会い難き真の知識・法然上人
親鸞聖人は後生の解決を求め9歳から比叡山で修行なされましたが、20年の歳月がたっても明かりがつかなかったのです。
ついに比叡山での20年の修行に終止符を打ち、真の知識(まことの仏教の先生)を求めて山を下りられました。
*比叡山……京都と滋賀の境にある山。天台宗の本山がある
法友・聖覚法印(せいかくほういん)に導かれて
親鸞聖人は一息切れた後生の解決を求めて、京都の町を夢遊病者のようにさまよわれました。
その時、かつて比叡山でともに修行された聖覚法印と出会われました。
聖覚法印は親鸞聖人より早く比叡山を下りて、京都吉水(よしみず)の法然上人のお弟子になっておられました。
「おや、親鸞殿ではござらぬか」
聖覚法印の声に振り向かれた親鸞聖人のお顔は、晴れやかな聖覚法印の表情とは対照的な、沈痛な面持ちでした。
「肉体はどこも悪くはありませんが、親鸞、心の病気で苦しんでおります。聖覚殿、あなたはこの後生暗い心の解決、どうなさいましたか」
その問いを待っていたかのように聖覚法印は、満面の笑顔で法然上人を紹介されるのです。
会い難き法然上人
当時、法然上人には380人余りのお弟子がありました。
浄土仏教の阿弥陀仏の本願を説かれる法然上人に導かれ、弥陀の救いにあわれた親鸞聖人はお弟子の1人に加わられたのです。
以来、親鸞聖人は法然上人を会い難き師と尊敬され、生涯慕い続けられました。
数多くの著作からそれは、ひしひしと伝わってまいります。
親鸞聖人が法然上人から直接教えを受けられたのは、29歳から35歳までの約6年間。
親鸞聖人90年のご生涯の中では、ほんの短い期間です。
しかし、このご縁が親鸞聖人にとって生涯忘れえぬ、かけがえのない一時となったのです。
短いご縁でありながら、法然上人を生涯敬慕されたのはなぜだったのでしょう。
その真の理由はあまり知られてはいませんが、聖人90年のご活躍の原点を知るには、大変大事なことです。
師への深い敬慕
聖人は76歳の御時、法然上人をたたえられたお歌(和讃)を20首作られています。
終生絶えなかった恩師への謝念が拝察されます。その和讃の一節に、次のように書かれています。
「真の知識にあうことは かたきが中になおかたし」(高僧和讃)
*高僧和讃……親鸞聖人がインド・中国・日本の七人の高僧を賛嘆された詩
「知識」とは「あの人は科学的知識のある人だ」などと使う「知識」とは全く違い、仏教用語で「仏教を伝える人」「真の知識」とは、真実の仏教を教える先生のことです。
「真の知識にあうことはかたきが中になおかたし」とは、正しい仏教を教える師に巡り会うのは、難しい中になお難しい、めったにないことであると、親鸞聖人が仰っているお言葉です。
「本当の仏教の先生に会うのは、難しいそうですよ」と、他人事のように言われたのではなく、親鸞聖人ご自身が血みどろの20年間のご修行から、骨身に徹して知らされた実感でした。
親鸞聖人が学ばれた比叡山は、当時、日本で一流とされた仏教者が講義をしていた仏教の中心地で、正しい仏教を学べる場所はここ以外ない、と誰もが認める学び舎だったのです。
そこで刻苦勉励、叡山の麒麟児(きりんじ)と評され、厳しい大曼(だいまん)の難行まで遂げられた方が親鸞聖人でした。
ところが後生暗い心の解決ができるまことの教えを渇求するも、教授される師には会えず、29歳の御時、泣き泣き山を下りられました。
9歳で出家されてより、20年の歳月が流れていました。
「真の知識にあうことはかたきが中になおかたし」
真実の仏教を教えてくださる方にお会いするのは、まことに難中の難なのです。
では、真実の仏教を教えられる真の知識とは、どんなことを教えてくださる方なのか。続きます。
*麒麟児……特にすぐれた才能を持ち、将来を嘱望される若者
(続き)
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