menu

今なら500円⇒0円!
無料見本誌プレゼント!

親鸞聖人と浄土真宗がやさしく分かる入門サイトです。 初めて学ぶ方も、イラスト入りの解説で分かりやすく学ぶことができます。

なるほど親鸞聖人

浄土真宗の祖師・<strong>親鸞聖人</strong>は小説やテレビにも取り上げられ、
今日もなお多くの方からの尊敬を集めていますね。

しかし親鸞聖人のことを正確に知られている方は少ないようです。

「<strong>『“南無阿弥陀仏”と念仏を称えさえすれば、死ねば極楽に往ける』</strong>
<strong> ということを、親鸞聖人は本当に教えられたのか?</strong>」

「<strong>僧侶で初めて公然と“肉食妻帯”されたのはなぜか?</strong>」

など、親鸞聖人への疑問にお答えします。

5b45a37d5f16917809adf0f7cbb38650_s
どうせなら、「怒り」を「喜び」に転じてしまおう

親鸞聖人の教えを聞けば今までの悩みが吹き飛んで、生きるのがとっても楽になります 最近「アンガーマネジメント」という言葉をよく耳にします。 直訳すれば「怒りの管理術」。 こうした技術がはやるのも、それだけ怒りの感情に悩む人が多いからでしょう。 仏教では、私たちを苦しめ悩ませるものを「煩悩」といい、一人に108の煩悩があると説かれています。 怒りもその一つ。日々、煩悩に振り回されている私たちが、その苦悩から解放されることは、果たしてできるのか。 今月は親鸞聖人とお弟子・弁円の物語を通して、「苦悩がそのまま歓喜となる」 驚きの解決法をお伝えしましょう。   目次 ・私たちは「108の煩悩」の塊です ・冷静と焦燥の間で──弟子たちに〝大人の対応〟を見せる弁円(べんねん) ・「怒り」で失敗しないための仏教のアドバイス 「心の向き」がポイント ・ついに燃え上がる怒りの炎 その時、親鸞聖人は── ・暴走する怒りが一転、懺悔に 「変わりはてたる我が心かな」 私たちは「108の煩悩」の塊です 世界中で使われている「フェイスブック」の創立者として有名な、アメリカのマーク・ザッカーバーグ氏が、「仏教は素晴らしい宗教であり、哲学でもある。僕は徐々にそれについて学んでいるところだ。この教えについてもっと深く理解できるよう学び続けていきたいと思っている」 と自身のフェイスブックで語っています。 今回は仏教の中でも、特に広く知られている「煩悩」がテーマです。「煩悩」とは、すべての人に108あるので「108の煩悩」ともいわれます。 ただ煩悩の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる とは芥川龍之介の言葉ですが、そんな煩悩いっぱいの私たち人間が、幸せになる方法はあるのでしょうか。 その答えが、親鸞聖人と弁円という人の物語にあります。 約800年前、欲や怒り、恨み妬みの煩悩の火と燃えて親鸞聖人のお命まで狙った弁円という男がありました。しかし聖人に導かれ、恨みと呪いの人生が感謝と喜びの人生にガラリと転じ、お弟子の明法房と生まれ変わっています。 「え、殺しに来たのに弟子になった?」 一体、何があったのでしょうか。 *「ただ煩悩の~」……芥川龍之介・作『袈裟と盛遠』   冷静と焦燥の間で── 弟子たちに〝大人の対応〟を見せる弁円 40歳を過ぎ、越後(新潟県)から関東へ赴かれた親鸞聖人は、常陸国(茨城県)稲田を拠点に20年、関東で教えを伝えられた。 当時、常陸国で一大勢力を誇っていたのが山伏・弁円である。山伏とは修験道という教えで苦行を積んだ人のこと。修験道の信者は、山伏に加持祈祷してもらえば病気が治り、商売は繁盛、災難も消滅するなどのご利益が得られると信じていた。弁円も修験道こそ本当の仏教だと信じていた。親鸞聖人が稲田で真実の教えを説かれ始めると、参詣する人が一人また一人と増え、稲田の繁盛ぶりを語る、こんなうわさ話が弁円の耳にも届いていた「今、稲田で評判の親鸞とかいう者を知っておられますか」 「どんな悪人でも助かるとか言って、えらい繁盛しているそうじゃ」 「ああ、親鸞といえば昔、比叡山の修行がつらくて逃げ出した男だろう?」 「肉食妻帯した堕落坊主じゃないか」 じっと耳を傾けていた弁円は、 「皆さんはそんな軽薄な教えに迷ってはなりませんぞ」 と釘を刺すも、胸に異物の感触を覚える。 自分たちへの参拝者が日増しに減ってくると、いよいよ弁円の弟子たちは冷静さを失ってきた。 「この頃、親鸞にだまされて、稲田に行く者が相当いるようだ。み仏に代わって成敗してくれようか」 いらだつ彼らに弁円は、「まあ待たれよ。所詮は人集めに都合のよいことばかり言っているのだ。やがては我々の修験道こそ、正しい仏教だと分かる時が、必ずある」と制止した。 *肉食妻帯……魚などの肉を食べ、結婚すること 「怒り」で失敗しないための仏教のアドバイス 「心の向き」がポイント 弁円にとって親鸞聖人の出現は、自分の庭に無断で踏み込まれたようなものでした。私たちは、他人の利害には鈍感ですが、自分の損得が絡んでくると、途端に敏感になります。他人の車が傷つけられても「お気の毒さま」とあくびして聞けますが、自分の車が傷つけられたら、犯人を見つけるまで気が済みません。 しかし弁円は、リーダーのプライドもあってか、最初は全く相手にしないそぶりを見せます。 欲が妨げられた時、出てくるのが怒りです。腹を立てると、つい言ってはならぬことを言い、やってはならぬことをやってしまう。そして取り返しのつかないことになりがちなので、「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」と昔から戒められています。 はやりの「アンガーマネジメント」(怒りの管理術)はアメリカのビジネス界で考案されたもので、怒りをコントロールし、自分の成長や前向きな力に転じるいろいろな心掛け、テクニックが教えられています。例えば、 ○イライラを点数化してみる。 自分の怒りに、10段階評価で点数をつけてみる。点数の低い怒りに、いちいち振り回されずに済むようになる。 ○ゆっくり大きく呼吸する。 深呼吸することで、体の緊張をほぐし、頭に血が上った状態を鎮静化させる。 ○白黒つけない。 世の中には白黒つかないものが多いと、現実を受け入れる。 ○80点で満足する。 常に満点主義では、足りない点ばかり気になる。ダメな点より、できている点に目を向ける。 こうした助言が必要とされるのも、それだけ怒りの心がビジネスの現場で失敗の原因になっているからでしょう。 過日も、某宅配業者がむしゃくしゃして荷物を地面に投げつける映像がインターネットに出回り、大きな問題となりました。カッとなって暴言を吐き、大事な取引先を失ったり、会社の信用を落としてしまう例はよく聞きます。こうした怒りの恐ろしさに対して、仏教でも様々にアドバイスされています。 腹が立った時、私たちがすぐ思い浮かべるのは「あいつのせいだ」「こいつのせいだ」ということでしょう。ある主婦が、ブログに「家の中で何か不都合があると『あいつか』と夫の顔がまず浮かぶ」と書いていました。ささいな怒りも積み重なると爆発しかねません。でもそこで、「我、必ずしも聖に非ず。彼、必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫のみ」(聖徳太子)と思えば、許せぬ気持ちも少しは穏やかになるでしょう。「自分は悪くない」の心が、相手を責め、悲しい気持ちにさせる元です。「ともに凡夫、お互いさま」と思えば、衝突も減り、心が楽になる。今より良好な関係が築けるでしょう。「謗るまじ たとえ咎ある 人なりと 我が過ちは それに勝れり」、仏教では教えています。 また、自分の存在をないがしろにされ、「俺を無視するな」という寂しさからくる怒りもあります。特に年齢を重ねると、その傾向が強くなるようです。 いろいろと問題が重なると、自分だけが苦労の問屋のように思え、「何で私ばっかり」と怒りが込み上げてくることもあるでしょう。人一倍努力することは大切ですが、ともすると「俺はこれだけやっている」のうぬぼれ心が、怒り腹立ちの原因ともなります。そんな時は、ちょっと他人の頑張りに目を向けてみる。みんなも頑張っている。「苦労は自分だけ」と思ったら間違いだと謙虚な心を取り戻せたら、イライラもおさまり、「おかげさまで」「ありがとう」と感謝もできるでしょう。   ついに燃え上がる怒りの炎 その時、親鸞聖人は── さて、親鸞聖人の隆盛にいらだつ弟子たちに「冷静になれ」と言っていた弁円だが、内心は穏やかではいられず、弟子の一人に稲田の様子を探らせた。 すると、親鸞聖人の元には常陸国だけでなく武蔵国(東京・埼玉周辺)や相模国(神奈川県)からも人が集まり、参詣者であふれ返っているというではないか。しかも「加持祈祷は迷信で、本当の仏教ではない」と説かれていると知り、弁円の中にドス黒い心が湧き上がる。自分の信念が否定され、恨み、妬みの心が起きてきた。ついに弁円は、親鸞聖人を呪い殺す祈祷を始める。 そんなおり、親鸞聖人が柿岡村へ布教に行くため板敷山を通られることを知った。 「チャンスだ」。 自分が正しいと少しも疑わず、終始、肉食妻帯の聖人を見下している弁円は、弟子を従え板敷山で待ち伏せた。しかし聖人は現れず、やがて、すでに柿岡に到着しているとの知らせ。帰りこそはと潜伏するも、やはり失敗。実は親鸞聖人は別のルートで柿岡へ往復されていたのだ。次もその次も、聖人暗殺の陰謀はことごとく失敗に終わる。 やがて忍耐の限度を超える事件が起きた。有力な弟子が十数名を引き連れて造反したのだ。怒髪天を突いた弁円は、白昼、剣をかざして親鸞聖人の稲田の草庵へ押しかけた。 「やい、親鸞いるか!肉食妻帯の堕落坊主!み仏に代わって成敗してくれるわ!出てこい!!」 門前の怒号に、門弟たちは血相を変えて聖人のもとへ集まった。 「お師匠さま。どうか裏から安全な所へ」 懇願する弟子たちに聖人は諭される。 「親鸞が弁円殿の立場であれば、親鸞が押しかけていくだろう。謗るも謗られるも、恨むも恨まれるも、ともに仏法を伝える尊いご縁なのだ。会わせてもらおう」 弁円は門を破って境内に乱入し、玄関前に仁王立ちになった。 「出てこないなら、こちらから踏み込むぞ!」 叫んだが早いか、引き戸が開き、 「お待たせしました。弁円殿」 と聖人が姿を現される。 「親鸞か……。覚悟せえ!」 剣を振りかざし、親鸞聖人に向かっていく弁円。しかし数珠一連持たれたのみで、無造作に立たれる聖人のお姿に、ピタリと足が止まる。一瞬、弁円はわが目を疑った。燃やせる全てを燃やし、憎悪の炎を湯気のように立てている弁円に、「よく参られた」と手を伸ばさんばかりの聖人の笑顔は仏か、菩薩か……。これが不倶戴天の怨敵と呪い続けた親鸞か……。 見る見るうちに殺意は消え失せ、両の手から剣が滑り落ちた。 「ああーっ!俺は間違っていた。俺は、間違っていた」 がっくりと大地に膝を突き、血走っていた眼から、熱い悔恨の涙が止めどなくあふれ出た。 「弁円、一生の不覚。お許しくだされ、親鸞殿。稲田の繁栄を妬み、己の衰退をただ御身のせいにして憎んでいたこの弁円。思えば恐ろしい鬼であった。どうか今までの大罪、お許しくだされーっ」 泣き崩れる弁円の肩に、聖人はそっと手を置かれる。 「いやいや弁円殿。そなたは正直者じゃ。まこと言えば親鸞も、憎い、殺したい心は山ほどあり申すが、それを隠すにほとほと迷惑しておりまする。それに引き替え、弁円殿は思いのままにふるまわれる。素直な心が羨ましい」 「親鸞殿……。こんな弁円でも助かる道がござろうか」 「何を言われる弁円殿。こんな親鸞をも、阿弥陀如来は救いたもうた。煩悩逆巻く、罪悪深重の者こそが正客、と仰せの弥陀の本願じゃ。何の嘆きがあろうか」 「ああ、親鸞殿。どうか、この弁円をお弟子の一人にお加えくださるまいか。お願い申す。お聞きくだされ!」 「いやいや弁円殿。親鸞には一人の弟子もあり申さぬ。ともに弥陀の本願を聞信させていただくわれらは御同朋、御同行。喜ばしき友であり、兄弟なのだ。弁円殿も早くお聞きくだされ」 見守る弟子たちの頬にも涙が伝っていた。かくて弁円は、親鸞門下の一人、明法房と生まれ変わったのです。 *聞信……「まことだった」と聞いて知らされること   暴走する怒りが一転、懺悔に 「変わりはてたる我が心かな」 108の煩悩の中でも恨み、妬みの心ほど「負のエネルギー」が充満しているものはないでしょう。親鸞聖人は、「心は蛇蝎のごとくなり」(ヘビやサソリを見た時のようなゾッとする心だ)と言われています。 恨み、憎しみの鬼と化した弁円は一筋に聖人を呪い続けますが、弟子の裏切りによって、ついに怒りを爆発させました。 カッとなった時、自己の内面に目を向け反省するには、ある程度、心の余裕が必要ですが、分かっちゃいるけど、どうにもならぬ。まさに弁円がそうでした。 しかし弁円の幸せは、相手が親鸞聖人だったことでしょう。そのあと、弁円はどうなったのでしょう。 * 後日、明法房(弁円)が親鸞聖人と板敷山を歩いていた時、かつて恩師を殺害せんと待ち伏せた所に差しかかりました。 弥陀の本願によって「絶対の幸福」に救い摂られた明法房が、その時詠んだといわれるのが、次の歌です。  山も山 道も昔に 変わらねど 変わりはてたる 我が心かな 山も道も、あの時のまま。煩悩も少しも変わらない。それなのに、わが心は何と大変わりしたことか。最も憎んでいた人が、最も尊敬する方になろうとは。…続きを読む

カプセル
南無阿弥陀仏とは一言でいうと「幸せになれる特効薬」

仏教の言葉は、いろいろな場面で耳にします。「仏」「往生」「他力本願」など、聞いたことはあるが、本当の意味は?と聞かれて、答えられる人は少ないかもしれません。 その代表が「南無阿弥陀仏」ではないでしょうか。 テレビでも「南無阿弥陀仏」を称える人が出てきます。葬式、墓参りでも聞かれるかもしれません。浄土真宗が盛んな地域では、墓石に「南無阿弥陀仏」とあります。 台湾では、いたるところに「南無阿弥陀仏」のステッカー?が貼られているのを目にします。 南無阿弥陀仏と口で称えることを念仏といいます。称名(しょうみょう)の念仏、口称(くしょう)の念仏ともいいます。 南無阿弥陀仏とは、幸せになれる特効薬 南無阿弥陀仏とは何か。譬えで説明したいと思います。 病気で苦しんでいる人がいた。病人は、その病気の特効薬を飲んで、全快しました。その薬を用意してくれた人に、お礼の言葉を申しました。 その譬えでいいますと、このようになります。 病人 - 私 薬  - 南無阿弥陀仏 全快 - 絶対の幸福 お礼 - 念仏 南無阿弥陀仏は、病気を治す薬に例えられます。 どんな薬かを知るには、どんな病を治す薬か、病を知る必要があります。 南無阿弥陀仏を知るには、どんな病を治す薬か、病を知らねばなりません。 すべての人がかかっている病 「無明の闇」 仏教では、すべての人が病気にかかっていると教えられます。そんな自覚はないと思われる方が多いでしょうが、この病は自覚がないのです。 病名は「無明の闇(むみょうのやみ)」。 自覚はありませんが、症状は現れています。それは「有無同然(うむどうぜん)」です。 有無同然とは 「田なければ、また憂いて、田あらんことを欲し、  宅なければ、また憂いて、宅あらんことを欲す。  田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。  牛馬(ごめ)・六畜(ろくちく)・奴碑(ぬび)・銭財(せんざい)・衣食(えじき)・什物(じゅうもつ)、  また共にこれを憂う。有無同じく然り。」             (大無量寿経)  田畑や住居が無ければ、それらを求めて苦しみ、  有ればまた管理や維持のために苦しむ    他のものも、みな有無同然である お釈迦様は、無い人は、(鉄)の鎖につながれて苦しんでいるようなもの、有る人は(金)の鎖にしばられて苦しんでいるようなものと例えられています。 人類は、無から有へ、一生懸命、努力してきたといえるでしょう。 確かに、生活は豊かになり、便利になりましたが、お釈迦様が教えられるように、有無同然で、幸せを感じられず、不安をかかえた生活を送っています。 「人類の営みは、鎖からの脱出ではなく、鎖の質を良くしてきただけなのだ」 今から2600年前に、お釈迦様が教えられていることに驚かされます。 無明の闇を治す特効薬 病気にかかると、おいしく食事を食べられません。高級レストランで食事をとっても、おいしくありません。 おいしく食べられない原因は、食事にあるのではなく、病気にかかっているからです。 同じように、どんなにお金や物に恵まれても、幸せを味わえないのは、心が病気にかかっているから、その病こそが、無明の闇なのです。 病気が治り、健康になれば、どんな食事もおいしく食べられるように、無明の闇という心の病が治れば、どんな人も、そのままで、絶対の幸福になることができます。 この無明の闇を治す薬が南無阿弥陀仏です。 無明の闇が破れると絶対の幸福になれますので、 南無阿弥陀仏は本当の幸せになれる特効薬といえます。 どんな心で称えるかで念仏の意味が変わる 絶対の幸福になった感謝の心が称える念仏はお礼の言葉です。 涙といっても、悲し涙、くやし涙、うれし涙があります。 涙に色がついていれば、涙そのもので、どんな涙か、判断できるかもしれませんが、 どんな心で流すか、その心によって、涙の性質が変わります。 南無阿弥陀仏も、どんな心で称えるかによって、念仏の意味も変わるのです。 絶対の幸福になって、その喜びから、口からあふれる念仏は、感謝、お礼の言葉です。 無明の闇と絶対の幸福 では、南無阿弥陀仏を治す病である無明の闇とは何か。 その無明の闇が治ったら、どうして絶対の幸福になれるのか。 仏教では、くわしく教えられていますので、是非、聞いてみて下さい。

炎上
親鸞聖人の「肉食妻帯の断行」は炎上マーケティングだった

親鸞聖人は僧侶として公然と肉食妻帯された最初の方だった 親鸞聖人といえば、肉食妻帯(にくじきさいたい)と言われるぐらい、親鸞聖人と肉食妻帯は、関係が深いです。それは、親鸞聖人が、僧侶として、公然と肉食妻帯された、最初の方だからです。 肉食妻帯とは、殺した生き物を食べ、妻を持ち女性と一緒に生活することです。親鸞聖人は鎌倉時代の方なので、食べたのは牛や豚ではなく、主には魚です。 今日、僧侶であっても、肉食妻帯している人は多いように思いますので、それほど珍しいことのように思えませんが、親鸞聖人がなぜ最初の方だったのでしょうか。 親鸞聖人の師匠は法然上人ですが、法然上人、親鸞聖人が現れるまでは、日本の仏教といえば、聖道仏教(しょうどうぶっきょう)しかありませんでした。 聖道仏教とは、宗派でいうと、天台宗、真言宗、禅宗などです。聖道仏教とまとめられるのは、共通しているところがあるからです。それは、欲や怒りや愚痴などの煩悩を抑えて修行に励み、自分の努力精進で悟りを得よう、幸せになろうとするところが、共通しているのです。 煩悩といっても、1人に108あります。除夜の鐘の数はここからきていますが、108の煩悩の中でも、特に強いのが欲です。仏教では、五欲といって、五つの欲を紹介しています。   食 欲(しょくよく)   財 欲(ざいよく)   色 欲(しきよく)   名誉欲(めいよよく)   睡眠欲(すいみんよく) 煩悩を抑えて修行に励みますから、これらの欲を思いっきり満たすことは、禁じられていました。それで、聖道仏教の修行をする僧侶は、これはやってはいけない、あれはやってはいけないと禁じられた戒律というものがありました。 その戒律の中に、肉を食べてはならない、女性に接してはならないがありましたので、当時、僧侶といえば、肉食妻帯していない人だったのです。 なぜ親鸞聖人は公然と肉食妻帯されたのか? 親鸞聖人が肉食妻帯されたのは、自分の心に正直に生きられたから、という人もあります。9歳から29歳までの20年間、比叡山で天台宗のご修行に打ち込まれていましたので、そのように思う人もあるかもしれません。 もし、それが理由であれば、公然とされる必要はありませんでした。親鸞聖人は、公然と肉食妻帯された最初の方であって、ひそかに肉食妻帯している僧侶は、すでに、少なからずいました。 親鸞聖人は公然と肉食妻帯されることで、多くの人たちから「肉食妻帯の堕落坊主」「戒律を破った破戒坊主」「色坊主」「仏教を破壊する悪魔」など、聞くに堪えない悪口を浴びせられました。当時、僧侶は肉食妻帯しないのが常識だったからです。ひそかにやっているならまだしも、公然と宣言するとは何事だと、非難攻撃の的となられたのです。 親鸞聖人は、公然とすれば、非難攻撃を受けることは、当然、わかっておられました。それを覚悟の上で、公然とされたのです。 その覚悟を感じ取った夏目漱石は、このように評価しています。 「親鸞聖人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、   非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」 「非常な強い根底の有る思想」とは何か それは、阿弥陀仏の本願を伝えることでした。 親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願一つを伝えることを使命としておられました。 聖道仏教では、肉食妻帯が禁じられていましたので、僧侶と一般の人には、差別がありました。しかし、阿弥陀仏の本願には、そのような差別は一切ありません。 歎異抄(たんにしょう)という本には、このように書かれています。  弥陀の本願には、老少善悪の人をえらばず  ( 歎異抄 )  阿弥陀仏の本願には、老いも若きも、善人も悪人も、一切、差別はない。 戒律を守らねばならぬ僧侶も、肉食妻帯している一般の人も差別はありません。 親鸞聖人は、公然と肉食妻帯されることで、肉食妻帯している者でも、そのままで本当の幸せになれる、それが本当の仏教なんだ。それを知ってもらいたい。 当時、マスコミ、インターネットもない時代です。 どうすれば多くの人に伝えることができるだろうか。そうだ、自分が肉食妻帯を公然とすれば、多くの人が驚き、口コミで広がっていくだろう。 そうすれば、認知はされるだろうが、反面、どんな非難攻撃を受けるかわからない。もしかしたら、命を狙われるかもしれません。しかしそれでも、伝えねばならないことがあるのだ。 親鸞聖人の「肉食妻帯の断行」は炎上マーケティングだったのです。 親鸞聖人がそこまでして明らかにされた阿弥陀仏の本願とは何か。 わかりやすく説明していますので、是非、聞いてみて下さい。

波
親鸞聖人の晩年

関東からの道すがら、多くの人を勧化されながら、親鸞聖人は、懐かしき京都へお帰りになりました。無実の罪で越後へ流刑に遭われてより、約25年ぶりのことでした。90歳で、浄土へ還帰されるまでの30年間、親鸞聖人は、どのように過ごされたのでしょうか。 ご帰洛後のお住まい 京都に着かれた親鸞聖人は、何回も住まいを変えておられます。 「聖人故郷に帰りて往事をおもうに、年々歳々夢のごとし幻のごとし。長安洛陽の棲も跡をとどむるに懶(ものぐさ)しとて、扶風馮翊(ふふうふよく)ところどころに移住したまいき」(御伝鈔) 「或時は岡崎、または二条冷泉富小路にましまし、或時は、吉水、一条、柳原、三条坊門、富小路等所々に移て住たまう」(正統伝) このうち、平太郎と面会された場所が、上京区の一条坊勝福寺です。門前には「親鸞聖人御草庵平太郎御化導之地」と石柱が立っています。 平太郎だけでなく、親鸞聖人の教えを求め、命懸けで関東から訪ねてくるお弟子が多数ありました。狭いながらも、教えの花咲くお住まいであったに違いありません。 道珍の霊夢 西本願寺正面の細い通りヘ入ると、念珠店が立ち並んでいます。そのまま東へ進むと、突き当たりが紫雲殿金宝寺です。 金宝寺はもと、天台宗の寺でした。ところが、57代目の住職・道珍が親鸞聖人のお弟子になり、浄土真宗に改宗したのです。その経緯を、当寺の『紫雲殿由縁起』は次のように記しています。 道珍は、高僧が来訪される夢を3回も見た。そこへ間もなく、親鸞聖人が訪れられたのである。紛れもなく夢でお会いした高僧なので、道珍は大変驚き、心から敬服した。ご説法を聴聞して、たちまちお弟子となったのである。時に、聖人67歳、道珍33歳であった。 道珍は、親鸞聖人のために新しく一室を作り、安聖閣と名づけました。道珍がしきりに滞在を願うので、約5年間、親鸞聖人は金宝寺にお住まいになったという。 ここにも、関東の門弟が多数来訪した記録があります。片道1カ月以上かけて、聞法にはせ参じる苦労はいかばかりであったか。後生の一大事を知らされたからでしょう。 また、『紫雲殿由縁起』には、道珍が親鸞聖人に襟巻きを進上したところ、大変喜ばれた、と記されています。 報恩講の大根焚き 京名物の一つ、了徳寺の大根焚きは、親鸞聖人報恩講の行事です。 了徳寺は京都市の西、右京区鳴滝町にあります。山門をくぐると、すぐに大きなかまどが目に飛び込んできます。報恩講には、早朝から大鍋で3500本の大根が煮込まれ、参詣者にふるまわれるという。 どんないわれがあるのか。略縁起には、次のように記されています。 親鸞聖人80歳の11月、ご布教の途中、鳴滝村を通られました。寒風吹きすさぶ中で働いている6人の農民を見られ、 「一生涯、自然と闘い、体を酷使して働くのは何のためか。弥陀の救いにあえなければ、あまりにも哀れではないか……」 と近寄られ、阿弥陀仏の本願を説かれました。 初めて聞く真実の仏法に大変感激した農民たちは、親鸞聖人にお礼をしたいと思ったが、貧しさゆえ、何も持ち合わせていない。そこで、自分たちの畑で取れた大根を塩炊きにして召し上がっていただいたところ、親鸞聖人は大変お喜びになったという。 親鸞聖人は、阿弥陀仏一仏を信じていきなさいと、なべの炭を集められ、ススキの穂で御名号を書き与えられました。 以来、親鸞聖人をしのんで大根を炊き、聞法の勝縁とする行事が750年以上も続いています。 著作に励まれる親鸞聖人 晩年の親鸞聖人は著作に専念しておられます。 52歳ごろに書かれた『教行信証』六巻は、お亡くなりになられるまで、何回も推敲・加筆なされています。いわば、生涯かけて著された大著です。 このほか、主なご著書とお書きになられた年代を挙げてみましょう。 76歳 浄土和讃(じょうどわさん) 高僧和讃(こうそうわさん) 78歳 唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい) 83歳 浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう) 愚禿鈔(ぐとくしょう) 84歳 往相廻向還相廻向文類(おうそうえこうげんそうえこうもんるい) 入出二門偈頌(にゅうしゅつにもんげじゅ) 85歳 浄土三経往生文類(じょうどさんぎょうおうじょうもんるい) 一念多念証文(いちねんたねんしょうもん) 正像末和讃(しょうぞうまつわさん) 86歳 尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん) 88歳 弥陀如来名号徳(みだにょらいみょうごうとく) このほかにも、親鸞聖人が書写・編集されたり、加点されたお聖教(仏教の本)は、全部で20冊以上知られています。しかも、そのほとんどが76歳以降に書かれています。 ご高齢になられるほど、執筆に力を込められていることが分かります。「体の自由が利かなくなった分、筆を執って真実叫ぶぞ」と、親鸞聖人の並々ならぬ気迫が伝わってくるようです。 親鸞聖人のご往生 親鸞聖人は、弘長2年11月下旬より病床に就かれました。あまり世間事を口にされず、ただ阿弥陀仏の大恩ばかり述べられ、念仏のお声が絶えなかったといいます。 11月28日、午の刻(正午)、親鸞聖人は90九十年のご生涯を終えられ、弥陀の浄土に還帰なされました。 臨終には、弟子は顕智と専信、肉親は、第五子の益方さまと第七子の覚信尼さまのみが、わずかに臨んだといいます。一切の妥協を排し、独りわが道を行かれた親鸞聖人にふさわしい、ご臨終でありました。 親鸞聖人のご遺言 「御臨末の御書」は、親鸞聖人のご遺言として有名です。 29歳で阿弥陀仏の本願に救い摂られてより、90歳でお亡くなりになるまでの、親鸞聖人のご生涯は、まさに波乱万丈でした。 真実の仏法を明らかにされんがための肉食妻帯の断行は、破戒堕落の罵声を呼び、一向専念無量寿仏の高調は、権力者の弾圧を招きました。35歳の越後流刑は、その激しさを如実に物語っています。 流罪の地でも、無為に時を過ごされる親鸞聖人ではありませんでした。 「辺鄙(へんぴ)の群類を化せん」と、命懸けの布教を敢行されたことは、種々の伝承に明らかです。 関東の布教には、親鸞聖人をねたんだ弁円が、剣を振りかざして迫ってきました。邪険な日野左衛門に一夜の宿も断られ、凍てつく雪の中で休まれたこともありました。 今に残る伝承は、親鸞聖人のご苦労の、ほんの一端を表すにすぎません。まさに、報い切れない御恩に感じ、「身を粉にしても……」と、布教に命を懸けられたご一生でありました。 その尽きぬ思いが、「御臨末の御書」に表されています。 「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」 「和歌の浦曲の片男浪」とは、現在の和歌山県和歌浦、片男波海岸です。万葉の昔から美しい海の代名詞になっています。 親鸞聖人は、「命が尽きた私は、一度は浄土へ還るけれども、海の波のように、すぐに戻ってくるであろう。すべての人が弥陀の本願に救われ切るまでジッとしてはおれないのだ」とおっしゃっています。 「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」 「一人の人は二人と思いなさい。二人の人は三人と思いなさい。目に見えなくても、私は常にあなたのそばにいますよ。悲しい時はともに悲しみ、うれしい時はともに喜びましょう。阿弥陀仏の本願に救われ、人生の目的を達成するまで、くじけずに求め抜きなさいよ」と、すべての人に呼びかけておられるのです。 真実のカケラもない私たちが、どうして仏法を聞こうという心が起きたのでしょうか。そこには、目に見えない親鸞聖人が常に、手を引いたり押したりしてくださっているからではないでしょうか。

浄土真宗 親鸞聖人と東海道の出会い
親鸞聖人と東海道の出会い

箱根の山を越えられた親鸞聖人は、東海道を経て、懐かしき京の都へ向かわれました。その道中に、数々のドラマが残されています。 かつて共に法然上人から教えを受けた法友・熊谷蓮生房から仏法を伝えられた人々との出会い、親鸞聖人に法論を挑んできた僧侶たち、参詣者の胸から胸へ拡大していく法輪……。 その出会いは、やがて、蓮如上人を危機からお救いする源流となり発展していくのでした。 福井長者の仏縁 駿河国(静岡県)で、親鸞聖人を心待ちにしている夫婦がありました。彼らは、親鸞聖人の法友・熊谷蓮生房と縁があった人たちです、25年以上も前のことですが、どんな出会いだったのでしょうか……。 法然上人のお弟子であった蓮生房が、京都から故郷の関東へ向かった時のこと。小夜ノ中山の峠で盗賊に襲われました。かつて源氏の大将として名を馳せた蓮生房。腕に自信はありましたが、なぜか「失って惜しい物は何もない」と無抵抗を示したのです。賊は路銀や衣類、すべてを奪っていきました。 さて、どうするか。身ぐるみはがされた蓮生房は、大胆にも藤枝の宿で一番の富豪・福井憲順の屋敷の前に立って叫んだのです。 「私は、武蔵国の蓮生房と申す者。先ほど盗賊に路銀を全部与えてしもうた。再度、京都へ上る時にお返しするから、銭をお貸しくださらんか」 素っ裸の見知らぬ男の借用にだれが耳を貸そうか。憲順は当然断りました。すると蓮生房、 「わしは無一文だが、この世で最も素晴らしい宝を持っている。それを抵当にお預けするから、借金をお願いしたい。大事なものゆえ、貴殿の腹の中にお預かりいただきたい。さあ、口をお開けくだされ……」。 蓮生房は合掌し、南無阿弥陀仏と念仏を称えました。すると蓮生房の口より、まばゆい金色の阿弥陀如来の化仏が現れ、憲順の口の中に移ったといいます。 これは有り難い奇瑞、と喜んだ憲順は、蓮生房に路銀を貸しただけでなく、法衣を贈り、温かくもてなしました。 蓮生房が抵当に入れた「この世で最も素晴らしい宝」とは、阿弥陀仏の本願のことです。蓮生房は憲順に説法して、感激した憲順が蓮生房に心を開いたということでしょう。 色も形も無い教えをどう表すか。すべての人を絶対の幸福に助ける阿弥陀仏の本願は、資産家の憲順には、まさに「金色の阿弥陀如来像」を得たような喜びだったのでしょう。 翌春、蓮生房は、約束どおりお金を返しに来ました。彼は、福井憲順に、 「後生の一大事をゆめゆめ忘れてはなりませんぞ。善知識(仏教の先生)の教えを受けて、往生を願いなさい」 と言い残して京都へ帰っていきました。 憲順は、尊い教えだと思いながらも、自ら急いで求めようという気持ちになれず、長い年月が過ぎてしまいました。 ところが、親鸞聖人が関東から京都へお帰りになるという話が伝わってきたのです。これを縁に、かつて聞いた後生の一大事が思い起こされてきました。 老齢の身、「今死んだら……」と思うと、不安はつのるばかりです。道中で、夫婦そろって親鸞聖人をお待ちし、自宅で法話をお願いしたのです。 親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の御名号の偉大な力を懇ろに諭されました。 “夫婦はこれを聴聞し、宿善開発し、たちどころに信心受得す”(二十四輩順拝図会) 福井長者夫婦は、親鸞聖人のお弟子となり、名を蓮順、蓮心と改め、全財産を投じて自宅を聞法道場に改造しました。これが藤枝市本町に残る蓮生寺です。 三河の柳堂でご説法 親鸞聖人が、京都へ向かって関東をたたれたことは、当時、ビッグニュースとして東海道を駆け抜けたのではないでしょうか。 親鸞聖人がお通りになることを知った三河国(愛知県)碧海郡の領主・安藤信平は、「この機会にぜひ、高名な聖人にお会いしたい」と城内の柳堂にお招きし、法話をお願いしました。ここでのご説法は、17日間に及んだといいます。 初めて聴聞する真実の仏法でありましたが、安藤信平は、即座に決心しました。 「これこそ、生涯懸けて悔いなき道だ。人生の目的をハッキリ知らされたぞ!」 城主の位を弟に譲り、親鸞聖人のお弟子になって、名を念信房と改めました。 柳堂は、現在、妙源寺の境内にあります。「親鸞聖人説法旧趾」と大きな石碑が立っています。 三河門徒の気概 親鸞聖人の、柳堂でのご説法中にハプニングが起きました。参詣者の多さをねたんだ天台宗の僧侶3人が、親鸞聖人を論破しようと乗り込んできたのです。地元の上宮寺、勝鬘寺、本証寺の住職でありました。 親鸞聖人は、ことごとく彼らの非難を打ち砕かれ、お釈迦様の出世本懐は、阿弥陀仏の本願一つであることを明らかにされました。 誤りを知らされた3人は、そろって親鸞聖人のお弟子となり、寺ごと浄土真宗に改宗しています。これを三河三ヵ寺といい、強信な三河門徒を形成していくのでした。 三河は、蓮如上人の時代に真宗一色に塗り変えられました。その中心が、上宮寺でした。上宮寺の末寺は三河64ヵ寺、尾張41ヵ寺あったといいますから、絶大な勢力を振るっていたことが分かります。 寛正6年(1465年)、比叡山延暦寺の僧兵が、蓮如上人のお命を狙って本願寺を襲撃しました。この時、上宮寺の住職・佐々木如光は三河の門徒を引き連れてはせ参じ、比叡山との交渉を一手に引き受けています。比叡山は金を要求しました。如光は、「金で済むなら、三河から取り寄せよう」と悪僧たちに宣言。一晩で、山門に金を山と積ませ、比叡山を黙らせたといいます。 事件解決後、蓮如上人は三河を巡教され、上宮寺にしばらく滞在されています。 これから約百年後のこと。 織田信長が桶狭間で今川義元を破って以来、家康は今川の拘束から離れ、着々と三河の支配を固めていました。永禄6年(1563)、家康の家臣が上宮寺から兵糧として米を略奪しました。これを機に、家康の苛酷な支配に対する真宗門徒の不満が爆発。一向一揆が起きたのです。 三河三ヵ寺を中心とする真宗門徒は一万余の勢力に及び、半年にわたって家康を苦しめました。一時は、岡崎城に攻め込むほどの勢いであったといいます。窮地に追い込まれた家康は、勝算なしと判断し、和議をもって臨んでいます。 その条件は、 1、寺・道場・門徒は元のままとする 2、真宗側についた武士の領地は没収しない 3、一揆の首謀者は殺さない でありました。真宗側にとって有利なものです。 ところが、一揆の勢力が各地へ引き揚げたと同時に、腹黒い家康は約束を破って、寺院をことごとく破壊し、真宗禁止令を出したのです。卑劣な弾圧でした。三河に真宗寺院が復活したのは、それから二十年後のことでした。 河野九門徒と瀬部七ヵ寺 仏法は、一人の胸から胸へ確実に広まっていきます。三河の柳堂で親鸞聖人のご説法を聴聞した人の中に、尾張国羽栗郡本庄郷の人がいました。 「こんな素晴らしいみ教え、私の故郷にもお伝えください」 との願いに、親鸞聖人は快く応えられ、帰洛の途中に立ち寄られました。現在の、岐阜県羽島郡笠松町円城寺の辺りだといわれています。 この地の参詣者の中で、新たに9人が親鸞聖人のお弟子になっています。親鸞聖人は一人一人に直筆の御名号を書き与えられました。彼らは、それぞれ一寺を建立し、親鸞聖人の教えを伝えたので「河野九門徒」と呼ばれています。 さらに京へ向かって歩みを進められましたが、木曽川の氾濫で、しばらく、現在の愛知県一宮市瀬部に滞在されました。その間も地元の人々に、ご説法なされ、7人がお弟子になっています。その中には、武士も商人もいました。彼らも、それぞれ聞法道場を築き、親鸞聖人の教えを伝えました。これを「瀬部七ヵ寺」といいます。 親鸞聖人のご出発にあたり、この7人のお弟子は、木曽川の激流へ入って瀬踏みをし、無事、親鸞聖人を対岸へご案内したと伝えられています。

浄土真宗 親鸞聖人と真仏房・高田専修寺
親鸞聖人と真仏房・高田専修寺

親鸞聖人が野宿されたご旧跡 稲田の草庵から北西へ約20キロ、高田専修寺の前に、その痛ましいご旧跡があります。 道路わきの杉林の中に、1メートル以上もある石が置かれています。表面は平らで、大きな台のようです。高い鉄柵で囲まれ、「般舟石」と立て札があります。 この冷たい石の上に、親鸞聖人は体を横たえられ、一夜を過ごされたことがありました。しかも、53歳の1月8日のことでした。 なぜ、野宿されたのか。稲田には、奥さまとお子さまが待っておられる温かい家庭があったはずなのに……。 関東へ入られて10数年後のことだから、常陸にはお弟子や門信徒が多く現れていたはず。しかし、親鸞聖人は、そんな所に安住しておられなかったのです。 すべての人が絶対の幸福に救われる教えがあるのに、苦しみ悩む人がいるのは、自分の怠惰のせいだと、いまだ仏法が伝わっていない下野へ、単身、布教に赴かれたです。 全くの新天地を布教開発する厳しさは、計り知れません。 「この里に親をなくした子はなきかみ法の風になびく人なし」 と、一軒一軒訪ね歩かれ、仏法を伝えられたのでした。 今日と違って、どこにでも旅館があるはずがなく、一日中歩いても耳を貸す人がなければ、宿を貸そうという者も現れないでしょう。むげに追い出す者ばかりだったのではないでしょうか。野宿されたのも、二度や三度ではなかったと思われます。 親鸞聖人のご苦労は、やがて大きく花開くことになります。下野にも、阿弥陀仏の本願を聞き求める人々が続出し、関東で一、二を争う念仏者集団、高田門徒が形成されたのでした。 真仏と顕智 親鸞聖人から高田門徒を任されたのが真仏房でした。 真仏は、下野の国司の長男でした。16歳の時に、親鸞聖人の教えを聞き、人生の目的をハッキリ知らされました。ところが、その翌年7月、父が死亡。家門を継いで真壁城主となり、下野の国司となります。しかし、聞法の志、断ち難く、4ヵ月後には弟に家督を譲り、親鸞聖人のお弟子になっています。 50歳で若死にした真仏の跡を継いだのが顕智です。顕智と親鸞聖人の出会いも劇的でした。 『遺徳法輪集』は、次のように伝えています。 「顕智房は筑波山のふもとに住む武人でしたが、親鸞聖人の教えをそしり、親鸞聖人を殺害しようと機会をうかがっていました。ところがある時、ご布教中の親鸞聖人にバッタリ出会いました。これ幸いと、顕智は刀を抜いて向かっていったのですが、親鸞聖人の柔軟慈悲のお顔に接するや、たちまち害心が翻り、全身の力抜け落ち、大地にひれ伏してしまったのです。顕智は涙を流して日ごろの悪心を懺悔し、親鸞聖人のお弟子となりました」 親鸞聖人のお命を付け狙ったのは弁円だけではなかったのです。ほかにも記録に残っていないだけで、どれだけ危険な目に遭われたかしれません。 親鸞聖人は、いかなる迫害にも屈されなかったのです。柔和な中にも、偉大な信念に、顕智は生まれ変わったのでした。 「仏法を伝える者は命懸けでなければならない」 親鸞聖人は身をもって教えておられます。

浄土真宗 親鸞聖人と湘南海岸の御勧堂
親鸞聖人と湘南海岸の御勧堂

関東ご布教の最南端はどこか。神奈川県の相模湾に面した国府津に、親鸞聖人が説法されたご旧跡「御勧堂」があります。56歳のころから、しばしば布教場所を広げられたといいます。 この地で、仏縁を結んだ了源房は、日本三大仇討ちとして有名な曽我兄弟の子供でありました。親鸞聖人のお手紙にも「平塚の入道」として登場しています。どんなドラマがあったのでしょうか。 近くの漁民を集めて説法された草庵は「御勧堂」と呼ばれています。親鸞聖人が、いかに聞法を強く勧めておられたかを表しているようです。 60歳過ぎ、親鸞聖人が関東へお帰りになるため、この地を通られました。すると大勢の人が集まり、あまりにも別れを惜しむので、親鸞聖人はしばらく御勧堂に滞在され、最後の説法をされたといいます。 平塚入道の往生 国府津の御勧堂で、親鸞聖人のお弟子になった人の中に、「了源房」がいます。『末灯鈔(まっとうしょう・親鸞聖人のお手紙)』の中にも「平塚の入道」として登場する人物です。彼は、どのようにして仏法に巡り遇ったのでしょうか。 了源の祖父・河津祐泰は、領地争いで、工藤祐経に殺されました。この時、30歳の若さであったといいます。妻は、二人の子供、十郎、五郎を連れて曽我祐信と再婚。兄弟は仇討ち一つを目指して成長していきました。 建久4年5月、源頼朝は富士の裾野で巻き狩り(四方を取り巻いて獲物を追い込む狩り)を実施しました。工藤祐経も側近として同行しています。曽我兄弟は、好機到来と、28日の深夜、工藤の陣屋に斬り込み、仇討ちを遂げたのです。 「曽我の十郎、五郎、父の敵・工藤祐経を討ち取ったり。この上は頼朝公に仇討ちに至る事情を訴えん」 と、一直線に頼朝の本営へ向かいました。しかし、十郎は討ち死にし、五郎は捕らえられ、翌日、打ち首になりました。十郎22歳、五郎20歳でした。 この仇討ちは、たぐいまれな義挙といわれ、曽我兄弟は武士の鑑と、うたわれました。「日本三大仇討ち」といえば、曽我兄弟の富士の夜襲、赤穂浪士の吉良邸討ち入り、荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘、といわれます。 了源房の父は、討ち死にした曽我十郎です。この時、いまだ母の胎内にあり、父の死後出生しました。成人して21歳の時、和田義盛の乱に軍功を立て、将軍に仕官して、相模国平塚の郷を与えられました。 ここに晴れて家名を再興し、河津信之と名乗ったのです。 しかし、一族の宿願を果たした了源の心は晴れませんでした。 「祖父は30歳で殺され、父は22歳で討ち死にした。わが一族は皆非業の死を遂げている。どんな悪業の報いなのか。たとえ今、自分が絶えた家を興し、再び父祖の名をあらわしたとしても、結局、この世のことは夢幻ではないか。武門に身を置いてはかえって罪を重ね、後生に大変な苦しみを受けることは明らかだ。今こそ真実の幸福を得たい」 了源房は、髪をおろして出家しました。ちょうどその時、国府津の御勧堂で親鸞聖人が説法しておられるという話を聞き、急ぎ参詣したのです。 親鸞聖人は、了源に阿弥陀仏の本願を説かれ、次のようにおっしゃいました。 「どんな人でも、阿弥陀仏の本願に救い摂られれば、過去世からの永い迷いを離れ、清浄安楽の仏土に往生できる。そなたの親族がいかなる業報を受けていようと、そなたが往生を遂げて仏となれば、思うままに教化を施し、同じく浄土へ導くことができるだろう」 了源は喜びの涙に暮れ、親鸞聖人のお弟子になりました。以来、布教に努め、60歳で亡くなっています。 甲斐の閑善房 御勧堂で仏縁を結んだもう一人のお弟子を紹介しましょう。 甲斐国(山梨県)に、小笠原長顕という武士がいました。彼は、世の無常を強く感じ、真の人生の師を探し求めていました。しかし、甲斐国には、見つからず、長顕はむなしく年月を送っていました。 ある時、親鸞聖人が相模国(神奈川県)国府津で、阿弥陀仏の本願を説かれているという話が伝わってきました。彼は直ちに故郷を振り捨て、親鸞聖人の元へ急ぎました。親鸞聖人は長顕の求道心の深さを感じられ、仏法を懇ろに話をされました。 長顕はその場で、親鸞聖人のお弟子となり、閑善房と名を改めました。これより閑善房は親鸞聖人のおそばを離れず、求道に励み、ご帰洛の時もお供をしています。 東海諸国を経て尾張国に入られた時のことです。親鸞聖人は大浦の真言宗の寺にしばらく滞在され、地元の人々に説法されました。 短期間でしたが、非常に大きな反響があったことが次の記述で分かります。 「遠近の道俗、市のごとく群集し、隣里の男女、山のごとくに参詣し、各聞法随喜せずという事なし」(二十四輩順拝図会) いよいよ、親鸞聖人が京都へ向け出発される時、地元の人々は、親鸞聖人に願い出ました。 「どうか、お弟子の方をお一人、当地にお残し願えませんか。続けて阿弥陀仏の本願を聞き求めたいのでございます」 この大役を親鸞聖人は、閑善房に命じられました。彼はよく師の仰せと羽島の人々の要望に応え、親鸞聖人の教えの徹底に生涯を懸けたといいます。

浄土真宗 親鸞聖人と信願房へのお諭し
親鸞聖人と信願房へのお諭し

天台宗から改宗 宇都宮の観専寺を開いた信願房は、元の名を稲木次郎義清といい、常陸稲木の領主でありました。 地位や財力に恵まれた生活を送っていた義清を突然の不幸が襲ったのです。最愛の一子が病で亡くなったのです。 「ああ、あまりにもむごい……。あの子は、どこへ行ったのか……。幼い子供にさえ死は容赦しない。まして、自分が今日まで生きてこられたのが不思議だ」 無常を強く感じた義清は、後生の一大事の解決を目指して出家し、宇都宮に寺を建てました。天台宗の修行に励んだのです。 どれだけ精進しても心が晴れない義清を救ったのは、親鸞聖人との出会いでした。しかも、親鸞聖人のほうから飛び込んでこられました。 高田に新たな拠点を築かれ、布教戦線を拡大しておられた親鸞聖人は、観専寺で一夜の宿を請われたのです。 親鸞聖人は、住職と、夜を徹して話をされました。比叡山での自らの体験を踏まえ、自力の修行では決して救われないことを明らかにされたのです。 初めて阿弥陀仏の本願を知らされた義清は、直ちに親鸞聖人のお弟子となり、「信願房」と生まれ変わりました。 観専寺では、翌日から、里人を集めて親鸞聖人のご法話が開かれています。 「後生の一大事は、阿弥陀仏の本願によらなければ絶対に解決する道はありません。」と静かに説かれるや、 「老若男女の念仏に帰すること、草木の風になびく如く、たちまちに聖人の御名は四方にひびきわたった」 と寺伝に記されています。 真の報恩 親鸞聖人が、京都へ帰られてから10数年後、信願房は、師の親鸞聖人を慕って上洛しています。親鸞聖人のお住まいを訪ね、懐かしさとうれしさが胸にあふれ、いつまでも帰国を忘れているかのようでした。 親鸞聖人は、信願房にこう諭されています。 「仏恩、師の恩を報ずるということは、自信教人信にしくものはない」 「自信教人信」とは善導大師のお言葉、「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」の一節です。 「自分が信心決定(絶対の幸福)することは大変難しいことだ。人を信心決定(絶対の幸福)まで導くことはさらに難しいことだ。だからこそ、阿弥陀仏の本願を伝えることが、いちばんの御恩報謝になるのだ」 と教えられています。 親鸞聖人も、広大無辺な絶対の幸福に救ってくださった阿弥陀仏のご恩、救われるまで導いてくださった善知識のご恩に報いる道は、一人でも多くの人に阿弥陀仏の大悲を伝える以外にない、と言い切っておられます。 信願房は、直ちに関東へ帰り、親鸞聖人の教えの徹底に生涯をかけました。常陸、河内、三河に聞法道場を築き、今日に至るまで、信願寺、勝福寺、弘誓寺、慈願寺などがその流れをくんでいます。 文章伝道のさきがけ 親鸞聖人が京都へ帰られたあと、親鸞聖人と関東の門弟を結んでいたのが、書状でありました。 関東から、信心や教えについての疑問が手紙で寄せられる。親鸞聖人は、一つ一つ分かりやすく返事を書いておられます。 しかも、手紙の最後には、 「この文をもて人々にも見せ参らせさせ給うべく候」 とか、 「かように申し候様を、人々にも申され候べし」 と書き添えておられます。 親鸞聖人からお手紙を頂いた関東のお弟子は、親鸞聖人のじかのご説法として、門徒に読み聞かせていたのでしょう。 現在、親鸞聖人の書状は46通知られていますが、そのうち34通が写本、版本です。親鸞聖人の一通のお手紙が、次々に書き写され、印刷されて、10万以上の人たちに伝わったのでしょう。お弟子が親鸞聖人のお手紙を携えて、文字を読めない農民や漁民の元を訪れ、繰り返し繰り返し読み聞かせている姿が目に浮かぶようです。 これはまさに、文章伝道のさきがけです。この方法をさらに徹底されたのが、蓮如上人の『御文章』といえます。

浄土真宗 親鸞聖人と二十四の筆頭・性信房
親鸞聖人と二十四の筆頭・性信房

親鸞聖人には、「関東の二十四輩」といわれるお弟子がありました。その筆頭に挙げられるのが、性信房です。 「性信房が、関東にいてくれると、わが身を二つ持っているように心強い」 とまで親鸞聖人はおっしゃっています。親鸞聖人と性信房の関係をたどってみましょう。 手のつけられない悪党 性信房は、常陸(今の茨城県)の生まれですが、怪力無双の荒くれ者で、悪五郎と呼ばれ、恐れられていました。 “心性は狼のごとし。礼法を知らず、従順の心なし”(二十四輩順拝図会) とあります。 悪事の限りを尽くす悪五郎に、人生の転機が訪れたのは18歳の春でした。武者修行を志し、諸国を遍歴している途中、たまたま京都の吉水草庵の前を通りかかりました。門前、市をなし、老若男女が喜々として中へ入っていく。 「ものすごい人だなあ。一体、何があるのだろう」 悪五郎も、興味半分で入ってみました。そこでは、法然上人のご説法が行われていたのです。 「人は皆、自分のことぐらい分かると思っている。ところが、自分の目で自分の眉を見ることができないように、近すぎるとかえって分からないものだ。仏さまは、見聞知のお方である。だれも見ていない所でやった行いもすべて見ておられる。陰で人の悪口を言っていることも皆聞いておられる。心の中で、人に言えない恐ろしいことを思っていることも皆、知っておられる。かかる仏さまの眼に、我々の姿は、どのように映っているであろうか」 「『大無量寿経』には、 心常念悪(心常に悪を念じ) 口常言悪(口常に悪を言い) 身常行悪(身常に悪を行じ) 曽無一善(曽て一善無し) と説かれている。心と口と体で、悪を造り続けているのが人間の真実の姿だと、お釈迦様は断言されている」 縁側で聴聞していた悪五郎の耳に、法然上人のお言葉は、強い衝撃として入っていきました。 「まるで、自分のことを言われているようだ。いや、自分でさえ分からない自分の姿まで見透かされている」 初めて聞く仏法でしたが、悪五郎は、恐ろしいほど、その奥深さを感じたのです。 「阿弥陀仏の本願は、すべての人間を、極重の悪人と見抜かれ、そんな者を、必ず絶対の幸福に助ける働き……」 法然上人は、阿弥陀仏の本願を詳しく説かれました。 「ああ、オレは人生を懸けて悔いのない教えに遇うことができた」 ご説法のあと、悪五郎は、感涙にむせびながら、法然上人の前へ出ていきました。 「私は、これまで、悪を悪とも感じず、人を悩ませ、悪逆の限りを尽くしてきました。かかる悪人にも、阿弥陀仏がお慈悲をかけてくだされていたとは……。どうか、私をお弟子の端にお加えくださり、お導きください」 髻を切って、懇願するのでありました。 この時、法然上人は親鸞聖人におっしゃいました。 「感心な若者だ。しかし、老年の私に従っても、後、幾らも随身できないだろう。そなたの元で、よく育ててやりなさい」 かくて、悪五郎は「性信房」と名を改め、親鸞聖人のお弟子になった。聖人34歳、悪五郎18歳の年でありました。 翌年、権力者の弾圧により、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流刑に遭われました。「承元の法難」です。 性信房は、親鸞聖人のおそばを離れず、出身地の関東へ向かいました。 横曽根門徒の形成 越後から関東へ入られた親鸞聖人は、常陸の稲田を拠点に、各地をくまなく布教されました。 建保2年、性信房とともに下総(茨城県南部)へ赴かれた時、横曽根に荒れ果てた寺院を見つけられました。この無住寺院を譲り受け、聞法道場に改造されたのが、今の報恩寺です。(茨城県水海道市豊岡町) 建保2年といえば、聖人42歳。関東へ来られて間もなくのことです。下総に親鸞聖人を慕う人がいたとは思えません。全くの新天地へ、布教開発に乗り込まれたのでした。そのご苦労の一端が、一本の松に託され、今日に伝わっています。 報恩寺の近くの道路わきに、石垣で囲んだ土盛りがあります。その中に、細く体をくねらせた松がそびえています。恐らく、親木が枯れたあと、同じ根から出てきた松でしょう。そばには、「親鸞聖人舟繋之松」と刻まれた石碑が立てられています。 親鸞聖人が、舟をつながれた松……。周りは広々とした田園なのに、なぜ、舟を? 当時、この辺りは、利根川の氾濫原で、広大な沼地でした。親鸞聖人は、その中を、舟を駆使され、布教されていたのでした。陸地を歩くより、余程早く目的地に着ける。いかに、時間を惜しまれ、精力的に活動しておられたかが分かります。 横曽根の報恩寺は、性信房に任されました。やがて、「横曽根門徒」といわれる関東で最大の門徒組織が形成されていきます。 報恩寺は、江戸時代に焼失し、寺は東京・上野に移されました。現在の水海道市の報恩寺には、性信房に関する資料は残されていないといいます。 箱根の別れ 親鸞聖人は、60歳過ぎに、懐かしい京都へお帰りになることになりました。性信房もお供をして、小田原の箱根山に至った時のことです。 親鸞聖人は、関東のほうを眺められ、性信房に、諭すようにおっしゃっいました。 「関東にあって20年、私は、阿弥陀仏の本願を伝えてきた。初めは非難攻撃していた者も、今は本願を信じ、ありがたいことである。しかし今後、どんな妨げが起きて、仏法が曲げられていくか分からない。それ一つが気にかかる。性信房よ。関東にとどまって、阿弥陀仏の本願を徹底してもらいたい。それが何よりありがたい」 突然の仰せに当惑する性信房に、親鸞聖人は次のようなお歌を示された。 「病む子をば あずけて帰る 旅の空 心はここに 残りこそすれ」 関東の門弟を、わが子のように思っておられる聖人の御心に打たれた性信房は、謹んでこの大任をお受けし、涙ながらに引き返していったのです。 この時、親鸞聖人は性信房へ、ご愛用の笈(おい:大切な物を入れて背負う箱)を与えられたことから、以来、この地は「笈ノ平」と呼ばれるようになりました。現在、“親鸞聖人御旧跡性信御房訣別之地”と刻まれた大きな石碑が置かれています。 数年後、性信房は、関東の情勢を報告するために上洛しています。 「東国において真宗日々盛んになり、信心決定(絶対の幸福)の同朋が多く現れています」 性信房の言葉を聞かれた親鸞聖人は、 “それぞ、わが生涯のよろこび、何事かこれにしかん” 御喜悦限りなし、と『二十四輩順拝図会』は伝えています。 「一日も早く、阿弥陀仏に救われて、信心決定してほしい」 親鸞聖人は、生涯、これ一つを念じていかれたのでした。 箱根での不思議 箱根神社は、昔、箱根権現と呼ばれていました。親鸞聖人と箱根権現の関係は、『御伝鈔(ごでんしょう)』に次のように記されています。 親鸞聖人は、夕暮れになって、険しい箱根の山道に差しかかられた。もうどこにも旅人の姿はない。夜も深まり、やがて暁近く月落ちるころ、ようやく人家らしきものを見つけ、ホッとなさる。 訪ねた家から、身なりを整えた一人の老人が、恭しく出迎えて、こう言った。 「私が今、少しまどろんでいますと、夢うつつに箱根権現(神)さまが現れて、もうすぐ私の尊敬する客人が、この道を通られる。必ず丁重に誠を尽くして、ご接待申し上げるように……と、お言いつけになりました。そのお告げが、終わるか終わらぬうちに、貴僧が訪ねられました。権現さままでが尊敬なさる貴僧は、決して、ただ人ではありませぬ。権現さまのお告げは明らかです」 老人は感涙にむせびつつ、丁寧に迎え入れ、さまざまのご馳走で、心から親鸞聖人を歓待した。 親鸞聖人は、ここで三日間、教化されたといいます。以来、神官皆、親鸞聖人を尊敬し、箱根権現の社殿に、親鸞聖人の御真影が安置されるようになりました。それは明治時代まで続いたといいます。神仏分離の法令以後、親鸞聖人のお姿は宝物殿に移されています。 嘉念房の布教 箱根を越えられる親鸞聖人の前に一人の男がひざまずきました。 「私は都から流罪に遭って、この山で配所の月を眺めている者です。失礼ですが、どのような修行を積まれた大徳であらせられますか」 「何の修行も積んでいません。ただ、阿弥陀仏の本願をお伝えしている者です」 聞いた流人は涙を流して喜び、 「常日ごろ、後生の一大事が心にかかりながら、いたずらに月日を送っていましたが、今ここに善知識に巡り会えたことを喜ばずにおれません。どうか、流人のあばら家にお立ち寄りくださり、わが、暗い心をお救いくださいませ」 と願い出ました。 親鸞聖人は、喜んで流人の住居へ足を運ばれ、どんな人をも、必ず、絶対の幸福に助けたもう阿弥陀仏の本願を、懇ろに説かれたのでした。 この流人は、親鸞聖人のお弟子となり、嘉念房と名乗りました。 嘉念房は赦免のあと、京都に親鸞聖人を訪ね、常におそばにあってお仕えしたといいます。 弘長2年、親鸞聖人が浄土往生の人となられたあと、嘉念房は、美濃国を巡教し、白鳥郷に草庵を結んで親鸞聖人の教えの徹底に全力を尽くしていました。 ある日、一人の男が来て、 「私は、ここより北に当たる飛騨国白川郷に住む者ですが、これまで、仏法というものを聞いたことも見たこともありませんでした。どうか私の国にも仏法をお伝えください」 と願い出ました。 嘉念房は、これぞわが使命と、翌日にも出発しようとしました。しかし、白鳥郷の人々は、 「せっかく念仏繁盛のこの地を後に、山深い飛騨国へ入ることはやめてください」 と言いましたが、嘉念房は、 「そんな所こそ、仏法を弘めなければならぬ……。きっと、師の親鸞聖人もお喜びになるであろう」 と決意を述べ、布教に旅立ったといいます。

浄土真宗 親鸞聖人と肉親の無常に導かれた門弟たち
親鸞聖人と肉親の無常に導かれた門弟たち

「無常を観ずるは菩提心の一なり」といわれるように、親や子の死が縁となって、親鸞聖人のお弟子になった人たちも多いです。 一人息子を亡くした鳥喰(とりばみ)の唯円、二人の愛児を失った源海房、父の死が縁となった念信房の、仏法との出遇いを見てみましょう。 愛児を失った鳥喰(とりばみ)の唯円 武蔵国猶山の城主・橋本綱宗は、16万5千石の大名で、家は栄え、愛する妻子とともに幸せな家庭を築いていました。 綱宗の、何よりの楽しみは、一人息子・清千代丸の成長でした。自分の生きがいと、将来の望みのすべてをわが子にかけていました。 ところが、建保3年2月5日、清千代丸が病に襲われ、わずか8歳にしてこの世を去ったのです。突然の出来事でした。 綱宗は、あどけない子供の笑顔を、いつまでも忘れることができません。 「この世に、当てになるものは何一つない。8歳の子供でさえ、無常の風に誘われるのだ。オレはよく43歳まで生き延びてきたものだ。今死んだら、どこへ行くのか……」 激しい無常を感じた綱宗は、城を弟に譲り、修行者となりました。善知識(ぜんぢしき・仏教の先生)を求めて諸国遍歴の旅に出たのです。 同年3月1日、常陸国の那珂郡烏喰村を通った時のことです。 とある空き家で一夜を過ごした綱宗は、不思議な夢を見ました。仏さまが現れ、 「是より西に当り稲田といえる処に、名僧知識下られて仏法弘通(ぐづう)盛なる程に、明日は急ぎ参詣致すべし」 と告げられたといいます。 翌日、綱宗は、夢に従って稲田へ向かいました。するとどうでしょう。門前、市をなし、多くの人たちが、親鸞聖人の説法を聴聞している最中でした。綱宗も群衆に交じって、聞法に身を沈めたのです。 綱宗の心に、親鸞聖人のお言葉はしみ入るように響いてきます。後生に一大事あることと、その解決は、阿弥陀仏の本願以外には絶対ないと知らされ、その日のうちに、親鸞聖人のお弟子となり、唯円房の名を賜っています。二十四輩の24番です。 (親鸞聖人43歳) (綱宗は『歎異抄』の作者ではないかといわれる「河和田の唯円」とは別人です。区別して、綱宗を「鳥喰の唯円」といわれます) 恋に破れた鬼女伝説 JR水戸駅から北へ20キロ。水郡線・谷河原駅の近くに、鳥喰の唯円が開いた西光寺があります。田園に囲まれた静かな所です。 本堂へ入ると、仏壇の横に、動物の角らしき物が、丁重に置いてあります。大きさは、大人の親指ほど。相当年数がたっているようで、小さな虫食いの穴がいっぱいあります。 「なぜ、こんな所に角が……」と寺で尋ねると、そこには、悲しい恋の伝説が秘められていたのでした。 昔、「おため」という18歳の美しい娘がいました。貧しい農家に生まれましたが、篠田民部という豪族の家に雇われ、働いていたのです。 その家には六郎という屈強の若者がいました。六郎は、毎日まめまめしく働くおための姿を見て、恋心を抱くようになりました。おためも、若くてたくましい六郎に思いを寄せていました。いつしか二人の間には身分の違いを超えてひそかな愛が育っていったのです。しかし、楽しい恋の日々は長くは続きませんでした。 六郎は、親の説得に負けてしまい、近所に住む富豪の娘と結婚し、おためは、民部の家から追い出されてしまったのです。 引き裂かれた、おための恋慕の情はますます燃え盛り、いつしか、激しい憎悪の炎へと転じていきました。 「どうせ一緒になれないのなら、呪い殺してやる」 藁人形に釘を打ち、毎夜毎夜、恐ろしい形相で祈るのであった。 ある夜、彼女の様子を垣間見た村人が、 「おための頭に角が生え、鬼になったぞ!」 と驚いて告げたといいます。 村人は、何とか元の優しい娘に戻すことはできないかと、親鸞聖人に救いを求めました。 哀れに思われた親鸞聖人は、早速、おために会いに行かれました。狂乱状態の彼女を、どう導かれたかは伝えられていませんが、何日間もご説法なされました。 冷静さを取り戻したおためは、命を懸けた恋さえ続かない現実と、自分の思いどおりにならないと、恋する相手をも殺してしまう恐ろしい自己の姿を知らされ、戦慄せざるをえませんでした。 しかし、「どんな人をも、必ず助ける、絶対の幸福に」の阿弥陀仏の本願を知らされ、熱心な仏法者に生まれ変わりました。 恐ろしい角は、おためだけが持っているのではありません。私たちの心の中には、常に、うらみ、ねたみ、そねみ、怒りの角が隠れていないでしょうか。 父の急死に驚いた念信房 念信房が開いた照願寺に、親鸞聖人は、六度も、足を運ばれています。稲田の草庵からではかなりの距離があります。仏法を聞き求める人が一人でもあれば、どんな山奥へでもご布教に歩かれるお姿がしのばれます。 安貞2年の春、聖人(56歳)は、はるばる念信房の草庵を訪ねられ、ご説法なされました。ちょうど、桜のつぼみが膨らみ始めるころでしたが、親鸞聖人がお越しになると、一夜にして満開となったといいます。 これを見た人々は、 「浄土真宗が末代まで栄えるあかしに違いない」 と喜んだという。 稲田へ帰られる親鸞聖人は、この桜の花を何度も振り返って眺められたことから、「見返りの桜」と呼ばれています。 念信房は、この地にあった高沢城の城主、高沢氏信でした。智勇兼備の武人といわれていましたが、 「いつかは散る命、死んだらどうなるのか」 と深く悩んでいました。そんな時、父親が突然亡くなったのです。父は、臨終間際に、 「稲田の親鸞聖人を訪ねよ」 と言い残しました。 「今度は自分の番だ」 と強く感じた氏信は、遺言に従って稲田へはせ参じたのです。 親鸞聖人は、後生の一大事をズバリ説き切られます。 真実に衝撃を受けた氏信は、城主の位をなげうって、聖人のお弟子となったのです。31歳の決断でした。(二十四輩の17番目) 二人の子供を同時に亡くした源海房 武蔵国の領主・安藤隆光には、7歳の月寿と5歳の花寿という二人の男の子がありました。寵愛限りなかったのですが、ある年、ふとした病で、二人の子供を同じ日に亡くしてしまったのです。 一度に二人の愛児を失った隆光の嘆きは、他人には想像できません。 涙尽き、ともに死のうとまで思っていたある夜、夢の中に、尊い僧が現れ、次のように告げました。 「汝、未来永劫、悪道に堕ちるのは必定である。今、観音、勢至菩薩が、かりに、そなたの愛児と生まれて、世の無常を目の当たりに示してくだされた。これひとえに汝ら夫婦を菩提の道に入れしめんがためである。今、幸いに、末代不思議の善知識あり。親鸞聖人と名づく。汝、速やかに行きて、仏法を聴聞せよ」 隆光は、大いに喜び、急ぎ、親鸞聖人の元へはせ参じ、聞法に励みました。 この時、隆光34歳、親鸞聖人のお弟子となり、源海房と生まれ変わったのです。

親鸞聖人 人生に悩んだ門弟たち
親鸞聖人と人生に悩んだ門弟たち

親鸞聖人には、関東の二十四輩をはじめとして、多くのお弟子がありました。彼らは、どのようにして仏法を求めるようになったのでしょうか。 剣の道に励んでいた善念房、比叡山で修行していた唯誓房、有名な歌人だった慈善房、城主だった唯信房、4人のドラマにスポットを当ててみたいと思います。いずれも、人生の目的を探し求めていた人たちでした。 剣の道を捨てた善念房 18歳の青年、三浦義重は人生の目的に悩んでいました。 「武士の家に生まれ、当然のごとく、剣の道に励んでいるが、このまま一生を終わっていいのだろうか……」 ある日、常陸(茨城)の名勝・桜川のほとりを通りかかった時、一人の僧形の旅人が、土手にたたずんでいるのが見えました。 「今日の桜川は、いつもより水かさが多い。川を渡れずに困っておられるのだな」 と感じた義重は、 「私の背中にお乗りください」 と、屈強な体を差し出しました。この旅人こそ、親鸞聖人だったのです。 義重は胸まで水につかりながらも、無事、親鸞聖人を対岸へお渡しできました。 親鸞聖人は、青年の気負いのない誠実さに感謝の言葉をかけられるが、義重の表情は、どことなく暗い。 「何か、お悩みを?」 「はい。人は何のために生きるのか、悩んでいます。私は、親の言いつけに従い剣の道を求めていますが、強くなる目的は一体何なのか。結局、人を殺し、領地を奪うためとしか思えません。父は、私の13歳の時に討ち死にしました。思えば、はかない一生。私も、いつ命を落とすかしれません。人生懸けて悔いのない目的が知りたいのです」 義重は胸のうちを親鸞聖人に打ち明けました。 「あなたの言うとおり、欲や怒りや愚痴のために命を落とすのは、愚かなこと。人間には、なさねばならない重大な使命があります。それ一つを教えたのが仏教です」 親鸞聖人は、無明の闇を破って、絶対の幸福に救われることこそ、人生の目的であると、じゅんじゅんと教えられました。 「この方だ。この方こそ、本当の人生の師だ」 と確信した義重は、すべてを投げ捨てて、親鸞聖人のお弟子となりました。二十四輩の12番「善念房」。建保4年8月13日、暑い夏の日であったと記されています。(親鸞聖人44歳)。 思いがけない出会いが、人生を大きく変える。真実を知らされ、喜びに燃える義重は、聞法に励みました。 晩年、伊勢地方(三重県)の布教に力を尽くし、85歳で亡くなっています。 合戦の功名を捨てた唯誓房 唯誓房は、源氏の勇将・佐々木四郎高綱の四男で、もとの名を沢田四郎高信といいました。 高信は、父とともに源平の合戦に参陣し、若武者ぶりを発揮しました。しかし、手柄を立てながらも、心には大きな悩みがありました。 「合戦は武士の晴れ舞台。しかし、現実には、功名を争っての殺し合いでしかない。命を懸けて名誉を追い求め、一体、何が残ったのか。多くの人間を殺した自分は、死んだらどこへ行くのか」 高信は、武士を捨てました。「諦乗」と名を改め、比叡山に登り、後生の一大事の解決目指して、修行に没頭したのです。しかし、打ち込めば打ち込むほど、救われない自己の魂が見えてくる。天台宗では助からないとさとった高信は、真っ暗な心を抱えて比叡山を下りました。 「このままでは、後生は一大事だ。どこかに心の解決をしてくださる善知識(ぜんぢしき・仏教の先生)はおられぬか」 と、雲水の旅に出たのでした。全国を流浪し、常陸国大戸郷の天台宗浄土院に身を寄せていた時のことです。 「稲田の親鸞聖人が、生死出ずべき道を説いておられる」 という話が伝わってきました。 早速、稲田を訪ねた高信は、草庵を埋め尽くす参詣者が、老いも若きも、真剣に聞法している姿に驚きました。 親鸞聖人は、 「仏法を聞く目的は、後生の一大事の解決以外にはない。この一大事の解決は、阿弥陀仏の本願によらなければ絶対にできない。阿弥陀仏の本願は、どんな人をも、必ず絶対の幸福に救う力がある」 と力強く断言される。 高信は、「長い間探し求めた善知識に、今、お会いできたぞ」と全身で叫ばずにおれませんでした。比叡山を下りて4年目のことでした(承久2年、聖人48歳)。 さらに驚いたことには、戦場でともに戦った父・高綱も、数年早く親鸞聖人のお弟子になっていたのです。不思議なご縁で親子の再会がありました。 文学の名声を捨てた慈善房 後鳥羽上皇の家臣・橘重義は、優れた歌人として有名でありました。しかし、いくら文学で名声を得ても、心には満たされないものを感じていたのです。 重義が、所用で関東に向かい、常陸国の村田郷の太子堂で一夜を明かした時のことです。夢の中に、聖徳太子が現れ、 「これより西南に高僧ましまして説法したもう。これ弥陀如来の化身なり。汝、早く行きて要法を聴聞せよ」 と告げられたという。 驚いた重義は、稲田の草庵に親鸞聖人を訪ねました。 「地位や名誉は、いつまでも続く幸せではない。阿弥陀仏によって、大安心、大満足の絶対の幸福に救われてこそ、永遠に変わらない幸せになれるのです」 親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を説法なされました。重義は、それまでの地位も名誉も投げ捨てて、直ちに親鸞聖人のお弟子になっています。(建保3年、聖人43歳)。 慈善房と生まれ変わった重義は、夢を見た太子堂のほとりに聞法道場(常弘寺)を建て、親鸞聖人の教えを伝えることに生涯をかけました。(二十四輩の20番目) 城主の位を捨てた唯信房 親鸞聖人は、稲田から鹿島方面へ、よくご布教に歩かれました。そのコースの途中、霞ヶ浦の北岸に幡谷村がありました。 建保4年8月13日の夜のこと。この村の城主・幡谷次郎信勝の夢に、観音菩薩が現れ、 「汝、城主の位は高くとも、七珍万宝は久しくとどまらず。ただいま城下に休んでおられる親鸞聖人のご教化を被らずは、永劫に生死を出ずることあるべからず。直ちに行きてみ教えを賜れ」 と告げたといいます。 「おまえは今、城主という地位や財産に満足しているかもしれぬが、いつまでも続く幸せではないぞ」 という観音の言葉が、深く胸に刺さりました。 不思議な夢に驚いた信勝は、夜が更けていたにもかかわらず、一人で城外に出てみました。 するとどうか。夢のとおり、親鸞聖人が三日月を眺められながら、しばしお休みになっているではないか。 信勝は、親鸞聖人にお目にかかって、事の次第をお話ししました。親鸞聖人は、 「今まで何度もこの城下を往復しています。そのたびに、いつかお会いして親しくお話ししたいと思っていました。ようやく縁が熟したのですね」 とお喜びになりました。信勝は胸をときめかせながら、親鸞聖人を城内へご案内し、夜の明けるまで、阿弥陀仏の本願を聴聞させていただいたのでした。 信勝は、 「善知識まします今、真剣に求めなかったら、未来永遠、苦しみから逃れることはできないぞ」 という、観音菩薩の言葉をかみしめずにおれませんでした。城主の位をなげうって、親鸞聖人のお弟子となり、「唯信房」と生まれ変わったのです。(二十四輩の23番目)。 唯信房は、親鸞聖人の教えの伝道に燃えました。北は福島県から、南は島根県に至るまで、布教の跡が残されています。

親鸞聖人 歎異抄を書いたといわれる唯円房
親鸞聖人と歎異抄を書いたといわれる唯円房

親鸞聖人の教えを、流麗な文章で記した『歎異抄(たんにしょう)』。今日、最も有名な仏教書です。『歎異抄』は、誰が書いたものか、ハッキリしないのですが、「唯円房(ゆいねんぼう)ではないか」という説が有力です。 800年後のベストセラーになるような書物を著した人物として名前が挙がる唯円房とは、どんな人だったのでしょうか。 唯円が、親鸞聖人のお弟子になるまでには、大きな波乱がありました。元の名は平次郎。大の仏法嫌いで、放逸無慚(勝手気ままな行動をし、自己の心に恥じることのないこと)な悪人であったといいます。彼を仏法者に生まれ変わらせたのは、「血染めの御名号」でありました。 唯円が開いた報仏寺は、茨城県水戸市の郊外、河和田にあります。「血染めの御名号」は現存していて、古くなって文字がよく見えませんが、懐中電灯の光を当てると黒一色と思えた御本尊の上に、「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の文字が、かすかに浮かび上がってきます。「帰命尽十方無碍光如来」を十字の名号といいます。注意して見ると、帰命と尽十方無碍光如来の間を、左上から右下にかけて、斜めに切り裂いた跡があります。 出家前の唯円房 報仏寺には、次のような物語が伝えられています。 常陸国、河和田に平次郎という男がいました。大酒飲みで、仕事はろくにせず、ばくち、女狂い、喧嘩と、手がつけられない悪人でした。 それに対し、妻・おすわは、親鸞聖人の教えを熱心に聞き求める仏法者でありました。しかし、夫は大の仏法嫌い。 「おまえは坊主にだまされているんだ」 「これ以上、聞きに行くのなら、出ていけ」 とののしり、いつも妻を殴っていました。彼女の体には生傷が絶えない。それでも、おすわは、夫の目を忍んで聴聞に出掛けていたのです。 稲田の草庵(親鸞聖人関東布教の本拠地)でご説法があった日のこと、壁際にうつむいて座っているおすわを見られた親鸞聖人は、優しく声をかけられました。 「どうなされた……。悩んでいることがあるなら、この親鸞に話してみるがよい」 慈愛に満ちたお言葉の前に、おすわは、日頃の思いが噴き出して、泣き崩れてしまいました。 「夫は、私がご法話に参詣すると、殴る、蹴るの暴力を振るいます。しかし、後生の一大事を知らされた以上、聞法を断念することはできません。何とか夫にも分かってもらおうと努力しましたが、もう、限界なのです。今度こそ、家を出ようと思って来ました」 「そうか、よく分かった」 親鸞聖人はうなずかれ、 「しかし、あなたのご主人にも、後生の一大事があるのですよ。夫婦となったのも、過去世から深い縁があったのです。ご主人が荒くれているのは、心に深い苦しみがあるからですよ。あなたが、仏法を伝えなければ、ご主人は、苦から苦の綱渡りで死んでいかねばなりません」 と諭された。そして、 「おすわさん、十字の名号を書いてあげましょう。ご法話に参詣できない日は、この御名号を礼拝し、阿弥陀仏を一心に念ずるのです」 「はい、ありがとうございます」 「そして、つらいだろうが、ご主人には、明るく優しく仕えなさい。心から愛されるようになれば、必ず、分かってもらえます」 それ以来、おすわは、別人のように働いて夫の酒代を稼ぎ、明るく接するように努めていきました。 そんなある日の朝、いつものように、夫を仕事に送り出したおすわは、奥の部屋に御名号をお掛けして、 「阿弥陀さま、今日もご法話を聞きに行くこともできません。一体、いつになったら夫が許してくれるのでしょうか」 と言いながら礼拝していました。 ところが、その時、平次郎は、忘れ物を取りに家へ引き返してきたのです。おすわは、全く気づいていない。 平次郎には、おすわが、何かを広げて読んでいるように見えました。しかも、 「申し訳ありません。夫がなかなか家を出してくれませんので、お話を聞くことができません。おすわは寂しゅうございます」 と言っているではないか。 その言葉を聞くなり平次郎は、 「おすわ、何を見ているんだ!」 とどなり込んだ。おすわは、慌てて御名号を懐に隠しました。 「出せ!今、見ていたものを見せろ!」 夫の罵声を浴びて、おすわは、紙のように白くなってしまいました。 「隠したな、何か!」 「いえ……」 「今、懐へ隠したものは何だ!」 「これは……」 胸を抱いて、彼女はすくんでしまいました。見せれば、たちまち御名号を破ってしまうだろう。 「ははあ、読めた。男からの手紙だな。どうもこのごろ、おまえの様子が優しすぎると、変に思っていたが、隠し男を作っているな」 「まっ、めっそうもない」 「いや、そうに違いない。だから、おれの目をごまかすために、優しくしたのだろう」 「どうしてそんなことを……。あまりにも情けないお疑いでございます」 おすわは、髪の毛を震わせて、夫の言葉を恨めしく思いました。 「じゃあ見せろ。見せられないだろう。よくも、男の面に泥を塗りやがったな。こうなったら、生かしておけねえ」 平次郎は、山刀を抜いて、おすわに切りかかりました。おすわは逃げ惑う。 「誤解です、おまえさん。見せますから待って!」 と絶叫したが、 「ええい、今更、見たくもねえや。思い知れ」。 たけり狂った平次郎の山刀は、彼女の肩先から胸にかけて、びゅっと、斜めな光を描いた。 「キャッー!」 これが彼女が夫へ残していった悲壮な終わりの一声であった。 「切った……」 平次郎は、しばらくは呆然としていたが、やがて、我に返ると、身の毛がよだってきました。 「おすわ……、ああっ、おれは何ということをしてしまったんだ……」 しかし、もう悔いも男泣きも間に合わない。このままでは、殺人犯として捕らえられると思った平次郎は、おすわの死体をこもに包んで、裏の竹薮に埋めてしまいました。 「これで、だれにも分かるまい」 と思って家に帰ると、どうだろう。殺したはずのおすわが、何食わぬ顔をして、出迎えるではないか。 平次郎は、驚きのあまり、立ちすくんでしまいました。 「あなた、どうなさったのです?」 「おすわ、おまえは、本当におすわか……、キツネやタヌキであるまいな」 「何を馬鹿なことを言っているんですか」 「確かに、おれは今、おまえを殺して竹薮に埋めてきたはずなのに……。じゃ、おれは一体、だれを殺したんだ……」 おすわも、事の次第を聞いて驚き、人違いだったら一大事と、二人で、竹薮へ急ぎました。 おすわを埋めたはずの所を掘り返してみると、不思議にも、「帰命尽十方無碍光如来」の御名号が出てきました。しかも、帰命の二字より袈裟懸けに切られ、血潮に染まっている。 ハッと、おすわは、懐を確かめました。親鸞聖人から頂いた御名号がない。 「ああ、私の身代わりに……。未来ばかりか、この世から、このような大悲を賜るとは……」 言葉も絶え果て、南無阿弥陀仏と念仏を称えるばかりでした。 平次郎も、あまりのことに両目に涙を浮かべてひざまずき、念仏を称えるのでした。 ここに、縁が熟したのか、平次郎は、山刀で自分の髪を切り落とし、女房に向かって、 「そなたは、おれの善知識(ぜんぢしき・仏教の先生のこと)だ。これまで仏法をそしり続け、今また、尊き御名号をやいばにかけるとは、恐ろしい地獄行きの大罪を犯してしまった。おすわ、許してくれ……」。 平次郎の後悔の涙は止まりませんでした。 そのまま、夫婦そろって、稲田へ向かい、親鸞聖人に、一切の顛末をお話ししたのである。 平次郎は尋ねる。 「聖人さま、あんな不思議なことは、想像もできません」 「そんなことは、まだまだ不思議のうちに入りませんよ。御名号には、もっともっと不思議なお力があるのです」 「私は、御名号を切り裂いてしまいました。仏にやいばを向ける恐ろしい罪を犯してしまいました」 「あなたが、親を殺す五逆罪、仏法をそしる謗法罪は、恐ろしい行為です。しかし、阿弥陀仏の作られた名号には、どんな極悪人をも、絶対の幸福に救い摂ってくださる不思議の大功徳がおさまっているのです」 「私のような者でも、救われるでしょうか」 「どんな人でも、必ず助かります」 親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を懇ろに説かれました。悪逆の限りを尽くした平次郎も、親鸞聖人のお弟子となり、唯円房と生まれ変わったのです。 以来、ご法話の日には、唯円とおすわが仲良く連れ立って参詣する姿が見られるようになりました。唯円は、69歳で亡くなるまで、親鸞聖人の教えを伝えていきました。 おすわと平次郎の物語は、名号の不思議な大功徳を印象深く表した伝説です。 『歎異抄第1章』に、 と記されているように、阿弥陀仏の本願は、どんな人をも、必ず助ける、平次郎のような悪人でも、決して例外ではなかったのです。

長生き
親鸞聖人の教えを聞くと長生きができる?

親鸞聖人は、仏法を聞くと長生きができると教えられています。 人生50年と言われた時代、仏教で高僧といわれる人たちは、健康を保ちつつ、長寿を全うした人が多いようです。 どうして僧侶は、長生きしている人が多いのでしょうか。 ・早寝早起きの完全朝型の生活だから ・毎日、同じスケジュールで過ごすルーティンが決まっているから ・食事が精進料理など、肉や魚よりも野菜中心だから ・年をとってからも大きな声を出して読経しているから ・欲や怒り、愚痴の心を抑えて、心穏やかに過ごしているから ・座禅が精神修養によいから ・特有の呼吸法があるから いろいろと理由があげられ、実際に生活に取り入れている人もあるでしょう。 特に、浄土仏教の高僧方は、長生きされています。 禅宗の曹洞宗(そうとうしゅう)を開いた道元(どうげん) 54歳 天台宗(てんだいしゅう)を開いた最澄(さいちょう)   56歳 真言宗(しんごんしゅう)を開いた空海(くうかい)    62歳 日蓮宗(にちれんしゅう)を開いた日蓮(にちれん)    61歳 これらの人と比較して、 親鸞聖人は90歳 蓮如上人は85歳 法然上人は80歳 で亡くなっておられます。 親鸞聖人の、このようなお言葉があります。 (意訳) 大功徳の南無阿弥陀仏を称えれば、苦しみの根元が断ち切られ、受けて当然な不幸や災難や若死からものがれて、この世から限りなき幸せになるのである (意訳) 阿弥陀如来に救われれば、息災延命させていただけると、『金光明経(こんこうみょうきょう)』の寿量品に説かれていることである。 親鸞聖人、蓮如上人、法然上人が、長命であった理由の一番は、ご自身が阿弥陀仏の救いにあい、絶対の幸福となり、一人でも多くの人に阿弥陀仏の救いを知ってもらいたいと、自利利他(じりりた)の人生を歩まれたことにあるでしょう。 阿弥陀仏の本願によって、苦しみの根元である暗い心・無明の闇(むみょうのやみ)が破られ、どんな病にかかろうと、体が衰えようと、死を目にしても崩れない絶対の幸福になりますと、心に歓喜が多くなると教えられています。 そんな心で毎日、生活していますから、「病は気から」と昔から言われるように、健康を保ちやすくなります。 絶対の幸福になられた喜びから、一人でも多くの人に知ってもらいたいと、仏法を伝えられた親鸞聖人の周りには、たくさんのお弟子、また、親鸞学徒(親鸞聖人の教えを聞き求める人)が参集しました。 これを自利利他といいます。自利とは自分の幸せ、利他とは他人の幸せということです。自利利他とは、自利のままが利他になる、利他のままが自利になるということで、自分が幸せになると、人にも幸せになってもらいたいと思います。また、人が幸せになると、それがそのまま自分の幸せとなります。 ある医学の研究によると、 人とのつながりは、健康にも影響があり、寿命が延び、心臓病のリスクが減り、免疫力が高まり、ストレスへの耐性も高まる。孤独と寿命について、30万人以上の被験者を分析したところ、社会的なつがなりの強い人は、孤独な人に比べ、生存率が50%高くなるといいます。 ある人が長生きするかどうか知りたいのなら、食生活や運動、喫煙の習慣などを調べるよりも、人とのつながりを調べた方が正確に予測できるともいわれます。 法然上人には、380人余りのお弟子があり、親鸞聖人には、関東での約20年間で、二十四輩といわれる代表するお弟子の他、たくさんのお弟子、親鸞聖人の教えを聞き求める人たちが集まっていました。今日、仏教の宗派で一番多いのは浄土真宗ですが、それは蓮如上人のご活躍によるものです。 長生きがしたい方は、親鸞聖人の教えを聞かれ、自利利他の道を歩んでいきましょう。

南無阿弥陀仏
「南無阿弥陀仏」の念仏にはどんな意味があるのですか?

質問:南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と称える念仏には、どんな意味があるのでしょうか。 念仏とは、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と口で称えることをいいます。 親鸞聖人といえば、「南無阿弥陀仏」を思い浮かべる人も多いでしょう。 「念仏さえ称えていれば、だれでも極楽へ往けると教えられたのが親鸞聖人」 と思われていますが、実は、大変な誤解なのです。 「念仏さえ称えていれば、死んだら極楽へ往ける、ということはありませんよ」と教えられたのが、親鸞聖人なのです。 親鸞聖人の教えを正確に伝えられた蓮如上人は、こう教えられています。 ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、 極楽に往生すべきように思いはんべり。 それは大に覚束なきことなり。(御文章) 御文章には、何度もその誤りを正しておられます。 では、念仏とは、何でしょうか。 念仏は、大きく2つに分かれます。 自力の念仏と他力の念仏です。 化学的には同じ涙でも、嬉し涙あり、悲し涙くやし涙など、さまざまあるように、 同じく南無阿弥陀仏と称えていても、称え心は、いろいろあります。 夜中に通る墓場で、魔除け心で称える念仏 肉親に死なれ、悲しみ心で称える念仏 台本にあるから、仕事心で称える俳優の念仏など、 称え心によって、念仏は、自力の念仏と他力の念仏の2つに分かれます。 阿弥陀仏の力によって、無明の闇(暗い心)が破れて、幸せになった人は、その嬉しさに、念仏を称えずにおれなくなります。 念仏は、阿弥陀仏へのお礼の言葉だからです。 お礼の言葉は、日本人なら「ありがとう」ですが、アメリカやイギリスの人なら「サンキュー」、フランス人なら「メルシー」、中国人なら「謝謝」と相手によって変わります。 阿弥陀仏に対しては、「南無阿弥陀仏」と称えることがお礼なのです。 これを他力の念仏といいます。 自力の念仏とは、無明の闇が破れていない心で称える念仏をいいます。 無明の闇が破れているかどうかで、自力の念仏と他力の念仏は分かれます。 無明の闇とは何か、破れたらどうなるのか。 親鸞聖人は、主著『教行信証』の冒頭に 難思の弘誓は難度の海を度する大船 無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり と教えられています。 (関連:親鸞聖人の主著、国宝『教行信証』) では、そもそも、「南無阿弥陀仏」の六字は、どういう意味でしょうか。 月刊誌「とどろき」で詳しく説明していますので、ご覧ください。 「南無阿弥陀仏」って何ですか(クリックでPDFが開きます)

一向専念無量寿仏
浄土真宗が一向宗と なぜ呼ばれるようになったのか

(質問):浄土真宗を一向宗となぜ呼ばれるようになったのですか (解答) 親鸞聖人の教えを「浄土真宗」と言いますが、「一向宗」とも呼ばれます。 なぜ浄土真宗を一向宗と呼ばれるようになったのでしょうか。 親鸞聖人の教えを伝えられた蓮如上人は、こう教えられています。 あながちに我が流を一向宗となのることは別して祖師も定められず おおよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、皆人の申しなす故なり しかりと雖も、経文 に「一向専念無量寿仏」と説きたまう故に、 一向に無量寿仏を念ぜよといえる意なるときは、一向宗と申したるも子細なし (意訳) 親鸞聖人は「浄土真宗」と仰っている。「一向宗」とは、親鸞聖人の言われたことではないのだが、余りに親鸞聖人が阿弥陀仏一仏に向けと教えられたので、世間の人は「あれは一向宗だ」と言うのだろう。 だが、「一向専念無量寿仏」は釈迦の教えの結論だから、それを強調された親鸞聖人の教えを「一向宗」と言ってもいいのではないか。 「一向専念無量寿仏」とは 「一向専念無量寿仏」とは「無量寿仏に一向専念せよ」と読みます。 意味は「阿弥陀仏一仏に助けてもらいなさい」ということです。 これは仏教の結論であると、親鸞聖人、教えられています。 阿弥陀仏とは、どんな仏さまか、 お釈迦さまとどう違うのかは、こちらをお読み下さい。 お釈迦さまと阿弥陀仏は、同じ仏さまですか? どんなに物やお金に恵まれても、心から満足できない原因は、 無明の闇といわれる暗い心であり、 すべての苦しみの根元である無明の闇が破れると、 どんな人も本当の幸せになれると仏教で教えられています。 この暗い心を明るい心にする力は、阿弥陀仏しかないから、 「一向専念無量寿仏(阿弥陀仏一仏に助けてもらいなさい)」と お釈迦さまは仏教の結論として教えられました。 親鸞聖人は、釈迦の教えの結論である「一向専念無量寿仏」を 強調して教えられたので、 後の世の人たちは親鸞聖人の教えを「一向宗」と呼ぶようになったと 蓮如上人は、教えられているのです。 親鸞聖人は、主著『教行信証』の冒頭に 『難思の弘誓は難度の海を度する大船  無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり』 と教えられています。

肉食妻帯
親鸞聖人は、なぜ公然と肉食妻帯(肉を食べ結婚する)なされたのですか?

(質問):親鸞聖人は、なぜ公然と結婚されたのですか? (解答) 親鸞聖人は三十一歳の時に、公然と「肉食妻帯(にくじきさいたい)」をなされました。「肉食」とは魚や獣の肉を食べること、「妻帯」は結婚することです。 親鸞聖人の時代、仏教といえば、天台宗や真言宗など、山にこもって修行し、欲・怒り・愚痴の煩悩と闘って、本当の幸せになろうとする教えばかりでした。 僧侶は、欲のままに行動する、肉を食べ、結婚することは、固く禁じられていました。 当時、僧侶が公然と肉食妻帯することは、 仏教界だけでなく、社会を大騒ぎさせることだったのです。 そんな肉食妻帯を公然とされた親鸞聖人を、 “己に素直に生きられたお方”といったイメージを持っている人は少なくないようです。しかし、己の欲望のままになされた行動ではありませんでした。 それは、山にこもって修行している人も、生きる為に仕事をしている人も、 男も女も、老いも若きも、一切の差別なく、すべての人が、 本当の幸せになれる道を教えられたのが、本当の仏教であることを 明らかにするためでした。 仏教で明かされる「人間の姿」とは 私たちは生きる為とはいえ、毎日、鶏、魚、牛、豚など、 どれだけの生き物の命を奪って、肉を食べているでしょうか。 野菜や穀物を作る時にも、多くの虫を駆除しています。 蚊に刺されて一時の怒りで殺したり、 楽しむ為に釣りや狩猟で殺すこともあります。 私たちは当たり前に思っていても、殺される動物は、人間に食べられる為に生きているとは考えてはいないでしょう。 どんな生き物でも、死にたくないと思っています。 船上の魚がピチピチはねるのも、首を絞められる鶏がバタバタもがくのも、 苦しいからに違いありません。 お釈迦さまは、すべての生命は平等で、上下はなく、 生き物を殺すことは「殺生罪」と教えられています。 ところが、私たちは、殺生せずしては生きていくことができないのです。 みな、肉食しています。 また、結婚していない人もありますが、 仏教では、心でどんなことを思っているのか、心を最も問題にします。 それは、心が口や体を動かしているからです。 心で思わないことは、口で言ったり、体でやったりすることはありません。 心で異性のことばかり考えていたら、 たとえ口や体でやらなくても、妻帯しているのと同じだと 仏教では教えられています。 そうなると、みな、妻帯しています。 すべての人は、肉食妻帯しているのです。 肉食妻帯をやめないと、本当の幸せになれないとしたら、 すべての人は、幸せになれないことになります。 親鸞聖人は、肉食妻帯していても、本当の幸せになれる道を 教えられた本当の仏教を明らかにする為に、 公然と肉食妻帯されたのでした。 親鸞聖人がそこまでして明らかにされた、 本当の仏教とは、どんな教えだったのでしょうか。

1-26_800
親鸞さまってこんなにすごい方だったの!?

親鸞聖人は、今から800年前、京都にお生まれになり、鎌倉時代に活躍なされました。 親鸞聖人と聞いて、当時、僧侶には固く禁じられていた結婚を、公然となされたことを思い浮かべる人もあると思います。 明治の文豪・夏目漱石は、親鸞聖人の結婚を、こう述べています。 親鸞聖人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想を持たなければあれ程の大改革は出来ない。(模倣と独立) ぶれない信念をもっておられたと評価しています。 有名な文芸評論家の亀井勝一郎は、 親鸞を語ることは私にとって、人生を語るに等しい。 私のまず最初に言うべきことは、親鸞に出会ったという、その謝念でなければならぬ。 私たちも、この人と出会ったから、人生が変わったということがありますが、 この感謝の言葉は、レベルが違います。 歴史小説で知られる司馬遼太郎は、 鎌倉時代というのは、一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった。 鎌倉時代には、他にも有名な人がいますが、 親鸞聖人を生んだだけでも偉大だったのか!? 小説家の杉本苑子は、 これほどまで純粋に、己を責め、己の中に巣くう業のしたたかさ、 罪の重みにおののきつづけた人、呵責されつづけた人が、 親鸞の後にいたろうか。残念ながら『ノー』である。 水晶の結晶さながら澄み通った純な魂の懊悩……。 それゆえに私たちを搏ち、私たちを限りなく惹きつけ寄らしめる 親鸞聖人のような宗教家は、彼をもって絶えた。 古代史研究家の古田武彦は 貴族と修行者だけに制限された救済の可能性は、万人に救済の可能性を開き、絶大の力を発揮した。(親鸞-人と思想-) 文化勲章受章の丹羽文雄は、 親鸞のような人に巡り会えたことは、 一介の文学者としても、人間としても、生涯の喜びである。 ここに辿り着くまでに私は、さんざん道草を食ってきたが、 「疑謗を縁とせよ」と、 親鸞はとうの昔に私のような小ざかしさを見透かしていたのである。 俗な言葉で言えば、グーの音もでないというのが実感である。 親鸞聖人を褒めたたえる人はあふれています。 海外からも評価されています。 ノーベル文学賞を受賞したフランスの作家、ロマン・ロランは、 親鸞聖人は、十三世紀に日本仏教の最大宗派である真宗を創設した。 貴族の血を引き、京都近郊に生まれた彼は、人間と無限との心やさしき仲介者として師法然のあとを引き継ぎ、 天と地を近づけ、仏陀の恵みを万人の手の届くものとした。 これほどまでに、多くの人を引きつける親鸞聖人は、 どんな方なのか、また、どんなことを教えていかれたのでしょうか。

1kara01
浄土真宗の祖師・親鸞聖人ってどんな方ですか?

(質問):浄土真宗の祖師・親鸞聖人ってどんな方ですか? (解答) 親鸞聖人は今から約800年前(平安末期)、京都にお生まれになりました。 4歳で父君、8歳で母君と死別され、世の無常に驚かれた聖人は、9歳で出家を志し、比叡山天台宗の僧侶となられます。 しかし、29歳の時、20年間の天台・法華の教えに絶望なされ、下山を決意。同じ年、京都・吉水の法然上人から教えを受け、本当の幸せになられました。 以後、90歳でお亡くなりになるまで、すべての人が本当の幸せになれる道を説き続けられたのです。今日、世界の光と多くの人から仰がれています。 詳しいご生涯は親鸞聖人のご生涯をご覧ください。 (質問):浄土真宗は、よく鎌倉新仏教といわれますが、親鸞聖人が新しく作られた教えなのですか? (解答) 更に親鸞、珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり これは、親鸞聖人の常の仰せです。 「珍らしき法」とは、今まで誰も教えなかったことです。「親鸞は、今まで誰も教えなかったことを伝えているのではない。」 このように言われると「では、誰の教えを伝えているのですか」と聞きたくなります。 それに親鸞聖人が答えられたのが「如来の教法」です。この如来とは釈迦如来、お釈迦さまのことです。教法とは、教も法も、いつでもどこでも変わらない教えということです。如来の教法とは、お釈迦さまが教えられた仏教のことです。 「われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」:親鸞ももう間違いないと知らされ、皆さんにお伝えしているだけなのです。 親鸞聖人の教えといっても、仏教以外にはないことがわかります。親鸞聖人は、お釈迦さまの真意を明らかにされたのでした。