親鸞聖人42歳・59歳の時にあった果てしなき悩み
関東で布教を続ける親鸞聖人が、阿弥陀仏へのご恩があまりに大きく返しきれないことに悩まれ、寝込まれたことが2回ありました。
寝込まれる親鸞聖人
親鸞聖人59歳頃、原因不明の高熱で三日三晩、ご家族も寄せつけられず、飲食も取られず寝込まれたことがありました。
ところが4日目、親鸞聖人は突然目を見開き、驚いたような大きな声で叫ばれたのです。
「ああ、そうであったか!」
ご内室が驚いて尋ねると、親鸞聖人は次のように仰っています。
「この深い阿弥陀仏のご恩を思えばなあ、親鸞。泣きたいような切なくてのお。じっとしてはおれんのだ。身を粉にしてもと思うのだが、やはり布教しかなかったと、またまた思い知らされたのだ」
阿弥陀仏に救われ、本当の幸せに生かされたご恩、身を粉に、骨砕いても、お返しせねば済まぬとの思いは、病んで寝込まれるほどであったのです。
阿弥陀仏に救われた世界がいかに広大・深遠か、親鸞聖人のお姿から知らされます。
御恩報謝に悩まれた親鸞聖人はやがて、弥陀の本願をお伝えする以上の報謝はないと、決然と立ち上がられました。三日間続いた熱も、スッと引いてしまったのです。
そして、このように悩み惑われたことが以前にもあったのだと、親鸞聖人は述懐されています。
「こんなことは、17年前、上野国にいた時もあったのだが……」
親鸞聖人42歳の御時、上野国(こうづけのくに)佐貫(さぬき)にご滞在中に、大飢饉で多くの人が倒れていくのを見られ、矢も盾もたまらず、切なる衆生済度の思いから、根本経典の浄土三部経を千回読もうとなされました。
三部経とは『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つです。
当時は、尊い経典を多く読めば、人々の苦しみが救われると広く信じられていました。
阿弥陀仏の大恩に、どうしたら報いられるかの激しく熱い心から、親鸞聖人もつい惑われたのでしょう。ところが4、5日読まれて親鸞聖人は、
「これは、何ごとだ。『自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩』ではなかったか。他に何の不足があって、経典を読もうとしていたのか。われ誤てり、誤てり」
と仰って、すぐに常陸へ布教に旅立たれました。
自信教人信のお言葉
自信教人信(じしんきょうにんしん)
難中転更難(なんちゅうてんきょうなん)
大悲伝普化(だいひでんふけ)
真成報仏恩(しんじょうほうぶっとん)
自ら信じ人に教えて
信ぜしめることは
難きが中に転た更に難し
大悲を伝えて普く化す
真に仏恩を報ずるに成る
これは、善導大師の有名なお言葉で、
「自らが信心を獲る(弥陀に救われる)ことも難しいが、他人を弥陀の救いまで導くことはもっと難しいことである。だが、その最も困難な『教人信』こそが、いちばん仏恩に報いる道なのである」
という意味です。
この善導大師の教化に、親鸞聖人は目を覚まされて、
「そうだ。私のできる唯一最高の仏恩報謝は、一人でも多くの人に弥陀の本願を伝え、弥陀の救いにあうまで導くことではないか。ならば、布教以上の生きる道はなかった。他に、何が不足で経典を読もうとしていたのか。私は誤っていた、誤っていた」
と即座に布教にたたれたのです。
当時、千回もの経典読誦は、民衆に尊く受け入れられ、容易に敬われる行為でした。しかし、親鸞聖人はそれを捨て、大衆の中へ飛び込んで、弥陀の本願宣布をなされました。
*上野国……現在の群馬県
*常陸……現在の茨城県
*善導大師……約1300年前、中国の人。七高僧の一人として親鸞聖人はたいへん尊敬されている
(続き)
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