親鸞聖人の長子・善鸞の邪義と日蓮の出現6
この上は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計らいなり。
(意訳)
この上は、日蓮に従って念仏捨てようと、親鸞に同心して、念仏を信じたてまつろうとも、おのおの方の、勝手になさるがよかろう!
親鸞聖人お一人を心底慕い、信じ切ってやってきた関東の人たちだと、重々承知なされてのお言葉です。
“後生の一大事は一人一人の問題なのだ。親鸞が伝える弥陀の本願を信じて、浄土へ往くのか、日蓮の邪説に惑うて念仏を捨てるのか、勝手にしたらよい”
「出て行け」と心を鬼にして子を叱る親心は、子供と絶縁したいのではない。抱き締めたい一杯なのだ。憎まれ嫌われても、過ちを二度と犯さぬようにと願う慈悲以外にないのです。
悪夢から覚めた関東の人たちは、懺悔の涙とともに、二度と迷うまいと心に刻み、晴れ晴れと帰路に就いたのでした。
関東から京都へやってきた人たちが帰った後、桜舞う庭先に下りられた親鸞聖人に、お弟子の蓮位房(れんいぼう)が不安げに申し上げました。
「お師匠さま。これから関東も大変なことになりそうでございますねえ」
すると親鸞聖人は、庭の桜の木の傍らで、
「だがのぉ、蓮位房。考えてみれば、このたびのことは、喜ぶべきことなのだ」
と、しみじみ仰ったのです。
関東で大事件が起き、そのために片道1ヶ月もかかる道を、関東の人たちは京都まで赴きました。治安のよい現代でさえ、長旅には危険が伴う。まして当時は、荒れた道なき道もあり、物取りや山賊などに命を奪われるなど、危険は現在の比ではありません。そんな旅に、田畑を売って路銀を作り、家族と水杯を交わしてきたのです。それなのに、なぜ喜ぶべきことと仰ったのでしょうか。
驚いてお聞きする蓮位房に、親鸞聖人はこう答えられました。
慈信坊(じしんぼう・善鸞)が申すことによりて、人々の日頃の信のたじろきおうて在しまし候も、詮ずる所は人々の信心の真実ならぬ事のあらわれて候、よきことにて候。
(御消息集)
(意訳)
日蓮や善鸞の言葉ぐらいで、ぐらつくような心では、臨終の嵐の前には、吹き飛ぶのだぞ。まことの幸せになっていなかったことが知らされただけでも、喜ぶべきことではないか。
(続き)
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