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基礎から学ぶ仏教

食後の「ごちそうさまでした」の深い意味

  食事を食べる時、食前には「いただきます」、食後には「ごちそうさまでした」と言います。   「いただきます」は、いろいろな説があります。 ・肉や魚を食べる時、「命をいただく」という意味 ・食事を食べるまでいろいろな人のご苦労があったから、その人たちへの感謝の気持ち いずれも感謝の心は共通しているようです。   では、「ごちそうさまでした」はどうなのでしょうか。 「ごちそうさまでした」について、少し掘り下げてみたいと思います。   目次 ・「ごちそうさま」は漢字で書くと「御馳走様」 ・「韋駄天(いだてん)」が走る ・仏教の本来の「馳走」とは   「ごちそうさま」は漢字で書くと「御馳走様」 「ごちそうさま」は漢字で書くと「御馳走様」です。 御馳走とは、客のために奔走して材料を集め、食事を出してもてなすこと。 その労に対する感謝の言葉として「御馳走様でした(ごちそうさまでした)」というようになりました。   「御馳走」は「馳走」に丁寧語の「御」の字がついて「御馳走」です。 「馳走」は「馳」は「馳(は)せる」、「走」も「走る」で、ともに走ることです。 どうして走ることと食事がつながったのでしょうか。 実は「馳走」は仏教から出た言葉なのです。確かに欧米では「ごちそうさまでした」のような言葉はないそうです。   「韋駄天(いだてん)」が走る 仏教では「韋駄天」が出てきます。韋駄天とは何者か。 仏教では、仏教および仏教徒を守護する神が教えられています。 その中に韋駄天がいます。 昔、足の速い人がいると「韋駄天のようだ」、また「韋駄天走り」と言われました。 なぜ足の速い人を「韋駄天」というのでしょうか。 お釈迦さまが亡くなられた後、仏舎利(ぶっしゃり)を盗んだ者がいて、韋駄天が盗人を追いかけて取り戻したという俗話から、「韋駄天」とは足が速いと言われるようになったそうです。 その韋駄天がお釈迦さまの為に駆け回って食材を集めてきたという話があり、駆け回る「馳走」が、食事を出してもてなすこと、また、食事そのものを表すようになりました。   仏教の本来の「馳走」とは 仏教では、この韋駄天の話から、食事だけではなく、他の人の為に奔走して、功徳を施して救う、苦しんでいる人を助けることを「馳走」と言います。   お釈迦さまは35歳の時に仏のさとりをひらかれて80歳でお亡くなりになるまでの45年間、インドを「馳走」されました。 親鸞聖人は29歳の時に阿弥陀仏の本願に救いとられ、本当の幸せになられてから、90歳でお亡くなりになるまで、京都、新潟、関東を「馳走」されました。 そのような「馳走」される仏教の先生がおられたからこそ、2600年の時代と国を超えて、今日、日本に仏教が伝えられています。 2600年たっても、なくならず、伝え続けられているのは、教えの内容が、時代や国を超えて、すべての人の苦しみを解決し、幸せになれる道を教えられているからですが、どんな素晴らしいものがあっても、伝える人がいなければ、誰も知ることはなく、やがてはなくなってしまいます。 「馳走」なので、走りのリレーで例えてみますと、お釈迦様から渡された仏教というバトンが、インドから中国、中国から日本へとつながり、今日、私のところまで届けられたのです。まさに「馳走」のおかげです。 そう思いますと「ごちそうさまでした」は、食事の感謝の言葉でありますが、私が仏教と巡り合った感謝の言葉ともいえるかもしれません。 仏教を聞くことができたことに感謝して「ごちそうさまでした」  

「縁起がよい」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」の「縁起」とは
「縁起がよい」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」の「縁起」とは

「縁起がよい」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」という言葉を耳にしますが、「縁起」とはどういう意味か、仏教で使われる「縁起」と全く違いますので、説明したいと思います。 目次 ・「縁起」の意味 ・仏教で「縁起」とは ・仏教の「縁起」は「縁起がよい」「縁起が悪い」を否定する ・まとめ   「縁起」の意味 「大辞林」によりますと、まず3つの意味が紹介されています。 1.物事の吉凶の前兆。きざし。前ぶれ。 「縁起がよい」「縁起が悪い」 「縁起をかつぐ」とは、吉凶にとらわれる、縁起がいいとか悪いとかを気にすることをいいます。 2.社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。また、それを記した文献。 「信貴山縁起」は有名です。 信貴山縁起(しぎさんえんぎ)は、平安時代末期の絵巻物で、2016年現在、日本の国宝に指定されている。『源氏物語絵巻』、『鳥獣人物戯画』、『伴大納言絵詞』と並ぶ四大絵巻物の1つと称される。朝護孫子寺が所蔵(原本は奈良国立博物館に寄託されており、当山内の霊宝館では複製を展示)。「信貴山縁起絵巻」とも称する。 (wikipediaより) 3.事物の起源や由来。 仏教で「縁起」とは 「大辞林」には、4番目に紹介されています。 4.因縁によってあらゆるものが生ずること。 縁起とは因縁生起(いんねんしょうき)を略したものです。すべてのものは、因縁によって生起するということです。 経典には、以下のような言葉があります。 一切法は因縁生なり。『大乗入楞伽経(だいじょうにゅうりょうがきょう)』 一切法とは、万物、すべてのものです。すべてのものは、因縁によって生じているということです。 これを因縁果(いんねんか)の道理ともいいます。 どんな結果にも、必ず因と縁がある。因と縁がそろってはじめて結果が生じる。これが道理、いつでもどこでも成り立つことである。因だけでも結果は生じない、縁だけでも結果は現れない。因と縁がそろって結果が生じる。これが因縁果の道理です。 米に例えると、米の因はモミダネです。モミダネだけでは、米はできません。モミダネが米になるには、水、土、日光などが必要です。これらを縁といいます。縁は、因が結果を生み出すのを助ける働きをいいます。 私たちの日常生活の因縁果の道理は、次のように教えられています。 善因善果(ぜんいんぜんか) 悪因悪果(あくいんあくか) 自因自果(じいんじか) よいタネをまけばよい結果が現れる。悪いタネをまけば悪い結果が現れる。 大根のタネをまけば大根が出てくる。スイカのタネをまけばスイカが出てくる。 まいたタネに応じたものが生えてくるということです。 自因自果とは、自分のまいたタネの結果は自分がかりとらねばならないということです。 ここで、因とは行い、果はわかりやすくいうと運命です。 よい行いをすればよい運命、悪い行いをすれば悪い運命が現れる。 よいのも悪いのもすべて、自分に現れる運命は、すべて自分の行いが生み出したものである。 仏教では、「よい結果がほしければ、よい行いをしなさい。悪い結果が嫌ならば、悪い行いをやめなさい」と廃悪修善(はいあくしゅぜん)を教えられています。 仏教の「縁起」は「縁起がよい」「縁起が悪い」を否定する 因縁果の道理を仏教では「縁起」といいます。仏教の「縁起」は、吉(善果)は、よい行いが生み出すものであり、凶(悪果)は、悪い行いが原因であると教えます。ですから、仏教では、縁起をかつぎません。 仏教は、今日はもともといい日だった、もともと悪い日だったという日の善悪を否定しています。カレンダーに「仏滅」とあると、仏教と関係があると思いがちですが、仏教では、仏滅の日だからといって、悪い日とは教えていません。廃悪修善の心がけ次第、「日々これ好日(こうじつ)なり」、毎日、心がけ次第でよい日になる、これが仏教の「縁起」です。 まとめ 廃悪修善に心掛けて、自分で「縁起」をコントロールしましょう。

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「天上天下唯我独尊」 お釈迦さまの誕生日は4月8日

4月8日は、仏教を説かれたお釈迦さまの誕生日です。 「花祭り」といい、小さな釈迦像に甘茶をかけているのを見たことのある人もあるでしょう。 この日を「花祭り」と祝うのは、お釈迦さまがルンビニーという花園で誕生されたからです。 このご生誕にまつわるお言葉から、今回は、私たちの生まれてきた意味を学びましょう。 苦しみの世界を離れて 当時、インド北部で栄えた釈迦族の長・浄飯王と后のマーヤー夫人には、永らく子供が恵まれなかった。ところがある時、待望の世継ぎが授かったのである。月満ち、初産であった夫人は、故郷の隣国へ里帰りした。その帰途にあったルンビニーの花園で、突如、産気づいた夫人は、後の仏陀、釈迦牟尼となるシッダルタ太子を出産される。 この時、太子は、東西南北に7歩ずつ歩まれて、右手で天を、左手で大地を指さしてこう宣言されたといわれる。 天上天下 唯我独尊 三界皆苦 吾当安此 (天上にも地上にも、人間〈我〉のみの独尊あり。人生〈三界〉はみな苦なり。吾〈釈迦〉当に此を安んずべし) いかにお釈迦さまでも、生まれてすぐに歩かれたり、話されたりするはずはありません。この話は何を示唆しているのでしょう。 まず、東西南北に7歩ずつ歩まれたとは、6より1多い「7」に意味があります。私たちの生命は「六道」という迷いの世界を輪廻している、と仏教では教えられています。 「六道」とは「六界」ともいわれ、次の6つの迷界のことです。 ○地獄界──最も苦しみの激しい世界 ○餓鬼界──餓鬼道ともいう。食べ物も飲み物も皆、炎となって食べられず飲まれもせず、 飢えと渇きで苦しむ世界 ○畜生界──犬や猫、動物の世界。弱肉強食の境界で、常に不安におびえている世界 ○修羅界──絶えない争いのために苦しむ闘争の世界 ○人間界──苦楽相半ばしている、我々の生きている世界 ○天上界──六道の中では楽しみの多い世界だが、迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある 7歩歩まれたとは、この6つの迷界(苦しみの世界)から1歩、出て離れることを表します。すべての人に、人間に生まれた目的は、この六道を出離して真の幸福になることであることを示されたのです。これが「7歩」の意味です。 「ただ私だけが尊い?」 続けてお釈迦さまは、「天上天下 唯我独尊」と仰います。一般には、「ただ自分(釈迦)だけが偉い」という意味だと思われていますが、そうではありません。 「実るほど 頭の下がる 稲穂かな」といいます。世界の三大聖人のトップに挙げられるお釈迦さまのような方が、自ら“オレは偉いんだ”などと言われるでしょうか。 これは「唯我独尊」の「我」をどう理解するかで意味が変わってきます。「我」は釈迦だけではなく、私たち人間のこと。釈迦自身を表す「われ」は、この後の四句目「吾当安此」の「吾」ですから、ここでお釈迦さまは、 「ただ我々人間にのみなしうる、たった一つの尊い目的(独尊)がある」と仰っているのです。 我々人間の命に差別はなく、皆、平等に尊いということです。 「人間に生まれてよかった」 ──盲亀と浮木のたとえ 生命の尊厳を、お釈迦さまはこうも仰っています。 「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。 この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」 (生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞けてよかった。今、この世で生きる目的を果たさなければ、いつの世でできるであろうか。永遠の幸せになるチャンスは今しかない) 「人身受け難し、今已に受く」 とは、生まれ難い人間に生まれることができてよかった、という生命の歓喜です。 いかに人間に生まれ難いか。お釈迦さまは『雑阿含経』に、有名な「盲亀浮木の譬喩」で説かれています。 ある時、お釈迦さまが 「例えば、大海の底に1匹の目の見えない亀がいて、100年に1度、海上に浮かび上がるのだ。その海には、1本の浮木が流れている。その木の真ん中にはひとつ、穴が開いている。目の見えない亀が100年に1度、浮かび上がった時、ちょうどその浮木の穴へ頭を突っ込むことがあるだろうか」 と尋ねられた。阿難という弟子が、 「そんなことは毛頭、考えられません」 と答えると、お釈迦さまは、 「誰でも、そんなことはありえないと思うだろう。だが何億兆年よりも永い間には、絶対にない、とは誰も言い切れない。人間に生まれることは、これよりも難しい。有り難いことなのだよ」と仰っています。 私たちが日常、口にする“ありがとう”は、仏教から出た言葉で、本来は“有ることがまれである”の意味です。 「他人から何か施してもらうことは、めったにない、有り難いことである」 ということで、ここから転じて「ありがとう」が感謝の言葉となったのです。 人間に生まれたことはいかに有り難いか、数の上から考えてみましょう。 例えば地球上には、およそ137万種の動物が確認されており、未発見の生物種も含めれば800万種以上ともいわれます。 その中の1種、魚のマンボウだけでも、メスが一度に産む卵の数は3億個。人間とは比較にならぬ個体数が生息しており、全ての動物の総数となれば、計測不可能でしょう。そういうありえないほどの確率で生まれた命ですから、親鸞聖人が大変、尊敬されている平安時代の高僧・源信僧都は、「まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり」と人間に生まれたかけがえのない命を喜んでおられます。 「仏法聞き難し、今已に聞く」 と続くのは、生まれ難い人間に生まれた意味を説く仏教を聞いてこそ、命の尊厳が真に知らされますから、聞き難い仏法が聞けてよかった、の喜びとなります。 どんな人もこの世で最高の幸福になれる 「天上天下 唯我独尊」のあとにお釈迦さまは、 「三界皆苦 吾当安此」と言われています。 「三界」とは、「苦海」「苦界」ともいわれ、私たちが住む世界を、三つに分けて教えられています。 ○欲界──さまざまな欲望のみで生きている世界 ○色界──「色」とは物質のこと。分かりやすく言えば、絵画や彫刻、音楽、文学などの芸術の世界。やはり苦悩の世界 ○無色界─物質を超越した精神の世界。いわゆる哲学、思想の世界。三界の中では最も高尚だが、「人生の目的」「真の幸福」は明らかにされていない いずれも苦しみ迷いの世界ですから、「皆苦(皆、苦なり)」と言われます。 「三界は火宅の如し、安きことなし」とも経典に説かれています。 しかし、お釈迦さまは、この三界にいながら、誰もが本当の幸福になれるのだよ、と 「吾当安此(吾当に此を安んずべし)」 と仰います。仏教を聞けば、苦しみの六道を離れ、どんな人も本当の幸せになれることを、ここで断言されているのです。 先の「人身受け難し」のお言葉では、「この身今生に向って度する」と表されています。 「此を」「この身」「今生に」とは、いずれも「この世で」ということであり、「安んず」「度する」が本当の幸福になったこと。生きている今、男女、年齢、貧富の差、人種や民族に関係なく、誰でも絶対の幸福になれる。これが、私たちが人間に生まれてきた本当の意味であり、今がこの幸せになれる最大のチャンスです。仏法を聞けば、「天上天下、この広い大宇宙で、今、私が生まれてきたのは、この幸せになるためであった」と心から喜べる人生が開かれるのですよと、釈迦誕生のエピソードで教えられているのです。

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「因果応報」を味方につける 今、この瞬間から運命が好転する6つの秘訣

運命について使う「因果応報」とは、仏教の言葉です。 悪事を働いて生きてきた人が、最後に破滅したような時に言うことが多いかもしれません。 しかし、実は悪い時ばかりに使う言葉ではないのです。 今回は「因果応報」という言葉から、仏教で教えられる運命のしくみについてお話しします。 今日から確実に運命が好転する「因果応報」を味方につけるとは、どんなことでしょうか。   目次 ・70歳からでも人生は変えられる ・因果応報──因(行い)に応じた果(幸・不幸)が現れる ・幸せになれる6つのタネまき──六度万行 ・縁を選ぶことも大事 70歳からでも人生は変えられる 「今日の運勢は……」 朝一番のテレビから聞こえてくると、ちょっと知りたくなります。“運命はどうして決まるのか”はどんな人もいちばん知りたいことでしょう。その最大関心事について、仏教は実に論理的に説かれていることをご存じですか。 19世紀ドイツの哲学者、ニーチェも、仏教についてこう称賛しています。 「仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう」 仏教では、今の自分の運命は過去の自分の行為が生み出したものであり、今の行為が未来の運命を生み出すのですよ、と教えられています。   カーネルおじさんが教えてくれたこと ところがそう聞いても、「理屈はそうだけど、今更行いを変えたって人生はそう変わるものじゃないよ」という方もあるでしょう。そんな思いは全く不要です。老若男女、貧富貴賤など全く関係なく、まいたタネ(行い)は、正直に結果を現しますから、何歳になっても人生を変えることができるのです。 町で見掛けるケンタッキー・フライドチキン(KFC)の入り口に、白いタキシードを着たおじさん(カーネル・サンダース)の人形が立っています。 彼は40歳で、幹線道路沿いにガソリンスタンドをオープンし、その一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー「サンダース・カフェ」を始めた。途中で息子の死、火災に遭うなどの困難を乗り越え、51歳の時には、147席のレストランを再建。客席を回り「私の料理がもしおいしくなかったら、お代は要りません」と意見を聞きながら、フライドチキンのオリジナル・レシピを完成させた。 ところが65歳の時、町外れに高速道路が通ると、車と人の流れが変わって、客が来なくなり、閉店を余儀なくされた。無一文になったサンダースは、ワゴン車で寝泊まりしながら各地を回り、フライドチキンのレシピを売り、1本売るごとに幾らかの利益をもらうビジネス(フランチャイズ)契約を取りに回った。1009回の断りを受け続けたが、73歳までにサンダースのフライドチキンを提供する店は600店舗以上になった。その後、自分の調理法が正しく行われ、きちんと提供されているか、年間数十万キロの移動もいとわず世界の店舗を見て回った。 現在、ケンタッキー・フライドチキンは世界で約1万8千店舗あります。 6歳で父が亡くなり、女手一つで3人の子供を養う母を助けるために、家族にパンを焼いて大喜びされたのが7歳の時。「おいしいもので人を幸せにしたい」との熱い思いが、フライドチキンとなって世界中に広まったのです。 「人生は自分でつくるもの。遅いということはない」(サンダース) 幾つになってもあきらめなければ、必ず道は開かれるのです。   *ニーチェ……ドイツの哲学者。当時、圧倒的に力のあったキリスト教に対して 「神は死せり」と宣言したことで有名 *「仏教は、~」……『キリスト教は邪教です!』ニーチェ(著)適菜収(訳) 因果応報──因(行い)に応じた果(幸・不幸)が現れる その運命の法則を仏教では「因果応報」という言葉で表しています。 「因果応報」は、仏教の根幹の教えである「因果の道理」から出た言葉です。 根幹とは、根や幹ということ。仏教を一本の木とすると、根っこがなければ、木は枯れ、幹を切ったら、木は倒れてしまいます。 ですから根幹の「因果の道理」が分からなければ、仏教の教えは一切分かりません。 では「因果の道理」とはどんなことでしょう。 「因果」とは、原因と結果ということ。 どんな結果にも、必ず原因がある、原因なく結果が現れるということは、万に一つもない。飛行機が墜落して海底深く沈んでしまった場合など、原因が分からないことはありますが、原因が“ない”のではありません。 それは、「運命が、何によって決まるのか」という誰もが知りたい問いについても例外ではありません。 「あの人は運がいい」とか、「あいつは運が悪い」とよく言いますが、運命というのは何の原因もなく、ただの偶然で決まるものではないのです。 運命の原因と結果についてお釈迦さまは、このように教えられています。  善因善果(ぜんいんぜんか)  悪因悪果(あくいんあくか)  自因自果(じいんじか) ここで因とは行い、果は運命を表しています。善い行いは善い運命となり、悪い行いは悪い運命を引き起こす。例えば植物なら、ダイコンのタネをまけばダイコンが、スイカのタネからは、スイカが出てくるということです。これは、いつの時代でも、どこの場所でもそうでしょう。江戸時代には、ダイコンのタネからカボチャの芽が出たはずだ、とは誰も思いません。同様に私たちの運命も、いつでもどこでも必ず原因(行為)に応じた結 果が現れるということです。 そして善いのも悪いのも、自分のまいたタネ(行為)は自分が刈り取らねばならないのだよ(自因自果)、とお釈迦さまは教えられました。 これを「因果応報」ともいうのです。 幸せになれる6つのタネまき──六度万行 では、どんなタネをまけば善果が得られるのでしょう。お釈迦さまは、たくさんの善を、具体的に誰にでもできる6つにまとめて教えられています。これを「六度万行」といわれます。次の6つです。 六度万行 ・布施(ふせ)   ── 喜捨(きしゃ)ともいわれる。親切のこと ・持戒(じかい)  ── 約束を守ること、言行一致 ・忍辱(にんにく) ── 苦しみに耐えていくこと、忍耐 ・精進(しょうじん)── 目的達成に向かっての努力 ・禅定(ぜんじょう)── 心を静め反省する ・智慧(ちえ)   ── 前の5つをまとめたもの、修養 この6つの善行が、運命を好転させる行いであり、このうちの、どれか1つを行うと、他の5つ全てを修めたことになると教えられています。お釈迦さまは自分ができそうな善を、まず実行しなさいと勧められました。 今回はその最初に挙げられる「布施」について解説いたします。   布施について 「布施」には大きく分けると、お金や物、無償の労働などを施す「財施(ざいせ)」と、正しい教えを説く「法施(ほうせ)」がありますが、最も身近で、物やお金を持たなくても、誰もが心掛け一つでできる和顔愛語(わげんあいご)という布施行を紹介します。 和やかな顔で接し、優しい言葉をかけることです。 高齢になり、施設に入って元気のなかったおばあさん。朝、施設の職員が部屋の窓を開けると、通学途中の子供が元気に笑顔で挨拶をしてきた。その子供たちに心を開いたおばあさん、毎朝、窓を開けて自分からも挨拶することを楽しみにし、リハビリにも積極的になって、施設職員をも喜ばせたという話があります。 子供の笑顔が、おばあさんを元気にし、おばあさん自身も笑顔で挨拶することで健康を回復させ、周りの人も幸せにしたのですね。 ある元警察官は、毎朝、庭から道行く人に挨拶をしています。それは、近所の人と心を通わせるだけでなく、犯罪を抑止して安心を得るためだそうです。 泥棒が犯行をあきらめる一番の理由は「近所の人に声をかけられた」「近所の人に顔を見られた」から。 あるホームセンターでは、店員がお客さんに笑顔で挨拶するようにしたところ、年間の万引き被害額が30パーセント減ったといいます。 どんな対策も、思うように効果が上がらず頭を抱えていた犯罪が、笑顔と挨拶で減らせるようになったのですから、善因善果、自因自果、和顔愛語の力が知らされます。 相手を思って声をかければ、犯罪を犯すようなささくれだった心をも癒やすのでしょう。   小さな善行を続ければ人生が変わる 「そんなささいなことで、変わるもんじゃないよ」という声も聞こえてきますが、小さなタネでもやがて大きな結果となります。樹齢2000年ともいわれる屋久島の縄文杉は、大人十数人が手をつないでようやく囲めるほど、太く大きい幹のものがあります。しかしそのタネは米粒よりも小さなタネ。そんな小さなタネから、時間がたつと考えらないほどの大きな樹木に育つのです。 ほんの少しの笑顔や挨拶、優しい言葉をかけることは、ささいなことのようですが、そのタネまきは人生を大きく飛躍させる可能性を持つのですね。 いつでもどこでも変わらない因果の道理を深く信じ、従って、どんな小さな善でも心がけていけば、必ず善果が現れ、幸せな毎日が送れるようになる。「因果応報」を味方につけるとは、このようなことです。だから今日から、否、ただ今から、少しでも善いタネまきを実践していきましょう。   縁を選ぶことも大事 ところで、原因が結果となって現れるには「縁」というものが必要です。原因が結果となって現れるのを助けるものが縁です。 簡単な例を紹介すれば、コシヒカリという品種のおいしい米のモミ種でも、育てる地域によって、米の味は変わります。同じタネでも縁によって結果は大きく変わりますから、縁を選ぶことも大事なこと。縁については、別の記事で解説したいと思います。   まとめ 運命の一切は自分のまいたもの、まかぬタネは生えぬと反省し、一つ一つ誠心誠意、できることから着実に対応していけば、人生、思わぬ道が開けてくるものです。

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「渡りに船」とは仏教の素晴らしさを表す表現だった

「渡りに船」とは 「渡りに船」ということわざを耳にされたことはあるのではないでしょうか。意味は「ちょうどよいタイミングでことが運ぶこと」「何か行動しようとしている時ちょうど都合よく助けがあること」「期待し待ち望んでいる時に都合のいい時機が訪れること」、そういうことがあった時に、例えとして言われる言葉です。 この「渡りに船」とは、もともとは仏教の経典に書かれている言葉でした。   目次   ・仏教のどの経典に出ているのか   ・柴又帝釈天(題経寺)帝釈堂   ・「渡りに船」とは仏教の素晴らしさを表す表現   仏教のどの経典に出ているのか 「法華経(ほっけきょう)」という経典の「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじぼん)」、略して「薬王品(やくおうぼん)」に出ています。「薬王品」とは、仏教では「品」とは「章」、英語でいうと「チャプター」のことで、薬王という菩薩のことが書かれている章なので、薬王品といわれます。 経典の原文を紹介します。 一切衆生(しゅじょう)とは、すべての人のことです。 この経はよく一切衆生を救うものなり。 この経はよく一切衆生をして、諸の苦悩を離れしむるなり。 この経はよく大いに一切衆生を饒益(にょうやく)して、その願を充満せしむること、   清涼の池のよく一切の諸の渇乏せる者を満たすが如く、 (涼しく清らかな水が溢れている池に行けば、渇いたのどを潤すことができるばかりか、池からの涼しい風により、身が冷まされるように) 寒き者の火を得たるが如く、 (寒さに震える者が体を温める火を得たように) 裸なる者の衣を得たるが如く、 (裸の者が衣服を得たように) 商人の主を得たるが如く、 (旅の商人の前に案内者が現れて販路が開けたように) 子の母を得たるが如く、 (迷子が母親にめぐりあったように) 渡りに船を得たるが如く、 (渡し場で船を得たように) 病に医を得たるが如く、 (病の者がよき医師に出会ったように) 暗に燈を得たるが如く、 (暗闇の中での灯火のように) 貧しきに宝を得たるが如く、 (貧しい者が宝を得たように) 民の王を得たるが如く、 (民衆がよき指導者に恵まれたように) 賈客の海を得たるが如く、 (賈客が海を渡る船を得たように) 炬の暗を除くが如く、 (炬が暗闇を除くように)   この法華経もまた、かくの如し。 この中に「渡りに船」とあります。(太文字になっています)   柴又(しばまた)帝釈天(たいしゃくてん) (正式には題経寺(だいきょうじ))の帝釈堂(たいしゃくどう) 『男はつらいよ』をご存知の方でしたら、柴又と聞かれたら、ピンとくるかもしれません。『男はつらいよ』は、主人公の「フーテンの寅さん」こと車寅次郎が、生まれ故郷の東京都葛飾区柴又・柴又帝釈天の門前にある草団子屋に戻ってくるところから始まっています。それで、柴又帝釈天を聞いたことのある方も多いと思います。 この柴又帝釈天(正式には題経寺)は、『男はつらいよ』だけではなく、「彫刻ギャラリー」も有名です。その「彫刻ギャラリー」の中に、この法華経の内容を、彫刻にしたものがあります。彫刻では、暗闇の中の光(左上)、渡りに船(中央)、寒さの中で得た焚き火(中央下)、子どもの不安を拭い去る母(右)が表現されています。   「渡りに船」とは仏教の素晴らしさを表す表現 私たちは、毎日の生活の中で、いろいろと困ること、また、苦しいことがあります。どうすれば、この困難、苦しみを乗り越えることができるか、考えています。そんな時に、的確な解決方法を示す人があれば、まさに「渡りに船」といえます。 仏教を説かれたお釈迦様は、一人一人の悩みを聞かれて、その解決方法を示され、多くの人の苦しみを抜いていかれました。人間の悩みは、100人いれば100通り、1000人いれば1000通りあります。一人一人悩みは違いますので、お釈迦様、その人その人に応じて、教えを説かれました。これを、機毎機毎(きごときごと)、対機説法(たいきせっぽう)、応病与薬(おうびょうよやく)といいます。 機毎機毎とは、機とは人のことで、その人その人に、ということです。対機説法とは「機に対して法を説く」と読んで、その人その人に応じて、解決の方法を説かれたということです。応病与薬とは「病に応じて薬を与える」と読み、病と薬の例えで説明されています。 その結果、お釈迦様の説かれたお経の数は、7000冊以上となりました。 お釈迦様は、7000以上の「渡りに船」を与えて、苦しみの絶えない人生の海を、明るく楽しく渡されたのでした。まさに「渡りに船」とは仏教の素晴らしさを表す表現だったのです。

諸行無常
平家物語は仏教を知ったらもっと深く味わえるようになる

平家物語の冒頭 平家物語の冒頭は、幼い頃に覚えた人も多いと思います。 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 諸行無常とは、諸行とはすべてもの、無常とは、つづかないということですから、すべてのものは、つづかないという意味です。 平家物語では、平清盛一代で天下をとった平家があっという間に滅びていく姿から、平家一門だけではなく、すべてのものは無常なんだと訴えられています。 平家物語のテーマは「無常観」 平家物語は「無常観」が強く打ち出されています。 無常観とは、無常の現実を明らかに観ていきなさいよということです。 西洋でも「メメント・モリ」ということわざがあります。 メメント・モリとは、ラテン語で、英語に翻訳すると「メモリー モータル」、直訳すると、「死を忘れるな」という意味です。これも「無常観」といえます。 鎌倉時代には、平家物語だけでなく、「徒然草」「方丈記」など、「無常観」の強い本がたくさん書かれているようです。 実は、仏教も「無常観」が強いです。諸行無常は、もともと仏教の言葉なんです。 平家物語と仏教は「無常観」で共通しています。 「無常観」を教えた仏教を知ると、平家物語がもっと深く味わえるようになるのは、その為です。実際、平家物語を最後まで読みますと、仏教の話が出てきます。 親鸞聖人は幼くして両親と死別されている 平家物語と同じ鎌倉時代に生を受けた親鸞聖人は、4歳の時にお父さん、8歳の時にお母さんを亡くされ、幼くして、無常の現実を見せつけられました。 9歳の時、仏門に入る際、このような歌を詠まれています。 明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは 親鸞聖人は咲き誇った桜がやがて散っていくことを通して、世の中の無常、また、自分もやがて死んでいかねばならないことを見ていかれました。 無常を観ずると幸せになれる?? 仏教では、 無常を観ずるは菩提心の一なり。 という有名な言葉があります。 菩提心とは、本当の幸せになりたいという心です。 無常を観ずる、見ることは、本当の幸せになる第一歩であるということです どうして無常を見つめることが本当の幸せになる第一歩になるのか。 それどころか、無常を見つめることは、悲しいことではないか、考えない方が幸せになれるのではないかとさえ思います。 「一期一会」の考え方 仏教を語源とする有名な四字熟語に「一期一会」があります。 一期一会とは、一期とは一生、一生に一度の出会い。 一生に一度の出会いだから、この出会いを大切にしましょうということです。 また会える、ずっといると思うと、嫌なところが見えてきて、心が苦しくなることもあるかもしれません。今日が最後かもしれないと思えば、我慢できないことも我慢できる、今日だけならば、優しい言葉もかけられるようになります。 私たちは、ついつい、今の状態がいつまでも続くと思いがちです。嫌なことがあると、それがずっと続くように思ってしまうと、心が一層、苦しくなります。無常を観ずることで、いつまでも続くのではないんだよと心の向きを変えてくれます。そして、それまで当たり前と思っていたものが、決して当たり前ではないと知らされ、不満の心から感謝の心に変わることがあるのです。 いつまでも続くと思っていたのが、いつまでも続かないと心が変わることによって、世界の見え方が変わってきます。 「無常を観ずるは菩提心の一なり」の更なる深い味わい これだけでも、幸せの気づきを与えてくれるのですが、「無常を観ずるは菩提心の一なり」は、さらに深い意味があります。 テストも仕事も締め切りがあると、締め切りまでの時間を大切にしようと思います。 無常を観ずると、人生が限られていることに気づきます。すると、限られた人生を大切にしようという心が起きるのです。 限られた人生を大切にしようと思うと、 自分の人生にとって、本当に大切なことは何か、考えるようになります。 本当に大切なこととは 「人間は考える葦である」で有名なフランスの哲学者パスカルは あと一週間の命なら、何をするか。それを一生かけてやりなさい と言っています。 あと一週間の命だったら何をするでしょうか。毎日やっていることの大半のことは、やらないかもしれません。あと一週間しか命がないから、本当にやりたいことをやりたい、仮に旅行なら、本当に行きたいところへ行きたい、仮に誰かと会うなら、本当に会いたい人に会いたい、と思います。 では、本当にやりたいことは何か、これ一つやったらいつ死んでも悔いなしといえるものは何か、本当に大切なことは何か、何が本当の幸せなのか。 「無常を観ずるは菩提心の一なり」 無常を観ずることで、私が本当にやりたいことは何か、本当の幸せとは何か、考えるチャンスが訪れます。だから、無常を観ずることは、本当の幸せを考え、本当の幸せになる第一歩なのです。 平家物語を学ぶことにより、その第一歩が始まる方もあるかもしれません。 仏教では、本当の幸せとは何か、教えられていますので、平家物語と一緒に少し学んでみてはどうでしょうか。

パスポート
海外で「私は宗教を信じていません」はNGの理由

アメリカ留学説明会でビックリする話 アメリカに留学したことがある友人から聞いた話です。 留学前の説明会で “「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれたら 「何も信じていない」と答えないでください。 何かの宗教を信じている人はそれを答えてください。 何も信じていない人は仏教、Buddhism と答えて下さい。” こんな説明があって、「なぜそう答えなければならないんだ」とビックリしたとのこと。 また、イスラム教を国教としている国の中で、入国書類に「宗教」の欄がある国があります。 入国する時に聞かれるのです。 「あなたは何の宗教を信じていますか?」と。 日本の常識は世界の非常識 「日本の常識は世界の非常識」という言葉がありますが、その一例です。 日本では、自己紹介、初対面の時に、「宗教」「政治」などに関する話題は、避けるようにします。 初対面で「あなたは何の宗教を信じていますか?」と聞かれたら、引いてしまいます。 しかし、世界では、自己紹介の段階で、「宗教」を聞かれるのです。 それは、それぞれの宗教にタブーがありますから、相手に失礼なことをしない為の礼儀なのです。 ヒンズー教の人は、牛はダメとか。 イスラム教の人は、豚はダメ、アルコールはダメ。 「ハラール認証」という言葉も、最近、日本で普及してきました。 「何も信じていない」=「テロリスト」 では、なぜ「何も信じていない」と答えてはいけないのか。 「ウソをつくのはよくない」 「仏教を信じていないのに、私の宗教は仏教と答えるのに、正直、抵抗がある」 そのように思われる方もあると思います。 実際にあった話だそうですが、 ある日本の若者が、1人で、サウジアラビアに入国しようとしました。 入国書類の宗教の欄に、正直に「NONE」と書きました。 「私は何も信じていない」と。 入国できるどころか、別室に連れていかれて、そのまま、その日のうちに、強制送還されてしまいました。 イスラム教やキリスト教を信じている人が多い国では、天地創造の神を信じている人が多いです。 そういう人から見ると、何の宗教も信じない、神をも信じぬ者は、どんな秩序も認めない、恐ろしい者、テロリストと同じように思われる訳です。 入国したい、また留学先で人間関係を広げたいと思ったら、「NONE」と答える選択肢は無いようです。 「仏教」を知っておきましょう。 では「仏教」と答えれば、その場は、乗り切れるかもしれませんが、相手が関心を示して、 「仏教には、どんなことが教えられていますか?」 と尋ねられたら、どうしましょう。 仏教には、どんなことが教えられているか、 少しでも知っていれば、自信をもって、「仏教」と答えることができるのではないでしょうか。 今後、ますます国際化が進んでいきます。 東京オリンピックも間近です。少子化問題の対策に、AIとともに、外国人労働力も候補に挙げられています。 日本の歴史、文化は、仏教と関係が深いです。 仏教を知ることで、日本、日本人とは何か、改めて知る機会が得られます。 ただ、表面的に学ぶだけでなく、私たちの毎日の生活に、プラスを与えてくれる考え方のヒントが たくさんありますので、仏教を少し学んでみては、いかがでしょうか。

どうして仏教では合掌するのでしょうか。
どうして仏教では合掌するのでしょうか。

(質問):どうして仏教では合掌するのでしょうか。 (答え) 海外の人が日本に来て驚くことの一つに、日本人が合掌する姿だそうです。東南アジアのキックボクサーが、試合開始の時に、合掌しています。合掌は、仏教と関係深い作法なのです。 仏教では、合掌とは、両手をあわせて仏を拝む時の礼法をいいます。仏教はインドで説かれました。当時のインドでは、右手は清浄、左手は不浄を表します。それで、仏教では、右手が仏、左手は衆生(しゅじょう)、人々を表しています。この右手と左手を合わせることで、仏と衆生が一つになって、仏に成るという意味があります。 仏教で、仏を礼拝する時は、合掌します。また、僧侶があいさつする時も合掌しています。合掌で、相手を敬い、感謝の意を表しています。 手紙では、普通、拝啓や前略から始めますが、仏教では、合掌から始めるのも、その理由だからです。 食事の時に、食前、食後に、合掌しています。これは、食事を作った人、また、食材を育てた人、ひいては、自然の恵みまで含めて、感謝を表しています。 寺によっては、ただ合掌して「いただきます」だけでは、物足りない、寂しいので、食前の言葉、食後の言葉を決めているところもあります。 食前の言葉 「ありがたき今日のご縁に感謝して、いただきます」

「娑婆の空気はうまい」の「娑婆」は仏教から出た言葉
「娑婆の空気はうまい」の「娑婆」は仏教から出た言葉

(質問):「娑婆の空気はうまい」の「娑婆(しゃば)」は仏教から出た言葉と聞きましたが、「娑婆(しゃば)」とは、どんな意味でしょうか。 答え 映画等で、刑務所から出た人が「娑婆の空気はうまい」と言っている場面が出てきます。では、娑婆とは、刑務所から出た世界のことを言うのでしょうか。 これは、本来の意味ではありません。「娑婆」とは、仏教から出た言葉です。「シャバ」とは、昔のインドの言葉で、それを漢字で音表したのが「娑婆」です。中国の言葉では「堪忍土」と訳されます。堪忍土とは、私たちが生きている世界のことをいいます。 どうして、私たちが生きている世界を堪忍土というのでしょうか。この世界は、苦しみ悩みが絶えないので、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍んで生きていかねばならないので、堪忍して生きていく世界、堪忍土といわれます。 娑婆に対して、苦しみ悩みのない世界を極楽とも浄土ともいいます。 それがどうして「娑婆の空気はうまい」という使われ方をするようになったのでしょうか。これは、刑務所に入っている人にとっての外の自由な世界を意味しています。 江戸時代、遊郭は男性にとって楽しいところだったので、娑婆に対して、極楽に例えていました。しかし、遊郭で働く女郎からは、遊郭の外の世界、娑婆こそ自由の世界ということで、娑婆とは、外の自由な世界を意味するようになりました。 合宿等で閉じ込められたり、人里離れた地に異動になり、余り自由のきかない生活をしている人が「早く娑婆に戻りたい」という人もあります。 本来、仏教は、娑婆に戻るのではなく、娑婆をこの世から極楽にする方法が教えられているのです。

仏教で蓮の花がよく出てくるのはどうしてでしょうか。
仏教で蓮の花がよく出てくるのはどうしてでしょうか。

(質問):仏教で蓮の花がよく出てくるのはどうしてでしょうか。 (解答) 日本では、花といえば「サクラ」といわれます。 仏教で、花といえば「蓮の花」です。極楽の絵には、蓮の花が描かれています。 なぜ極楽に蓮の花が咲いているのでしょうか。 それは、阿弥陀経に、説かれているからです。   極楽には、蓮の華が咲いていると説かれています。また、仏様の像を見ますと、蓮の台に立っておられます。 どうして蓮の花が咲いていると説かれているのでしょうか。 それは、蓮の華が、極楽へ生まれられる人の心の特徴を表しているからです。 「蓮華の五徳」で教えられています。 蓮華の五徳とは 蓮華の五徳とは、蓮の花の五つの特徴ということで、五つの特徴で、極楽へ生まれられる人の心を説明されています。 1 淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく) チューリップやヒマワリは、陸地に咲いています。 淤泥とは、淤も泥も泥田ということで、蓮の花は、高原陸地に咲くのではなく、どろどろの泥田に咲きます。しかし、蓮の花は、泥に染まらぬきれいな花を咲かせます。 2 一茎一花の徳(いっけいいっかのとく) 一つの茎に一つの花を咲かせます。 アサガオは、一つの茎にたくさんの花を咲かせます。チューリップやヒマワリと同じように、蓮の花も、一つの茎に一つの花を咲かせます。 3 花果同時の徳(かかどうじのとく) 蓮の花は、一度に開きます。そして、咲くと同時に実ができています。 サクラの花は、三分咲き、五分咲き、八分咲き、満開と、だんだん開いていきますが、蓮の花は、バサッと一度に開きます。 そして、開いた時には、実ができています。リンゴの花は、花が散ってから、だんだん実ができて、大きくなります。 4 一花多果の徳(いっかたかのとく) 一つの花にたくさんの実をつけています。リンゴの花は、一つの花に一つの実をつけますが、蓮の花には、たくさんの実があります。 5 中虚外直の徳(ちゅうこげちょくのとく) 蓮の花の茎の特徴です。茎は、レンコンのように、中に、いくつかの空洞があります。これが中虚ということです。 外直とは、まっすぐということです。アサガオのように、ぐねぐねしているのではなく、チューリップのように、茎はまっすぐです。 この蓮の花の五つの特徴で、極楽へ生まれられる人の心を説明されています。これを、正しい信心といいます。この正しい信心を教えられているのが「正信偈(しょうしんげ)」といいます。正信偈とは、正しい信心の偈(うた)ということで、正しい信心を教えられています。 生きている時に、正しい信心を獲た人は、極楽へ生まれられるので、極楽には、蓮の花が咲いていて、極楽に生まれる人は、蓮の台に忽然と生まれると説かれています。これを「蓮華化生(れんげけしょう)」といいます。 では、正しい信心とは何か。親鸞聖人は、詳しく教えられています。

お釈迦様の誕生日を祝う「花まつり」
お釈迦様の誕生日を祝う「花まつり」

キリストの誕生を祝うクリスマスは、12月25日で多くの人に知られています。世界の二大宗教といえば、キリスト教と仏教。仏教を説かれたお釈迦様の誕生日を知っている人は、どれだけあるでしょうか。 お釈迦様の誕生日は4月8日 お釈迦様は4月8日に誕生され、昔から「花まつり」として祝われています。どうして「花まつり」と言われるのでしょうか。それは、お釈迦様は、どのようにして生まれられたのかに、由来があります。 お釈迦様の誕生 お釈迦様は、今から約2600年前、北インド(現在のネパール)で、カピラ城の王様の子供として、誕生されました。父は浄飯王(じょうぼんおう)、母はマーヤー夫人です。 マーヤー夫人は、初産なので月満ちてから生家である隣国、拘利城(くりじょう)へ赴こうとカピラ城を出られましたが、行列がルンビニー園という花園に差しかかったところ、突然産気を感じ、玉のような男子を出産されました。 4月8日。時あたかも、ルンビニー園の花は満開で、その中で誕生されたことから「花まつり」といわれるようになりました。 生家拘利城へ行く必要のなくなったマーヤー夫人は、そのままカピラ城に帰還なされましたが、非常な難産だったため、産後7日目に逝去されました。 「花まつり」とは 「花まつり」は、いくつか呼び方があります。 灌仏会(かんぶつえ) 仏生会(ぶっしょうえ) 降誕会(ごうたんえ) 浴仏会(よくぶつえ) 龍華会(りゅうげえ) 花会式(はなえしき) 「花まつり」では、お釈迦様の像に甘茶をかけてお祝いします。 これは、お釈迦様がルンビニー園で生まれられる時、うぶ湯の為に、天に9匹の龍が現れ甘露の雨を降り注いだということに由来しています。それで、日本では、ある頃から、甘茶をかけるようになりました。 お釈迦様の像 「天上天下 唯我独尊」 お釈迦様が誕生した時、すぐに東西南北にそれぞれ7歩ずつ歩いて、立ち止まり、右手で天を、左手で地を指差し「天上天下唯我独尊」と叫ばれたとされています。「花まつり」で見るお釈迦様の像も、このときのポーズをしています。 7歩ずつの意味 7歩の7は「6+1」を意味しています。 6は六道、1は1歩出るということで出離(しゅっり)を表します。 六道(六界)とは、仏教で、六つの世界があると教えられています。地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界で、いずれも苦しみ悩みの絶えない世界なので、迷いの世界といわれます。この迷いの世界から出て離れて、幸せの世界へ往くことを、六道出離といって、それを、7歩で表わされているのです。 また、それが、天上天下唯我独尊の本当の意味につながります。 お釈迦さまの「天上天下唯我独尊」の本当の意味

弥勒菩薩
弥勒菩薩とは

(質問):弥勒菩薩の像は有名ですが、弥勒菩薩とは、どんな菩薩でしょうか。 (解答) 弥勒菩薩といえば、京都の広隆寺の弥勒菩薩像(木像)は特によく知られていて、国宝に指定されています。 それが上の写真です。「弥勒菩薩半跏思惟像」(みろくぼさつはんかしゆいぞう)と言います。 弥勒菩薩とは、あと一段で仏覚という等覚のさとりを得ている菩薩のことです。菩薩とは、仏のさとりを得ようと努力している人です。 一口にさとりと言いましても、低いさとりから高いさとりまで、全部で52の位があり、これをさとりの52位といわれます。 その52ある中の最高のさとりを「仏覚(仏のさとり)」、またはこれより上が無いので「無上覚」ともいいます。 「等覚」とは51段目のさとりをいいます。あと一段で仏ですから、ものすごい位です。 面壁9年で手足腐るほど修行した、あの達磨大師(だるまだいし)も30段そこそこであったといわれ、また、「頭のよいことにかけては、この人の右に出る者はない」と、親鸞聖人がおっしゃる中国の天台も、臨終に弟子から、「師はどれほどさとられましたか」と聞かれ、「9段目までであった」と告白しています。 51段までさとった弥勒菩薩が、いかに優れた菩薩か、お分かりになると思います。 今日も、弥勒信仰といって、弥勒に助けてもらおうと朝晩手を合わせ、給仕している人も少なくありません。 その弥勒菩薩が、あと一段上って仏のさとりを開くまでには56億7000万年かかると、お釈迦様はいろいろなお経に説かれています。 親鸞聖人は、弥勒菩薩より幸せになれる道があるのだよ、と教えられています。 (意訳) 本当にそうだったなあ!あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。全く弥陀の誓願不思議としかいいようがない。しかも、弥勒菩薩は56億7000年後でなければ、仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って仏のさとりが得られるのだ。 「真に知んぬ」とは、明らかに知らされたということです。何がハッキリ知らされたと仰っているのでしょうか。 「弥勒大士」とは、弥勒菩薩のことです。弥勒菩薩は、51段(等覚)のさとりを開いていることを、「弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に」と言われています。 弥勒は、大変優れた菩薩として有名で、世間には「弥勒様に助けてもらおう」と、手を合わせている“弥勒信仰”も少なくありません。 ところが、その弥勒菩薩でさえ、あと一段のぼって「仏覚」を開くまでには56億7000万年かかると、お釈迦様が説かれていることを、「龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし」と言われています。 「龍華三会の暁」とは、56億7000万年後のこと。 「無上覚位」とは、仏覚のことです。 菩薩の最高位である弥勒菩薩でも仏覚を開くまでには、気の遠くなる長期間かかることを示されています。 「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」 「念仏の衆生」とは、阿弥陀仏の本願を聞いて、本当の幸せになった人のことであり、親鸞聖人御自身のことでもあります。 「横超の金剛心を窮むる」とは、弥勒菩薩と同格の菩薩になったことをいいます。 弥勒菩薩と肩を並べる身になったことだけでも驚きですが、親鸞聖人はさらに、56億7000万年後でなければ仏覚に到達できぬ弥勒菩薩を尻目に、念仏者の親鸞は、この世の命終わると同時に無上覚(仏のさとり)を超証するのだ、と宣言なされています。 このことを和讃では次のように仰っています。 (意訳) 阿弥陀仏の本願に救われ、本当の幸せになった人は、弥勒菩薩と同格になる。そのうえ、死ねば必ず浄土へ往って、弥勒菩薩より先に仏のさとり(無上覚)を開くのだ。これほどの幸せがあろうか。 *補処……あと一段で仏のさとりを開く、51段目の高い悟り 親鸞聖人は、等覚の弥勒菩薩と比較されて、阿弥陀仏の本願に救われた幸せがいかにすごいか訴えられ、「早くこの親鸞と、同じ幸せな身になってくれよ」と念じておられるのです。

四苦八苦の語源は仏教
四苦八苦の語源は仏教

(質問):日常会話でもよく「トラブルの対処に四苦八苦した」と言いますが、四苦八苦の語源は、仏教にあるのでしょうか。 (答え) 四苦八苦の語源は仏教にあります。約2600年前、お釈迦様が35歳で仏のさとりを開かれた第一声は「人生は苦なり」でした。 人生の苦しみを四つに大別したものを「四苦」、それに四つ加えて「四苦八苦」と教えられています。 いずれの世、いずこの里でも受けねばならぬ人間の苦しみを、八つにまとめられたもので、お釈迦様自身も、王様の子として生を受け、文武の才能に恵まれながら、それでも無くならぬ苦に驚かれたのでした。 「四苦」とは、「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」の四つです。 ○生苦 ── 生きる苦しみ ○老苦 ── 老いの苦しみ ○病苦 ── 病の苦しみ ○死苦 ── 死の苦しみ そして、この四苦に、次の四つを加えて「八苦」といわれます。 ○愛別離苦── 愛する人や物と別れる苦しみ ○怨憎会苦── 会いたくない人や物に会わねばならぬ苦しみ ○求不得苦── 求めるものが得られぬ苦しみ ○五陰盛苦──「五陰」は肉体のこと。肉体あるがゆえの苦しみ。前の七つを総括したもの 生苦 生きる苦しみです。 「人生は地獄よりも地獄的である」と言ったのは芥川龍之介ですが、すべての人が苦しんでいる。 生きるために衣食住をそろえるのも大変ですが、たとえそれらが満たされても、親子や夫婦、友達や会社の上司、同僚らとの人間関係で苦しんでいる人が多いのではないでしょうか。 あらぬ誤解をされ悶々としたり、心ない一言に傷ついたり。 逆に「あんなこと言わなきゃよかった」と不用意な発言を後悔することもあります。 新聞の人生相談欄を読むと、「世の中には、そういう苦しみもあるのか」と驚くことがあります。 生きること自体の苦しみを「生苦」と言われるのです。 老苦 年を取ると、耳は遠く、目は薄くなる、髪も抜けるし歯も抜ける、腰が曲がって、物忘れはひどくなる。さっき薬を飲んだのを忘れる。「わしのメガネどこいった?」と眼鏡をかけながら捜す。リューマチやら神経痛やら関節炎やら、ちょっとつまずいて骨折すると、なかなか治らない。 美貌の衰えは、特に女性にとって耐え難い。世界の三大美女の一人・小野小町は、「面影の変わらで年のつもれかし たとえ命に限りあるとも」と歌っています。 鏡を見て、白髪が一本増えていると発見してさえ、食欲がなくなる。 「アンチエイジングだ」とシワやほうれい線を消す整形手術をしたり、脂肪吸引したり、エクササイズでなんとか体型を保とうとしても、限界がある。 「長生きすれば恥多し」で、美しい人ほど老苦は深刻なもののようです。 病苦 肉体は病の器、いつ病気になるやら分かりません。しかも、どんな病でも、自分のかかっている病が一番つらいと皆がそれぞれに思っているので、病の苦しみは「甲乙つけがたい」から病垂(置)の中に「丙」という字が使われているそうです(諸説あり)。 死苦 なんといっても嫌なものは「死」。放射能汚染が怖い、地震や津波は嫌だ、ガンになりたくない、というのも結局、「死」が恐ろしいからです。 愛別離苦 愛する人や物と別れる苦しみ。手に入れたものは、いつか手離さなくてはならない。 毎日きれいにお手入れしているこの肉体さえ、やがて焼いて灰になる。死んでゆく時には、金や財産、何も持ってゆけずに、独りぼっちで逝かねばならないのだ。 お釈迦様はこれを「独生独死 独去独来」(独り生まれ独り死に、独り去り独り来たる)と仰っています。悲しいことですが、誰も否定できる人はないでしょう。 怨憎会苦 怨み憎んでいる、嫌な人や物と会わねばならない。 あの人嫌やなあ、と思っている人とはよく会う。今日はこっちの道を行こうと思って行ったら、また会った。向こうも同じことを思っていた。あの人の隣の席にはなりたくない、端のほうに座って離れようと思っていたら、相手も同じでまた隣になる。難しいものです。 「あの人が吐いた息を、同じ部屋で吸うのも嫌」という人があるほど、これもひどい苦しみです。 試験や災害、事故に遭うのも、この怨憎会苦といえましょう。 求不得苦 求めても得られない苦しみ。世の中、自分の思いどおりになるものではありません。 「朝夕の 飯さえこわし やわらかし 思うままには ならぬ世の中」 「世の中は 一つかなえば また二つ 三つ四つ五つ 六つかしの世や」 と歌われているように、何かが得られても、何かが足りない。それぞれ置かれた立場で皆苦しんでいます。 五陰盛苦 五体満足、肉体あるが故に苦しむことで、これまでの七つをまとめたものです。 これら四苦八苦は、誰もが受けてゆかねばならぬ苦しみです。 仏教では古今東西の人類に共通したことが説かれています。 一つの苦しみを乗り越えてヤレヤレと思う間もなく次の苦しみがやってくる。これが人生の本当のところではないでしょうか。 これら苦しみ悩みの波が、次々と襲ってきてアップアップしているから、人生を「難度海」と海に例えて、親鸞聖人は教えられているのです。 私たちは、苦しむために生まれてきたのではなく、みんな幸せになるために生きているのではないでしょうか。 四苦八苦の波に揉まれ溺れ苦しんでいる私たちが、心から安心満足できる道が、どこにあるのでしょうか。 親鸞聖人は、教行信証の冒頭に「難思の弘誓は難度海を度する大船」と教えられ、苦悩の根元を断ち切り、難度海を明るく楽しく渡り、『人間に生まれてよかった』という本当の幸せになれる道を明らかにされています。

諸行無常
平家物語の冒頭で有名な諸行無常とは

(質問):平家物語の冒頭に 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とありますが、諸行無常とは、どういう意味でしょうか。 (解答) 「諸行無常」とは、仏教の大切な教えの一つです。 諸行とは、すべてのもの。無常とは、常が無いということで、続かない、変わらないものはないということです。ですから、諸行無常とは、すべてのものは続かないという意味です。 諸行の中には、私たちの日常生活で欠かせないもの、家、電化製品、パソコン、携帯電話、スマートフォンなど、入りますし、私たちの家族、友人、そして、私の健康、命も含まれます。 どんな物もやがては壊れる、生まれた者は必ず死ぬ。聞けば、誰もが納得することですが、自分だけは大丈夫という心はないでしょうか。その心があるので、自分の大事なものが壊れた時、大切な人と別れた時に、大変、苦しみ悲しむのです。 トンチで有名な一休和尚の話 トンチで有名な一休和尚にこのような話があります。 まだ一休が、周建(しゅうけん)といっていた七、八歳の時のこと。お師匠様が足利将軍から賜った自慢の茶碗を、和尚の外出中に兄弟子が落として割ってしまった。 兄弟子 「お師匠様の大事な茶碗が──!!」 周建(一休) 「禅僧がそれくらいのことで泣くなよ、情けないなぁ。しかたない。オレが壊したことにしてやるよ」 兄弟子 「本当か!?うまくお師匠様を丸め込んでくれたら、今度の法事で出るオレのまんじゅう、全部やるからな!」 周建は、出るやら出ないやら分からぬまんじゅうと引き換えに茶碗壊しの科人役を引き受けた。 やがて和尚が帰ってきた。「お師匠様、お帰りなさいませ」「おお周建か、今日もいたずらばかりしていたのか」 ニコニコ顔の和尚に「いいえ。今日は一日中、本堂で座禅工夫しておりました」 ぬけぬけと周建は言った。 人の生死これ如何 「本当は寝ていたのでないか」 怪しむ和尚に「いえいえ。一心不乱に座禅しましたが、いまだに解けぬ難問がありまして」と周建。 「何じゃそれは。言ってみよ」 「はい。それは人間すべて死なねばならぬのか、中には死なずにおれるのか、生死これ如何ということでございます」 「うーむ、生死これ如何か。それで周建分かったか」 「それが、まだ……」 「そうか。この際ハッキリ知っておくのだぞ。“生ある者は必ず死す”とお釈迦様も言われている。どんな英雄豪傑でも死は免れぬのじゃ」 「そうでありましたか。これで難問の一つが解けました。ありがとうございます」 「うん?まだ他にあるのか」。和尚が尋ねる。 物の生滅これ如何 「はい。もう一つは、この世の物は必ず壊れるのか、永久に壊れぬ物も中にはあるのか。物の生滅これ如何ということでございます」 「何だ、そんなつまらぬことを考えていたのか。しかと教えておこう。この世の一切の物 は必ずいつか滅する。これを、諸行無常是生滅法とお釈迦様は仰せじゃ」 「でもお師匠様。特別に大切な物を、大事に大事にしていても壊れることがあるのですか」 周建が念を押す。 「そうじゃ。時節到来といってな、時節が来ると必ず壊れるのだ」 「はー、それでは時節到来とは恐ろしいことでございますね」 「恐ろしいものじゃ。仏さまの力でも、どうにもできぬのじゃからのー」と和尚、力説する。 悲しむにあたらぬ時節到来 「これで今日一日苦しんだ難問の全てを分からせていただきました。生まれた者は必ず死ぬ。形ある物は必ず壊れる。すると大切な人の死にも心乱さず、大事な物が壊れても怒り狂わず、時節到来とあきらめるのが悟りというものでしょうか。それにつけても悟られたお師匠様の弟子である私は幸せ者です」 「おだてても何も出ないぞ」と笑う和尚に周建、「いいえ、お師匠様から出されなくても、こちらから出させていただきます。実はかくのごとく時節到来いたしました」 澄まし顔で例の茶碗を差し出した。和尚は驚いたが、今更叱るわけにいかず、 「もう、時節が到来したか」 ただ一言いったという。 人の生死これ如何、生ある者は必ず死す 物の生滅これ如何、形ある物は必ず滅する 時節到来すれば、どんなに大切な物でも壊れる。そうと知れば、驚いたり悲しむにはあたらない。だが、なかなかそう思えないのが私たちです。 これを仏教では、人間は迷っていると教えられています。 迷っている私たちが本当の幸せになれる道を教えられたのがお釈迦様なのです。

如来と菩薩
如来と菩薩はどちらが偉いの?

(質問):仏教で如来とか菩薩とか、たくさん出てきますが、如来と菩薩はどちらが偉いのでしょうか。 (解答) 如来とは何か、菩薩とは何か、これらがわかれば、どちらが偉いのかもわかります。 如来とは 如来とは阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、薬師如来など、いろいろな如来の名前を聞きますが、如来とは、仏のさとりをひらいた仏さまのことです。 さとりといっても、低いさとりから高いさとりまで、全部で52あります。これをさとりの52位といいます。52段目の最高のさとりの名前を、仏のさとり、仏覚といい、これより上はありませんから、無上覚(むじょうかく)ともいいます。 仏教のさとりとは、何をさとるのかというと、私たちが本当の幸せになれる大宇宙の真理をさとります。これを真如(しんにょ)といいます。この真如をすべてさとったのが、最高のさとりをひらいた仏さまです。 如来とは「真如来現(しんにょらいげん)」を略したものです。真如の如と来現の来をとって、如来といいます。 真如とは、私たちが本当の幸せになれる大宇宙の真理のこと、来現とは、すべて体得したということで、最高のさとりをひらいた仏さまを「真如来現」、略して如来といいます。 菩薩とは 菩薩とは 弥勒菩薩とか地蔵菩薩とか、多く菩薩と言われているものがありますが、菩薩とは「菩提薩埵」を略したものです。菩提の菩と薩埵の薩をとって、菩薩といいます。菩提とは仏のさとり、薩埵とは求める人のことですから、仏のさとりを求める人を「菩提薩埵」、菩薩といいます。 さとりの52位でいうと、52位が仏、如来で、それを求めるのが菩薩ですから、菩薩とは51位以下をいいます。 よって、如来と菩薩はどちらが偉いのかというと、如来の方が偉いです。 そして、数ある如来の中で、最も偉い如来が阿弥陀如来であると、お釈迦さまは教えておられます。

仏滅
カレンダーの「仏滅」は仏教と関係があるのでしょうか。

(質問):カレンダーを見ると「仏滅」と書いてありますが、仏教と関係があるのでしょうか。 (解答) カレンダーを見ますと、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口が書いてあるものが多いです。六つありますので、これを六曜といいます。 仏滅とは「仏も滅するような大凶日」という意味です。六曜の中で最も凶の日とされ、婚礼などの祝儀の日は避ける人が今でも少なくありません。事実、この日に結婚式を挙げる人は少ないそうで、仏滅には料金の割引を行う結婚式場もあります。 仏滅は、仏という字がありますので、仏教と関係あるように思いますが、実は仏教とは何の関係もありません。もとは「物滅」からきたと言われています。 仏教では「この日はいい日だ」「この日は悪い日だ」と、日そのものに善悪を決めません。 如来の法の中に吉日・良辰(きちにち・りょうしん)を選ぶこと無し。(涅槃経) (意訳)お釈迦さまの説かれた仏教に、日の善悪を選ぶことはない。 私たちの運命は、日によって決まっているのではなく、一人一人の行いによって決まると教えられるのが仏教です。これを因果の道理といいます。 (関連:因果の道理(因果応報)とは?カルマとは?) よい行いをすればよい運命、悪い行いをすれば悪い運命が現れる、よいのも悪いのも、自分に現れる結果のすべては、自業自得、自分の行いによって生み出されたものですよと、お釈迦さまは、教えられています。 ですから、悪い行いをやめ、よい行いに励めば、毎日がよい運命がくるよい日となりますので「日々是好日」といわれます。「日々是れ好日(ひびこれこうじつ)なり」と読み、心掛けがよければ、毎日がよい日になるということです。 親鸞聖人は、このお釈迦さまの教えを徹底して明らかにされました。 かなしきかなや道俗(どうぞく)の  良時吉日(りょうじきちじつ)えらばしめ 天神地祇(てんじんちぎ)をあがめつつ  卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす (悲歎述懐和讃) (意訳) 悲しいことよ。僧侶も在家の者も、日の善し悪しを論じ、天地の神を崇め、占いや祭りごとをやっている。 日々の生活の中で、悪い行いをやめ、よい行いに励むように心がけていくことが大事ですよと、親鸞聖人は、教えられているのです。

言語道断
言語道断とは語源は仏教にある

(質問):言語道断とは、どういう意味でしょうか。語源は仏教にあるのでしょうか。 (解答) 言語道断(ごんごどうだん)とは、言葉が出ないほど、とんでもないこと、もってのほかだ、という意味で使われています。 この言語道断は、仏教に語源があります。仏教では、仏教で教えられる真如(真理)が、言葉では表せない、説明し尽くせないことを、言語道断と教えられていました。 仏教では真如に「離言真如(りごんしんにょ)」と「依言真如(えごんしんにょ)」があります。真如とは、本来、言葉で説明し尽くすことのできない、言葉を離れたものです。これを「離言真如」といいます。真如は言葉で表現できないのですが、言葉に依らねば、伝えることができないので、言葉で真如を表すしかありません。これを「依言真如(えごんしんにょ)」と言います。 お釈迦さまには、このようなお話が伝えられています。 「維摩の一黙、雷の如し」 お釈迦さまが、お弟子たちに、真如とは、いかなるものか、尋ねられました。お釈迦さまのお弟子の中で、特に優れたお弟子が十人おられました。これを釈迦の十大弟子といわれます。その中で、智恵第一といわれる舎利弗(しゃりほつ)が、答えました。 流暢に説明をし、「真如とは 若い女の乱れ髪 言うに言われず(結うに結われず) 説くに説かれず(解くに解かれず)」との解説に、聞く者は「さすがは智恵第一の舎利弗さまだ」と感心しました。 その後、お釈迦さまは、側にいた維摩居士(ゆいまこじ)に、同じ質問をされました。維摩は黙っています。周囲の人たちは、先に舎利弗さまが、あんな説明をされたから、さすがの維摩さまも、何も言えなくなったのではないか」と思いました。 その時、お釈迦さまは「維摩、それでよい」と仰いました。それを聞いた周囲の人たちは、えぇ!と驚いた話から「維摩の一黙、雷の如し」と言われます。 親鸞聖人の教行信証には『不可称・不可説・不可思議』というお言葉もあります。 不可称(ふかしょう)  言葉で表すことができない 不可説(ふかせつ)   説明することができない 不可思議(ふかしぎ)  想像することができない このように、仏教には、大変深遠なこと、「言語道断」なことが教えられています。 それを人に伝えるには、言葉で表すしかないので、言葉を尽くして、何としても伝えようとされているのが、仏教の先生の本当の苦労なのです。

一期一会
一期一会は大事な心がけ

(質問):一期一会(いちごいちえ)とは、どういう意味でしょうか。 (解答) 一期一会とは、一期は仏教の言葉で、人間が生まれてから死ぬまでのことですから、一期一会とは、一生に一度だけ、生涯に一度限りという意味です。人と人との出会いは一度限りの大切なものという意味で使われたり、生涯に一回しかないと考えて専念するという意味で使われています。 茶の道で知られる千利休(せんのりきゅう)の弟子、山上宗二(やまのうえそうじ)の本に「一期に一度の会」とあり、茶道でよく使われるようになりました。「これから幾たびも茶会を開く機会があっても、この茶会と全く同じ茶会を二度と開くことはできない。だから、茶会は常に人生で一度きりのものと心得て、相手に対して精一杯の誠意を尽くさなければならない。」と茶道の心得を表した言葉として有名です。 一期一会は、茶道だけのことでしょうか。 仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と教えられています。「諸行無常」は、平家物語の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とありますので、皆さん聞かれたことがあると思います。諸行無常とは、諸行とはすべてのもの、無常とは常がないということで、すべてのものは変わり続けるという意味です。 毎日のニュースは、私たちは、いつ、どこで、何が起きるか、わからない世界に生きていることを教えてくれています。これを「火宅無常の世界(かたくむじょうのせかい)」と言います。火宅とは、火のついた家ということで、不安を表します。いつ何が起きるか、わからない不安な世界ということです。 何かの集まりが終わった後、また会いましょうと言って、別れます。その時はわからなかったけれども、振り返ってみて、あれが最後の出会いだったのか、あれが最後の言葉だったのかと知らされることがあります。あの時、最後の出会いとわかっていたなら、もっとこのようにしていた、あのようにしていたと思うことはないでしょうか。 仏教では「無常観」といって、無常の現実をありのままに観つめることを勧められます。それは、いたずらに暗くなる為ではなく、今の出会い、今日の一日を大切にしましょうと今を大切にしている言葉なのです。

三蔵法師
三蔵法師は人の名前ではない?

(質問):中国の小説『西遊記』に登場する「三蔵法師」は、どんな人でしょうか。 (解答) 『西遊記』は、中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説です。 三蔵法師(さんぞうほうし)が、孫悟空(そんごくう)、猪八戒(ちょはっかい)、沙悟浄(さごじょう)を供に従え、幾多の苦難を乗り越え、天竺(てんじく)へ取経を目指す物語で、全100回で中国四大奇書に数えられています。 ドラマで見たことのある人も多いと思います。 1978年~ 西遊記シリーズ(西遊記・西遊記II) (堺正章主演、夏目雅子等) 2006年~ 西遊記 (香取慎吾主演、深津絵里等) ドラマの中で三蔵法師と呼ばれているので、三蔵法師は、人の名前だと思っている人が少なくありません。実は、三蔵法師は、一般名詞であって、人の名前ではありません。西遊記の三蔵法師のモデルとなったのは、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)という人で、数ある三蔵法師の一人です。 では、三蔵法師とはどんな人なのでしょうか。 三蔵とは、仏教で、経蔵(きょうぞう)・律蔵(りつぞう)・論蔵(ろんぞう)の三つの蔵のことを言います。 経蔵とは、お釈迦さまが説かれたお経のことです。お経の数は七千巻以上あります。 律蔵とは、お釈迦さまが決められた戒律を言います。 論蔵とは、お経の内容を、後世、インドの仏教の先生が解説されたものを論といいます。 この三つの蔵を三蔵といい、三蔵法師とは、この三蔵に精通した僧侶のことであり、また、お経の翻訳をする僧侶のことをいいます。 三蔵は、当時のインドの言葉で書かれています。インドの言葉から中国の言葉に翻訳されて、お経は、漢字で表されるようになりました。この翻訳に活躍した僧侶のことを、三蔵法師といいます。 親鸞聖人の書かれた正信偈(帰命無量寿如来で始まり、浄土真宗のお経と誤解されています)にも、三蔵法師のことが出ています。   三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう) (正信偈) 「三蔵流支が浄教を授けられた」と書き下しますが、三蔵流支とは、菩提流支(ぼだいるし)と言われる三蔵法師のことです。浄教とは、観無量寿経のことです。三蔵法師の菩提流支が、観無量寿経を授けられたという意味です。 (関連:浄土真宗で大事なお経は何ですか?) このように三蔵法師はたくさんいるのですが、その中で有名な三蔵法師の一人が、玄奘三蔵です。その玄奘三蔵をモデルに作られた小説が『西遊記』なのです。 これら三蔵法師の活躍によって、インドで説かれた仏教が中国へ、そして、中国から日本へ伝えられました。

精進
精進と精進料理

(質問):精進料理の「精進」とはどんな意味でしょうか。 (解答) 精進とは「せいしん」ではなく「しょうじん」と読みます。 葬式等で、精進料理を食べたことはありますでしょうか。 肉や魚が入っていない料理です。 有名なのは「がんもどき」です。雁(がん)の肉に味を似せた(もどき)とされることから「がんもどき」といわれるようになったとか。(この説が有力) 山にこもって修行する仏教では、肉を食べることは戒律で禁じられていました。そのため、精進料理は僧侶には必須の食事であり、食事もまた修行の一つとして重要視されました。 寺院の中には、参拝者を宿坊に泊め、精進料理を提供して修行の一端を体験させているところも少なくありません。 今では、寺院だけでなく、葬式や法事、お盆等で、一般家庭や料理屋でも作られるようになっています。 僧侶で初めて公然と肉食妻帯(にくじきさいたい)なされたのが親鸞聖人です。 (関連:親鸞聖人は、なぜ公然と肉食妻帯(殺生と結婚)なされたのですか?) それで、浄土真宗では、精進料理をすすめられることはありません。 六波羅密の精進とは 仏教では六つの善い行いが教えられています。これを六波羅密(ろっぱらみつ)とか、六度万行(ろくどまんぎょう)ともいわれます。 布施(ふせ) 持戒(じかい) 忍辱(にんにく) 精進(しょうじん) 禅定(ぜんじょう) 智恵(ちえ) です。   (今日の言葉) 1.布施 = 親切 2.持戒 = 言行一致 3.忍辱 = 忍耐 4.精進 = 努力 5.禅定 = 反省 6.智恵 = 修養 (それぞれどういう意味かは、『とどろき仏教教室』で説明しています) その中に「精進」があります。これは、肉や魚を食べないことではなく、精を出して進むということで、努力することをいいます。 同じ「精進」という言葉が使われていますが、意味が異なりますので、注意しましょう。