と書かれた理由と述べられています。
蓮如上人には、金森の道西のようなお弟子が他にもおられました。
蓮如上人と共に、それらのお弟子の活躍により、浄土真宗は日本中に広がり、今日まで伝えられているのです。
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