親鸞聖人関東布教・日野左衛門の済度(1)
800年前、京都に生まれられた親鸞聖人は、35歳の時、無実の罪で越後(新潟)へ流刑となられました。
5年後に赦免された親鸞聖人は、京への旅の途中で恩師・法然上人ご逝去の報に触れ、帰京を断念、関東へ赴かれます。
常陸(茨城)の稲田に居を構え、布教に専念されていました。
関東で親鸞聖人は、座の暖まる間もなく各地へ足を運び、精力的に仏法を伝えられました。
その一つ一つのご苦労の積み重ねにより、関東一円に真実の仏法を聞き求める人々が次第に増えてきたのです。
その中の一人、日野左衛門がいかにして仏縁を結んだのかについて紹介します。
邪険な日野左衛門
ある年の11月下旬、雪の降る中、親鸞聖人は常陸の東北部へお弟子とともに赴かれました。
夕暮れ時、吹雪の中で道に迷われた親鸞聖人の一行は、ようやく見つけた民家に一夜の宿を請われます。
主は猟師の日野左衛門(ひのざえもん)。
彼は、たびたび目にする僧侶の堕落したふるまいから、すっかり仏教嫌いになっていました。
その夜、早くから酒をあおって憂さを晴らしていると、親鸞聖人が宿を請うて訪ねてこられたのです。
「夜分遅く申し訳ない。道に迷い難儀している者。一夜の宿をお願いしたいのだが」
お弟子の頼みに、
「おれは坊主は大嫌いだ。出ていけ」
と、ナタを手にして大雪の中へ追い出してしまいます。
邪険窮まりない応対に弟子は憤懣(ふんまん)をぶつけますが、親鸞聖人は、
「無理もない。せっかく気分よく休もうとされていたのだ」
と諭されました。
ですが、風と雪はいよいよ吹きすさび、近くに民家はない。
田舎道を戻りかけましたが、ふと聖人は門柱をたたいて、
「この門の下をお借りしよう」
と門前の石を枕に横になられました。
弟子の西仏房(さいぶつぼう)、蓮位房(れんいぼう)は笠で風雪からお守りしますが、吹きかかる雪はたちまちお体を覆い、まるで褥(しとね)のように親鸞聖人を白くしていく。
西仏が凍てつく手にハーッと息を吐きかけると、親鸞聖人は
「寒かろう」
と優しく声をかけられました。
「いいえ、お師匠さまこそ」
「いやいや……。
『寒くとも たもとに入れよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば』
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「もったいのうございます」
「阿弥陀如来からお受けした大きなご恩を思えばなあ、親鸞。物の数ではない」
「お師匠さま……」
西仏、蓮位は親鸞聖人に降り積もる雪を、涙ながらに払いました。
寒くとも たもとに入れよ 西の風
親鸞聖人はここで、
『寒くとも たもとに入れよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば』
(吹きつける冷たい風も、はるか西方の弥陀の浄土から吹くと思えば親鸞、苦にならぬ)
と歌われています。
とはいえ生身のお体、身を切る寒さは大変な苦痛であったに違いありません。
その中門前で休まれたのは、邪険な日野左衛門にも何とか真実の仏法、弥陀の本願を伝えたいと願われてのことです。
自分の肉体の辛苦を度外視してでも、布教せずにおれなかったのです。
世の中には、救われた、助かった、といっても色々あります。
不治といわれた病を優秀な医師に治してもらった。
海で遭難したが九死に一生、通りかかった船に救出された、など。
当事者であれば、救ってくれた相手に深い恩を感じて一生、忘れることはできませんし、どんなお礼でもしたいと思うでしょう。
しかし助けられたといっても、考えてみれば死ぬのがしばらく延びたということです。永遠に死ななくなったのではありません。
ところが真実の仏法は、私たちをこの世から未来永遠、最高無上の幸せの身に救い摂ってくだされる。
その身に救いたもうた広大なご恩を思えば、一夜の寒さや苦痛など、物の数ではない、と親鸞聖人はおっしゃっているのです。
「すべての人よ、どうかこの親鸞と、同じ幸せの身になってもらいたい」
と、真実の仏法を、ひたすら教導なされています。
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