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親鸞聖人と浄土真宗がやさしく分かる入門サイトです。 初めて学ぶ方も、イラスト入りの解説で分かりやすく学ぶことができます。

仏事

なぜお盆に「盆踊り」を踊るのか

目次 ・お盆と盆踊り ・日本三大盆踊りとは ・私たちはお盆を何をしたらよいか ・まとめ   お盆と盆踊り お盆とは、正しくは「うらぼん」といいます。『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』からきています。地域によっては、「盂蘭盆(うらぼん)」と言っているところもあります。   『仏説盂蘭盆経』で説かれている内容を知れば、なぜ盆踊りをするのか、わかります。 仏説盂蘭盆経というお経には、こんなことが説かれています。 お釈迦さまの十大弟子の一人に目連(もくれん)という人があります。目連は、神通力(じんつうりき)第一といわれ、特に孝心の深い人でありました。 その目連が、神通力を得て三世(さんぜ)を観ました時に、痛ましいことに亡き母が餓鬼道(がきどう)に堕ちて苦しんでいることが分かったのです。 彼は深く悲しんで、直ちに、鉢に飯を盛って母に捧げましたが、喜んで母がそれを食べようとすると、たちまち、その飯は火炎と燃え上がり、どうしても食べることができません。 鉢を投げ捨てて泣きくずれる母を、目連は悲しみ「どうしたら、母を救うことができましょうか」と、お釈迦さまにお尋ねしました。 その時、お釈迦さまは、「それは、そなた一人の力では、どうにもならぬ。この7月15日に、飯、百味、五果などの珍味を、十方の大徳、衆僧に布施しなさい。布施の功徳は大きいから、母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」と教えられました。 目連が、お釈迦さまの仰せに従ったところ、母は、たちどころに餓鬼道から天上界(てんじょうかい)に浮かぶことができ、喜びの余り踊りました。 *神通力:人間の考えの及ばぬ、霊妙自在の力。 *三世:過去世、現在世、未来世のこと。 *餓鬼道:食べ物も飲み物も、炎となって食べられず飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界。 *天上界:迷いの世界の中では、楽しみの多い世界。 目連が、喜びの余りに踊った。これが盆踊りの始まりだと言われています。   日本三大盆踊りとは 日本全国で、いろいろな盆踊りがありますが、日本三大盆踊りを知っておられるでしょうか。日本三大盆踊りといわれたら、一般的には、次の3つが挙げられます。 ・徳島県徳島市の「阿波踊り」 ・岐阜県郡上市(ぐじょうし)の「郡上おどり」 ・秋田県雄勝郡(おがちぐん)羽後町(うごまち)の「西馬音内の盆踊り」   徳島県徳島市の「阿波踊り」 徳島の阿波踊りが始まったのは江戸時代初期、既に400年以上の歴史があります。 毎年、8月12日~15日の4日間、行われています。開催期間中は、130万人以上の人が訪れるといわれています。   岐阜県郡上市の「郡上おどり」 郡上おどりは、江戸時代初期または中期から始まったといわれています。 期間は7月中旬から9月初旬まで。郡上おどりの特徴は期間の長さです。もっとも多くの人が訪れるのは、8月13日~16日。午後8時頃から翌日の明け方まで踊りを続ける徹夜踊り。この4日間で25万人~30万人が訪れるといわれています。   秋田県雄勝郡(おがちぐん)羽後町(うごまち)の「西馬音内(にしもない)の盆踊り」 西馬音内の盆踊りはいつ頃から始まったか、ハッキリしていません。鎌倉時代に始まったという人もあれば、安土桃山時代に始まったという人もあります。 昭和56年には国の重要無形民俗文化財に指定。毎年8月16日~18日の3日間、行われています。 西馬音内の盆踊りの特徴は衣装。 未成年の女の子は、彦三頭巾(ひこざずきん)と絞り染めの浴衣。成人女性は、編みがさに端縫い衣装で踊りに参加をします。彦三頭巾(ひこざずきん)とは黒頭巾(くろずきん)のこと。この黒頭巾を頭からしっかりと被るため、周りからは誰が踊っているのか、わからないようになっています。   私たちはお盆を何をしたらよいか 仏教では、お盆は、盆踊りや墓参りなどをして、先祖供養をする為だけでなく、生きている私たちが、仏教を聞く日であると教えられています。先祖供養を通して、やがて死んでいく人生、何の為に生まれてきたのか、何の為に生きているのか、自分の一生をふりかえってみましょう。 仏教には、人間に生まれてよかった、これ一つの為の人生だったのかと喜べる本当の幸せが教えられています。この幸せの身になると、うれしさの余り、じっとしておれません。 経典には「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)」「歓喜踊躍(かんぎゆやく)」という言葉があります。歓喜とは、歓もよろこび、喜もよろこび、よろこびの中のよろこび、最高の喜びということです。踊躍とは、踊も躍も、おどるという意味です。うれしくて、うれしくて、じっとしておれない、思わず、躍り上がるほどであると言われているのが「踊躍歓喜」「歓喜踊躍」です。   まとめ お盆の時に、先祖供養だけではなく、自分の一生をふりかえってみましょう。 仏教を聞いて「踊躍歓喜」「歓喜踊躍」の身になって、本当の盆踊りをしましょう。

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お墓はどうしたら?手続や費用より根元的な不安に答える親鸞聖人のお言葉

こんにちは。 先日、仏教の講演会に参加していたときに知り合ったお爺さんが「うちの墓は遠くにあって、自分はいいけれど、これから息子や孫が面倒見てくれるのだろうかと考えると心配になる」と墓のことでの悩みを話されていました。 目次 ・お墓の面倒を子供や孫がみてくれるか不安 ・お墓はきちんと管理しないといけない? ・墓について考える上でのヒント 墓参りの意義は何? ・まとめ お墓の面倒を子供や孫がみてくれるか不安 私がこれまで知り合ってきた中にも、お墓のことで悩みや心配を抱えていることを話す方がいました。 「嫁いでしまった娘しかいないので、私の墓の面倒を見てくれる人はいないのでないか」 「田舎に先祖代々の墓はあるが、遠いので世話ができない」 「子供には迷惑をかけたくない」 悩みの内容は様々ですが、よくよく話を伺ってみると、これらの悩みの元にあることの1つは、 「親や先祖の墓や納骨についてちゃんとしないと何かやくよくないことがあるのでないか」 「自分も墓や納骨がしっかりとなされていないと、いい処にいけないのでないか」 ということのようです。 「墓や納骨に関しての法律や手続き、費用については、様々な書籍が出ており、とても分かりやすいが、より人間の根元的なところから出るこれらの疑問や不安に仏教の教えから答えてもらいたい」とのお気持ちだと感じました。 (私の接してきた方は浄土真宗の方が多かったので、浄土真宗で言われることを中心に話を進めていきます) お墓はきちんと管理しないといけない? 浄土真宗の祖師、親鸞聖人は 某(親鸞)、閉眼(へいがん)せば賀茂河にいれて魚に与うべし 『改邪鈔(がいじゃしょう)』 (私が死んだら、賀茂川へ捨てて、魚に与えよ) と常に仰っておられました。 かなりびっくりする内容だと思います。 中には、親鸞様は自然にかえるのがいいと言われたのだと思う人もあるかもしれませんが、このお言葉は、墓や遺骨の取り扱いによっていい所にいけるかどうかが変わるものではないし、バチが当たるということもないのだと仰ったお言葉なのです。 仏教は生きている人が、本当の幸せになる道を示されたものです。 墓が悪いから、死んだ人が浮かばれないとか、バチが当たるなどということは仏教では教えられていません。 墓をどうするかを決めるには、亡くなった方が遺された私たちに何を望んでおられるか。 私が子供や孫に何を望むのかということを考えてみることから始めたらいいかもしれません。 墓について考える上でのヒント 墓参りの意義は何? 墓について考える上でのヒントになると思いますので、最後に墓参りの意味を紹介したいと思います。 浄土真宗では、墓参りは本当の幸せになる大切なきっかけになると言われます。 無常を観(かん)ずるは菩提心(ぼだいしん)の一(はじめ)なり という言葉が仏教で言われます。 無常とは常が無いということで、今の生活もずっとこのまま続いていくということはない。 当たり前の生活が崩れ、やがて私の命も終わっていくということです。 その現実をありままに見ていく(観ずる)ことが、菩提心(本当の幸せになりたいという心)の第一歩だと言われています。 2016年の交通事故死者は約3900人と言われますので、それだけ多くの人が突然この世を去っています。 それらの方の遺族を考えれば、何万人という人たちが悲しみに沈んでいるかしれません。 まとめ それなのに私たちは毎日いろいろなことに忙しく過ごしていて、今の生活が終わってしまうことがあるとは考えていないのではないでしょうか。 世の中、忙しくなるほど、人生を振り返る“間”が必要ではないでしょうか。 静かに自己を振り返る時間がほしいものです。 その点、墓前に静かにぬかずくときは、人生を見つめる得難い機会になることは間違いありません。 「私も死なねばならないのか」と思われ、厳粛な思いがするのではないでしょうか。 多くの人が気にしているお墓のことについて少し違う視点から話をしてみました。 自分一人だけのことではないので、簡単には決められないことでしょうが、「墓をどうするかを決めるには、亡くなった方が遺された私たちに何を望んでおられるか。私が子供や孫に何を望むのかということを考えてみること」が大事なことなのです。

阿弥陀経
仏説阿弥陀経とは

(質問):葬儀や法事の読経で耳にする阿弥陀経には、どんなことが教えられているのでしょうか。 (答え) 葬儀や法事で、なじみ深い阿弥陀経、正式には『仏説阿弥陀経』といいます。お経の名前は知らずとも、「シャーリーホ(舎利弗)」と繰り返されるのに、聞き覚えのある方も多いでしょう。舎利弗(しゃりほつ)とは、お釈迦様のお弟子です。 (関連:お釈迦様物語 仏弟子・舎利弗と目連) 釈迦一代の、結びの経といわれる『阿弥陀経』には、何が説かれているのでしょうか。 (長文で少し難しくなりますが、ご了承願います) 「如是我聞」(是の如く我聞く) お経の成立 約2600年前、インドに現れたお釈迦様が、35歳で仏という無上のさとりを開かれてから、80歳で亡くなるまでの45年間、説かれた教えを今日、仏教といわれます。 その教法は、七千余巻という膨大な数のお経に書き残され、総称して一切経(いっさいきょう)といわれています。 お経は、お釈迦様ご入滅後、高いさとりを開いた500人のお弟子たちが集まり、ご説法を記録したものです。 お弟子の一人が、まず、「このように私は聞きました」と、ご説法の記憶を語ったので、いずれのお経も、「是の如く我聞く」と始まります。 その後、その内容に問違いがないか、徹底討議され、500人が全員一致した時だけ、書記が記録していったのです。これを「仏典結集(ぶってんけつじゅう)」と言います。だからお経は、間違いない、お釈迦様の説法とされ、「仏説」とつけられているのです。 「一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき」 (意訳) ある時、お釈迦様は、1250人の優れたお弟子とともに、舎衛国の祇樹給孤独園におられました ここで「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)」とは、中インドのコーサラ国の首都・舎衛城にあった大寺院のことで、一般に「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」と呼ばれています。 『阿弥陀経』をはじめ、多くの経典が説かれた祇園精舎の建立には、「黄金布地の盛挙」とたたえられた有名なエピソードがあります。 (関連:お釈迦様物語 給孤独長者と祗園精舎の建立) 「爾時、仏、長老舎利弗に告げたまわく、是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う。其の土に仏有す、阿弥陀と号す、いま現に在して説法したまう」 阿弥陀仏と極楽浄土 「十万億の仏土を過ぎて世界有り」とは、どんなことでしょうか。 仏教では、大宇宙について、次のように教えられています。 地球のような世界が千個集まって小千世界(しょうせんせかい)、小千世界が千個集まって中千世界(ちゅうせんせかい)、中千世界が千個で三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)を形成している。 それらがまた無数に集まったのを、十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)といい、大宇宙を表しています。 天文学で今日、知られるようになったことが、仏教では2600年も前に、教えられていたことに、驚くかもしれません。 この三千大千世界を一仏土といい、「十万億の仏土を過ぎて、極楽という世界がある。そこにまします仏を、阿弥陀仏といわれる」と説かれているのです。 本師本仏の阿弥陀仏 阿弥陀仏とは、どんな仏さまなのでしょうか。 世の中では、「釈迦も、阿弥陀仏も同じ仏だろう」と思っている人が少なくありませんが、それは大変な間違いです。釈迦と阿弥陀仏は違う仏さまなのです。 お釈迦様は、地球上でただお一人、仏のさとりを開かれた方ですから、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。 そのお釈迦様が私たちに教えてくだされたのが、阿弥陀仏といわれる仏さまです。 阿弥陀仏と釈迦との関係について、蓮如上人は、次のように『御文章』におっしゃっています。 お釈迦様は、地球上ではただ一人、仏のさとりを開かれた方ですが、大宇宙には、地球のようなものが無数にあり、また無量の仏がましますと教えられています。 それらの仏を、「三世十方の諸仏」といわれます。 三世とは過去世、現在世、未来世のこと。十方とは十方微塵世界のことで、大宇宙のことです。 『阿弥陀経』では、大宇宙を東西南北上下の六方で表し、それぞれの方角に、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、妙音仏など、たくさんの仏方がおられると、お名前が挙げられています。それらの仏が「三世十方の諸仏」です。 次に「本師本仏」とは、先生ということですから、阿弥陀仏は、この大宇宙の仏方の先生である、ということです。 このお釈迦様の教えを、親鸞聖人も明らかにされ、蓮如上人も教えられているのです。 阿弥陀仏は十方諸仏の先生であり、大宇宙の仏方は皆、阿弥陀仏のお弟子ということです。 地球のお釈迦様も、十方諸仏の一人ですから、阿弥陀仏のお弟子です。 弟子は、先生の御心を正確に、一人でも多くの人に、お伝えします。だから弟子であるお釈迦様が、先生である阿弥陀仏の御心一つ、生涯教えていかれたのが仏教である、と親鸞聖人は『正信偈』に教えられています。 (書き下し文) 如来、世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を説かんがためなり ここで「如来」とはお釈迦様のこと。「如来、世に興出したまう所以は」とは、「お釈迦様が、この地球上に現れて、仏教を説かれた目的は」ということです。 「唯説」とは、ただ一つのことを説かれるためであった、ということです。七千余巻のお経、四十五年間の教法と聞きますと、「お釈迦様はいろいろなことを、教えていかれたのだろう」と思われますが、そうではなかった。 たった一つのことなのだと、親鸞聖人は断言されています。 一切経を99%読んでも、こんな断言はできません。残りの1%に何が書かれているか分からないからです。 一切経を何度も読破されての、親鸞聖人の断言なのです。 私たちは、お釈迦様が教えられた、そのたった一つのことを聞けば、仏教すべてを聞いたことになり、仏教のすべてを知ったことになります。このお釈迦様のただ一つ説かれた、そのことほど大事なことはないのです。 親鸞聖人は、それは「弥陀の本願」であるとおっしゃっています。 弥陀の本願とは、阿弥陀仏の本当に願っていられる御心のことです。 それは広大で深いので、海に例えられて「本願海」といわれています。お釈迦様45年間の教えは、弥陀の本願以外なかったのです。 「舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、東方にも亦、(中略)、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して偏く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと」 (意訳) “舎利弗よ、この釈迦が今、阿弥陀仏の本願の不可思議な素晴らしさを説いているように、東の方にも、このようなガンジス河の砂の数ほどの無数の仏方が、各々その国において、大雄弁をもって、三千大千世界の至るところで、「すべての人々よ、まさにこの不可思議な阿弥陀仏の本願を聞く以外に本当の幸せになれる道はないのだ」と、真実の説法をしておられるのだ” 大宇宙の仏方が保証人 弥陀の本願一つ説かれたのは、地球のお釈迦様だけではありません。大宇宙のあらゆる仏方が、「われらが本師本仏・弥陀の本願は真実だ。間違いない。我々が保証するから早く聞きなさいよ」と、弥陀の本願まことを、叫んでおられることが『阿弥陀経』に説かれています。 上述の東の方のみならず、南の方、西の方、北の方、下の方、上の方の、六方の仏方が同様に、弥陀の本願まことを保証しておられることが、続いて説かれており、これを「六方諸仏(ろっぽうしょぶつ)の証誠(しょうじょう)」といわれます。 これは「仏々相念(ぶつぶつそうねん)」とか「唯仏与仏の知見(ゆいぶつよぶつのちけん)」といわれ、さとりの働きにより、仏さま同士、互いに通じておられるから、お釈迦様は、このようなことが分かられたのです。 お釈迦様だけでなく、大宇宙のすべての仏方が、「偉大な仏さまだ、尊い仏さまだ、われらの先生だ」と褒めたたえ、手を合わせ拝まれる仏が阿弥陀仏です。 「釈迦に提婆(だいば)」といわれるように、最高の偉人といわれるお釈迦様にさえ、命を付け狙った提婆達多(だいばだった)がいました。また当時、インドでは、人民の3分の1はお釈迦様に帰依したが、3分の1は反抗し、3分の1はお釈迦様のお名前さえ知らなかった、と伝えられています。 どんな立派な方でも、すべての人から褒められることはないことが分かります。 お釈迦様の仰せのとおりです。 ところがそれが、仏の世界にはある。 阿弥陀仏は、大宇宙のすべての仏方に、褒めたたえられる仏なのです。それは、ほかの仏にない、優れたお力を持っておられるからです。 「彼の仏を何が故ぞ阿弥陀と号する。舎利弗、彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに障礙する所無し、是の故に号して阿弥陀と為す。又舎利弗、彼の仏の寿命及び其の人民も無量無辺阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と名く」 “阿弥陀”と名づけられる理由 「光明」とは、仏のはたらきのことで、智慧ともいわれます。 十方を遍く、光明無量の智慧は“どこでも救う”空間的無辺であり、三世を貫く、寿命無量の慈悲は“いつでも救う”時間的無限の真理です。 三世十方を貫く真理が阿弥陀の三字。“いつでも、どこでも救う”仏が、阿弥陀仏なのです。 無限のお徳がある中で、阿弥陀仏の最も優れたお働きは、光明無量であると、親鸞聖人は讃嘆なされています。 一切諸仏とは大宇宙の仏方のこと。 三乗衆(さんじょうしゅう)とは、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩(ぼさつ)のことで、いずれも私たちとはケタ違いに優れた方々のことです。 これらの方たちが異口同音に、阿弥陀仏を褒めたたえられていることを、「一切諸仏三乗衆ともに嘆誉(たんにょ)したまえり」と言われたのです。 それはお釈迦様が、すでに『大無量寿経』に、次のように喝破なされているからです。 (意訳) 阿弥陀仏の光明(智慧)は、諸仏に超過して、ずばぬけている。 そのずばぬけたお力とは「無明の闇」を破る、智慧のはたらきであることを、親鸞聖人は、「無明の闇を破するゆえ智慧光仏となづけたり」と言われています。 だからこそお釈迦様は、大宇宙の諸仏方を保証人に立てられてまで、弥陀の本願を、早く聞きなさいよと『阿弥陀経』に叫んでおられるのです。 「舎利弗、彼の土を何が故ぞ名けて極楽と為す。其の国の衆生は衆の苦有ること無く但諸の楽のみを受く、故に極楽と名く」 諸々の苦あること無く、ただ諸々の楽のみを受ける、極楽浄土の荘厳が、『阿弥陀経』には、詳しく説かれています。 (質問):極楽には、なぜ蓮の華が咲いていると説かれているのでしょうか。 (解答) 「池の中に蓮華あり、大きさ車輪の如し」(阿弥陀経)とあるように、極楽には、蓮の華が咲いていると説かれています。“また、極楽に生まれる人は、蓮の台に忽然と生まれるので「蓮華化生(れんげけしょう)」といいます。それは、蓮の華が、極楽へ生まれる人の、正しい信心の特徴を表しているからです。 (正しい信心とは、大変深い内容なので、親鸞聖人の教えをよく学んで、よく知って頂きたいと思います。) (質問):極楽には、なぜたくさんの鳥がいるのでしょうか。 (解答) 阿弥陀仏の浄土には、カリョウビンガの鳥や、共命の鳥など、たくさんの鳥がいると、『阿弥陀経』に説かれていますが、牛や豚や犬がいるとは説かれていません。 どうしてでしょう。鳥は、そのつど、飛びながらでも脱糞する動物ですが、牛や豚や犬は、ためて一度に放出します。 次のような蓮如上人のお言葉があります。 蓮如上人は、分からないことがあれば、恥ずかしがらずに、質問をして、納得するまで聞くことが肝心であると教えられています。 (質問):極楽はおとぎ話ではないのですか。 (解答) 極楽浄土には、金色さん然と輝く宮殿楼閣や、金銀の大地に八功徳水(はっくどくすい)の蓮池があると、『阿弥陀経』に説かれています。 現代人には、そんな世界は信じられないと、思う人もあるでしょう。 仏の境界である極楽は、人間界と大変異なるので、お釈迦様は、時には「説くべからず」とおっしゃり、随分表現に悩まれたようです。 犬や猫にパソコンの技術を説明するより、困難だったことでしょう。 しかし、説いても分からぬからと説かずにいては、人々に知らせることはできません。 そこで、お釈迦様は人間界で見聞しているもので、浄土の楽を例えられたのです。…続きを読む

倶会一処
倶会一処とは 一蓮托生の意味

(質問):「倶会一処」と刻まれた墓石を見ますが、「倶会一処」とはどういうことでしょうか。 (解答) 墓参りに行きますと「倶会一処」と刻まれた墓石を目にすることがあります。倶会一処とは「くえいっしょ」と読みます。『仏説阿弥陀経』に出てくるお言葉です。 「倶会一処」は「倶に一つの処で会う」と書き下します。倶に(ともに)一つの処(ところ)で会うということで、墓石の下に一緒にいるということではなく、一蓮托生と同じ意味なんです。 一蓮托生とは 一蓮托生とは、「お前と俺は一蓮托生の運命だ」と使うように、結果はどうあろうと最後まで行動や運命をともにすることをいいます。この一蓮托生も、もとは仏教から出た言葉です。仏教で一蓮托生とは、一つの蓮、同じ蓮の花の上に身を託し生まれ変わることを言います。倶会一処も一蓮托生も、死んで阿弥陀仏の極楽浄土で共に会う、生まれることで、同じ意味なのです。 親鸞聖人と法然上人 親鸞聖人は29歳の時、法然上人から真実の仏教を聞かれ、本当の幸せの身になられました。そして、すぐに法然上人のお弟子となっています。『歎異抄』に「親鸞は法然上人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とありますように、いかに法然上人を尊敬しておられたか、わかります。 35歳の時に、権力者の無法な弾圧により、法然上人は土佐(高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ流刑となります。流刑とは、無期懲役のようなものですから、親鸞聖人は、法然上人と次、いつ会えるか、わかりません。もう二度と会えないかもしれない、この世で永遠の別れをしなければならなくなったのです。 親鸞聖人は法然上人とお別れの際に、一首の歌を詠まれています。 会者定離(えしゃじょうり) ありとはかねて 聞きしかど  昨日今日とは 思わざりけり 会者定離とは、会った者は離れることが定まっているということで、「会うは別れの始め」「出会いは偶然、別れは必然」と言われるように、どんな人とも、必ず別れなければならない時が来ることを「会者定離」といいます。 「会者定離ありとはかねて聞きしかど」、いつかは別れの時が来ると覚悟はしていましたが、「昨日今日とは思わざりけり」、まさかこんな急にやってくるとは思っていませんでした。 親鸞聖人は法然上人と出会ってわずか6年でしたが、生涯において、かけがえのない6年でしたので、いかに悲しまれたか、想像に余りあります。 仏教では愛別離苦(あいべつりく)と言います。 愛別離苦とは、愛する人と別離する苦しみです。世の中には、愛する夫、共に歩んできた妻、感謝していた親、生き甲斐にしていた子供、支えにしていた友と永遠の別れをし、苦しみ悲しんでいる人が、たくさんおられます。 そんな深い悲しみにふける親鸞聖人に、法然上人は、歌で返されるのでした。 別れ路(わかれじ)の さのみ嘆くな 法の友  また遇う国の ありと思えば 法の友とは親鸞聖人のことです。 これが永遠の別れとなるかもしれないが、そんなに悲しむことはない。たとえこの世で会えなくても、死ねば浄土でまた遇えるから。再度の面会は弥陀の浄土で。 倶会一処、一蓮托生のことを言われています。 法然上人のお歌 法然上人にはこのように歌も残されています。 露の身は ここかしこにて 消えぬとも  こころは同じ 花の台(うてな)ぞ この世は露のようにはかないもので、いつ死ぬかわからないが、 死ねば弥陀の浄土で再会しましょう。 先立たば 遅るるひとを 待ちやせん  はなのうてなの なかば残して もし私が先に死んだら、後から来る人の為に、  蓮の台の半分あけて待っていましょう。 では、誰でも彼でも、倶会一処、一蓮托生、死んで阿弥陀仏の極楽で共に生まれることができるのでしょうか。それを教えられたのが、お釈迦さまであり、法然上人であり、親鸞聖人なのです。

白骨
蓮如上人の「白骨の章」

(質問):浄土真宗の葬式で読まれる「白骨の章」には、どんなことが書かれているのでしょうか。 (解答) 「白骨の章」は蓮如上人が書かれたものです。蓮如上人は、親鸞聖人の教えを正確に多くの人に伝えられた方で、その点で蓮如上人以上の方は、今日までありません。 「白骨の章」とは、名前にあるように、生まれた者は必ず死んでいかねばならない厳粛な現実を名文で書かれているので、浄土真宗の葬式の際に、よく読まれています。 それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきことは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりということを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて、誰か百年の形体をたもつべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫、末の露よりもしげしと言えり。 されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬる時は、六親眷属集まりて、嘆き悲しめどもさらにその甲斐あるべからず。 さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。 されば、人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。   ◯「人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに」 浮生とは、浮いた生ということで、浮き草のように根っこがなく、本当にたよりになるものはないということです。 蓮如上人は、別の『御文章』にこう書かれています。 まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つも相添う(あいそう)ことあるべからず。されば、死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。 (意訳) いよいよ死んでいく時は、今までたよりにしていた妻子や財宝も、すべて離れていってしまう、何一つもっていくことはできない。そして、ただ独りぼっちで死んでいかねばならないのですよ。 死んでいく時には何もたよりになりませんが、何かをたよりにしなければ生きていくことのできない人間の姿を「人間の浮生なる相」と言われています。   ◯「おおよそはかなきものは、この世の始中終(しっちゅうじゅう)、幻のごとくなる一期(いちご)なり」 この世の始中終とは、生まれてから死ぬまでということで、一休さんは「世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶(かかあ)としぼんで 婆と散りゆく」と歌っています。50年、100年といっても、過ぎてしまえば、あっという間ですよ、はかない、幻のようなものですよと言われています。   ◯「されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりということを聞かず。一生過ぎやすし。」 今までに1万歳、2万歳生きたという人を聞いたことがない。過ぎてしまえば、一生といっても、あっという間です。   ◯「我や先、人や先」 私たちは、人が死んでから自分が死ぬと思っています。 鳥辺山 昨日の煙 今日もたつ 眺めて通る 人もいつまで 鳥辺山とは、昔、死体を燃やすところでした。今でいうと火葬場です。その鳥辺山のふもとを通っている人が、昨日も煙が出ていたが、今日も煙が出ているな、今日も人の死ぬ日だなと思いました。しかし、いつまでも眺めることはできない、やがて自分が眺められる時が近づいています。 私たちなら、葬式と聞くと、人の葬式に参列することを考えますが、いつまでも人の葬式に参列するのではない、自分の葬式がなされる、そんな日が迫っているということです。 私たちは、自分だけは永遠に生きているように思ったり、人が死んでから自分が死ぬと思っています。「人や先、人や先」と思っていますが、蓮如上人は、そうではない、「我や先、人や先」私が死んで、人が死ぬんだ、と教えられています。   ◯「今日とも知らず、明日とも知らず」 生まれた者は必ず死ぬとは知ってはいますが、自分だけは、まだまだ死なないと思っています。交通事故で亡くなった人は、今日、自分は死ぬと思っていたでしょうか。今日死ぬと思っていなかった人が、今日、亡くなっているのです。 死はいつ襲ってくるか、わからない、今日かもしれない、明日かもしれないと言われています。   ◯「おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)、末の露(すえのつゆ)よりもしげしと言えり。」 本の雫、末の露とは、雨露のことです。雨が降ると、たくさんの雫があります。そのように、たくさんの人が毎日、亡くなっています。 お経に出ている話です。 ある人が、お釈迦さまに「お釈迦さまは、仏のさとりをひらかれた方ですから、私たちのように苦しみ悲しみは一切ないんでしょうね」と尋ねました。 お釈迦さまは「確かに、お前たちのような苦しみはないが、ただ一つだけ苦しみがある」と言われます。 「仏のさとりをひらかれたのに、苦しみはあるのですか」と更に尋ねると「私の心の眼には、毎日、多くの人が雨が降るように亡くなっている。それが心の眼にうつるのだ。それを思うと苦しいのだ」とお釈迦さまは仰いました。   ◯「されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。」 紅顔とは元気な顔ということです。朝、元気な顔で、行ってきますと出発した人が、その日には、見る影もない姿になってしまうことがあります。   ◯「すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬる時は」 無常の風とは、死のことを言います。二つの目を閉じ、最後の一息で死んでいきます。紅顔も桃李の装いも元気な顔のことで、死に顔に変わってしまいます。   ◯「六親眷属(ろくしんけんぞく)集まりて、嘆き悲しめどもさらにその甲斐あるべからず。」 六親とは、夫婦、兄弟、親子で、肉親のことです。眷属とは、親戚のことです。どれだけもう一度目を開けてくれと声をかけ、嘆き悲しんでも、どうにもなりません。   ◯「さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。」 そのままにしておくことはできないので、葬式の手配をしなければなりません。葬式が終われば、火葬場で燃やし、お骨拾いで、骨壺に入れます。どんな人も最後は白骨になってしまう。あわれなことではないかと言われています。   ◯「されば、人間のはかなきことは、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば」 老少不定とは、年寄りが先に死んで、若い人が後から死ぬとは、決まっていないということです。無常の嵐の前では、皆、同じ年だといわれます。   ◯「誰の人も早く後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)を心にかけて」 老少不定だから、誰の人も言われています。私は関係ないという人はありません。 「今日とも知らず明日とも知らず」だから、早くと言われています。 後生の一大事とは、生死の一大事(しょうじのいちだいじ)ともいわれ、生まれた者は必ず死んでいかねばならない一大事のことです。心にかけてとは、それを忘れてはいけませんよと言われています。   ◯「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」 お釈迦さまは、阿弥陀仏の力で、後生の一大事の解決をして、人間に生まれてきてよかった、悔いのない人生だったと、本当の幸せになることができると教えられました。 (関連:お釈迦さまと阿弥陀如来は、同じ仏さまですか?) お釈迦さまの教えを聞かせて頂き、本当の幸せになり、感謝の念仏を称える身になりなさいよと蓮如上人は、教えられているのです。

先祖供養
浄土真宗では位牌はどうすればいいの?

(質問):浄土真宗では、位牌はどうすればよいのでしょうか。浄土真宗以外の仏教では置かれているようですが。 (解答) 葬儀を行うと、四十九日までに位牌を準備することが当たり前のように思われていますが、浄土真宗では位牌は必要ないとされています。 浄土真宗以外の仏教では、追善供養の対象として位牌を用意します。 平成28年11月21日の朝日新聞に「位牌 私の死後は?」という記事が載っていました。 そもそも位牌とはどういうものなのだろうか。 「葬儀と日本人-位牌の比較宗教史」(ちくま新書)著者、菊地章太・東洋大学教授によると、位牌の原型が登場したのは紀元前3世紀ごろの中国だという。 仏教は紀元前5世紀ごろにインドで生まれたが、魂があの世からこの世に何度も生まれ変わるという「輪廻転生」を教えるインド仏教には墓も位牌もなかった。 位牌を「故人の魂が宿るもの」と位置づける葬儀作法は、中国で唐の時代に生まれた禅宗が徐々に確立させてきたという。 日本に禅宗が伝わったのは鎌倉時代で、そのころから位牌も登場する。 室町時代初期の僧の日記に「昔は位牌はなかった。(中国の)宋の時代から出てきた」という記述がある。 当初は将軍や高僧といった特別な人たちの葬儀のためのものだった。 室町幕府を開いた足利尊氏の位牌に刻む文字をどうするか相談する手紙が残っており、それを見ると、鎌倉時代に執権を務めた北条時頼や時宗の葬儀でも位牌を作ったことがわかる。 庶民の間に広まったのは江戸時代中期以降だ。 位牌のあり方は、地域により、また宗派によりさまざまだ。 親鸞が始めた浄土真宗は位牌を作らないのを基本としている。 (中略) 浄土真宗は、どうして位牌を作らないのを基本としているのか。 親鸞の教えを研究している人たちから教えてもらった。 第一に、親鸞自身が「父母の孝養のために念仏を唱えたことは一度もない」と言ったことだ。 「えっ」とたいていの人は驚いてしまうが、実はお釈迦様も「死んだ人に向かって読経しても意味がない」と言っている。 死んだ人の運命は本人の行い(業)で決まるもので、子孫がお経を唱えて変えられるものではない。 そもそも、お経は生きている人が幸せになるための教えを記録したもので、生きているときに聞いてこそ意味があるというのだ。 第二に、最善の供養とは先祖が喜ぶことをすることだからだ。親にとって何が一番うれしいかといえば、子が幸せに生きることだろう。 それには阿弥陀仏の本願を聞き求めればよいと、お釈迦様と親鸞は教える。阿弥陀仏の本願、つまり本当の願いとは、すべての人を幸せにしたいということ。 阿弥陀仏だけを信じて正しく幸せに生きようというのが浄土真宗の教えだという。 一方で、日本の多くの仏教宗派では亡くなった人の位牌を作り、仏壇の中に安置する作法が定着している。 実は、浄土真宗でも位牌を大事にしている人が少なくない。 その場合、仏壇の中に入れないようにしている人もいる。 お釈迦さま、親鸞聖人は、どのように教えられているのでしょうか。 お釈迦さまが説かれた『大無量寿経』(七千巻余りのお経の中で唯一の真実の経と親鸞聖人が教えられているお経)に『一向専念無量寿仏』というお言葉があります。 一向専念無量寿仏とは、無量寿仏に一向専念せよということです。無量寿仏とは阿弥陀仏の別名ですから、阿弥陀仏一仏に向かいなさいという意味です。 (関連:お釈迦さまと阿弥陀如来は、同じ仏さまですか?) 親鸞聖人の教えを、後世、一向宗といわれるほど、親鸞聖人は、一向専念無量寿仏を徹底して教えられました。 (関連:浄土真宗が一向宗となぜ呼ばれるようになったのか) それで、浄土真宗では、お仏壇の中に、阿弥陀仏以外のものは置かないようになったのです。 私たちが、先祖のご恩を思う時、先祖が私たちに一番望んでいることは何か、考えてみるとどうでしょう。いろいろと思い浮かびますが、やはり、子や孫の幸せではないでしょうか。 浄土真宗では、阿弥陀仏一仏に向かい、仏法を聞いて、本当の幸せになることが、本当の先祖供養であると教えられ、位牌は置かないのです。 さらに詳しく知りたい方は、お読みください。 少し難しくなりますが、浄土真宗では、このように教えられています。 仏、阿難(あなん)及び韋提希(いだいけ)に告げたまわく、諦らかに聴け、諦らかに聴け、善く之を思念せよ。仏、当に汝が為に苦悩を除く法を分別し、解説すべし。(観無量寿経) (意訳) お釈迦さまが、お弟子の阿難尊者(あなんそんじゃ)と韋提希夫人(いだいけぶにん)に、「よくよく聴くがよい。その苦悩を除く法を説く」と告げられる。 ※韋提希夫人・・・当時、インドにあったマガダ国の王妃で、お釈迦さまの篤い信奉者でした。 韋提希夫人は、空中に立たれた阿弥陀仏を拝見して救われています。経文には、その時、阿弥陀仏の左右に、観音菩薩(かんのんぼさつ)と勢至菩薩(せいしぼさつ)が立たれたと説かれていますが、親鸞聖人はあえて、観音菩薩、勢至菩薩を取り除いて、阿弥陀仏一仏となさっています。 その理由は、観音菩薩、勢至菩薩は、弥陀の慈悲と智恵を表しているから、阿弥陀仏一仏におさめられてのことであると覚如上人(かくにょしょうにん)は、こう説かれています。 今の行者(ぎょうじゃ)、錯って(あやまって)、脇士(わきじ)(観音・勢至)につかうることなかれ、ただちに本仏をあおぐべし(御伝鈔) (意訳) 人々よ。間違って観音や勢至に仕えてはならない。阿弥陀仏一仏に向かいなさい。 別に観音菩薩や勢至菩薩を安置すると、阿弥陀仏のほかに観音菩薩や勢至菩薩がいるように思って、それらに向かう者があるかもしれないと、親鸞聖人は思われたからです。 親鸞聖人は、一向専念無量寿仏を徹底して教えられた方でした。

法事
浄土真宗の葬式・法事とは

(質問):浄土真宗で、葬式・法事には、どういう意義があるでしょうか。 (解答) 昔から、親を亡くして初めて知る親の恩といわれますように、親が生きている間は、なかなか子供には、親の恩が分からないものです。生きている時にもっと親孝行しておけばよかったという気持ちは、真面目な人でしたら必ずといっていいほど、起きるのではないでしょうか。 妻に先立たれた夫、夫を亡くした妻、子供を失った親、世に深い悲しみに落ち込んでいる方は、少なくありません。こんなことならああしておけばよかった、こうしておけばよかったと。 さればといって、墓にふとんもかけられず、遺骨にご馳走を食べさせられもせず、どうしたら、この心が落ち着くことかと苦しむ心も起きてきます。 それで、立派な葬儀や法事を勤めることで、やり切れぬ気持ちを静めるほかはないと考え、「お経を読んでもらうだけが、死人のご馳走だ」という人もあります。  葬式や法事の読経が、亡くなった人のためになると思われていますが、そうではないんですよと教えられた方が、仏教を説かれたお釈迦さまです。 ある時、お釈迦さまに一人の弟子が、「死人のまわりで、有り難い経文を唱えると、死人が善いところへ生まれ変わるという人がありますが、本当でしょうか」と尋ねました。 その時、お釈迦さまは黙って小石を一個拾われて、近くの池に投げられました。水面に輪を描いて沈んでいった石をお釈迦さまは指さされて、こう反問されています。 「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながら回れば、石は浮いてくるであろうか」 石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。人間もまた、自業自得によって死後の果報が決まるのだ。経文を読んで死人の果報が変わるはずがないではないか。 読経や儀式で死者が救われるという考えは、もともと仏教にはなかったのです。 では読まれているお経は、どのようにしてできたのでしょうか。   (関連:お釈迦さまの説かれた「お経」「経典」「仏典」とは) お釈迦さまの説かれたお経も、親鸞聖人の書かれた『正信偈』も、蓮如上人の『御文章』も、みな生きている人のために書かれたものであって、死人のために書かれたものは、一つもありません。生きている人を本当の幸せに導くために書き残されました。  では、葬式や法事や読経は、全く無意味なことかといいますと、それは勤める人の心掛けによると教えられています。  私たちが亡くなった人を偲ぶ時、「亡くなった人が最も喜ぶことは何か、最も望んでいることは何か」をよく考えることが第一です。いろいろことが思い浮かぶでしょうが、煎じ詰めると私に「幸せになってもらいたい」ではないでしょうか。  このことを思いますと、私たちが本当の幸せになることが、亡くなった人の喜ぶことであり、恩返しにもなるのです。  厳粛な葬式や法事の時は、あれも忙しい、これも忙しいと、普段、なかなか自分を振り返ることのない人でも、亡くなった人を通して、人はやがて死んでいかねばならない、人生には終わりがある、人生を真面目に考えずにおれなくなります。  お釈迦さまの教えを聞かせて頂きますと、人生とは何か、考えさせられ、悲しみがいやされ、本当の幸せになることができます。  葬式や法事では、読経だけでなく、読まれたお経に説かれているお釈迦さまの教えを聞かせて頂くことで、本当に意味のある葬式、法事となるのです。

線香
なぜ線香をお供えするのですか?

(質問):なぜ線香をお供えするのですか? (解答) 仏前では「線香」をお供えします。 線香は、香木や香草を粉にし、練ったものですから、たくと煙とともによい香りがします。 それが人間の体臭を消すとして、阿弥陀仏への礼儀に使われるようになりました。 仏教では、この世界のことを、浄土に対して「穢土(えど)」といいます。 「穢土」とは、けがれた世界ということで、苦しみの絶えない世界という意味です。 「娑婆(しゃば)」という言葉を聞いたことのある方は多いと思います。 「娑婆」とは、昔のインドの言葉で、中国の言葉では「堪忍土(かんにんど)」といいます。この世界は、堪えがたきを堪え、忍びがたきことを忍び、生きていく世界なので、堪忍土といわれます。 親鸞聖人は、すべての人間は「有漏の穢身(うろのえしん)」と仰っています。 超世の悲願(ちょうせのひがん)ききしより われらは生死の凡夫(しょうじのぼんぶ)かは 有漏の穢身(うろのえしん)はかわらねど こころは浄土にあそぶなり 有漏とは、仏教で煩悩のことをいいます。 親鸞聖人は、人間は、煩悩の塊であると教えられています。 煩悩の塊ですから、煩悩が漏れているということで、煩悩を有漏といいます。 穢身とは、穢(けが)れた身ということです。 私たちは煩悩の塊なので、煩悩で穢れているということから、有漏の穢身といわれます。 煩悩とは、代表するものは、欲、怒り、恨み妬みの心です。 私たちは、朝から晩まで、心の中でどんなことを思っているでしょう。 欲、怒り、恨み妬みの心ではないでしょうか。 時には、他人には言えない恐ろしいことを思います。 そんな煩悩の塊の私たちが、 仏前に座る時には、線香をお供えして、心を静めて、合掌いたしましょう。

墓参り
浄土真宗の墓参りの意義

(質問):お盆やお彼岸に墓参りに行きますが、浄土真宗では、墓参りの意義をどのように教えられていますでしょうか。 (解答) 私たちはお盆やお彼岸に墓参りに行き、先祖供養をしています。 普段、忙しく、先祖を偲ぶこともなかなかできないので、墓参りを大切にしている人も多いと思います。 墓参りは浄土真宗では、先祖を偲ぶと共に、私自身を振り返るご縁だと教えられています。 私たちは、朝から晩まで、忙しい忙しいで、仕事や家事などに追い回されて、静かに自己を振り返ることがなかなかできません。忙しくなればなるほど、人生を振り返る時間をとることは必要ではないでしょうか。 講演でも落語でも、ずっと話し続けるのではなく、適当な間を入れることにより、話に緩急ができ、聞く人を引きつけます。 水墨画の空間は、画面全体を生かす大きな役割を果たしていますし、茶の湯の間の和敬清寂もそうです。 忙しければ忙しいほど、普段の日常から離れて、冷静に人生を振り返る時間が欲しいものです。 その点、墓参りに行き、静かに墓前にぬかずくことは、人生を見つめる得難い機会になるのではないでしょうか。 仕事、仕事で忙しいが、何の為に働いているのだろうか。 毎日、同じことの繰り返しで、このまま過ぎていっていいのだろうか。 残りの人生、これで終わっていいのだろうか。 ふと、心に浮かんでくるのではないでしょうか。 先祖を偲び、自身を振り返るご縁となれば、有意義な墓参りとなります。 親鸞聖人は、常にこう言われていたと記録されています。 某(親鸞)閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし(改邪鈔) (意訳)私が死んだら、賀茂川へ捨てて、魚に与えよ。 「私の墓は必要ない、川へ捨ててくれ」とは、 「自身を振り返ることを忘れるなよ」の強烈なメッセージです。

仏花
灯明(とうみょう)・仏花(ぶっか)の意味

(質問):お仏壇の灯明(とうみょう)やお仏花(ぶっか)には何か意味があるのでしょうか? (解答) 「灯明(とうみょう)」とは、お仏壇に灯す明かりをいい、阿弥陀仏の計り知れない「光明」を表しています。光明とは智恵ともいい、仏さまのお力をいいます。 「仏花」は、仏さまにお供えする花のことで、阿弥陀仏の「慈悲」を表します。 仏さまは、智恵と慈悲の両面もたれた方と教えられます。 その仏さまの智恵を「灯明(とうみょう)」で表し、慈悲を「仏花」で表しているのです。 智恵とは、私たちの先の見えない暗い心(仏教では「無明の闇」という)を 明るい心にする働きがあります。 慈悲とは仏教で「抜苦与楽(ばっくよらく)」といいます。 慈=抜苦 悲=与楽 苦しんでいる人がいたら放っておけない、苦しみをなくしてやりたい心が慈悲の「慈」、楽しんでもらいたい、幸せにしたい心が慈悲の「悲」です。 親の慈悲といえば、親の子供に対する抜苦与楽の心をいいます。 仏さまの慈悲を「大慈悲」といい、人間の慈悲を「小慈悲」といわれます。 どうして人間の慈悲を小さな慈悲、「小慈悲」といわれるのでしょうか。 人間の慈悲には3つの特徴があるからです。 1.気持ちが続かない 2.平等ではない 3.よかれと思ってやったことがかえって相手を苦しめることがある それに対して、仏さまの慈悲は、 1.変わることがない 2.すべての人に平等にかかる 3.智恵にうらづけられているので、相手を苦しめることがない この仏さまの慈悲を「大慈悲」といい、「仏花」で表しているのです。

数珠・念珠
数珠・念珠の意味

(質問):数珠・念珠にはどんな意味があるのですか? (解答) 数珠(じゅず)・念珠(ねんじゅ)とは、阿弥陀仏に合掌、礼拝する時に手に掛けるものです。 数珠・念珠は幾つもの珠を糸で結んでいます。 「珠」は「108の煩悩」を表しています。 煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、 1人に108あると教えられます。 特に私たちを煩わせ悩ませるものが3つあります。 これを三毒の煩悩といいます。 貪欲(とんよく) 瞋恚(しんに) 愚痴(ぐち) 貪欲とは、欲の心で、なければないで欲しい、あればあったでもっと欲しいと、キリのない心をいいます。 瞋恚とは、怒りの心で、欲が妨げられた時に起きます。 愚痴とは、ねたみそねみ、恨み、憎しみの心です。 貪欲は青色、瞋恚は赤色、愚痴は黒色に例えられます。 日本昔話に出てくる、青鬼、赤鬼、黒鬼は、三毒の煩悩を表しているのです。 親鸞聖人は、私たち人間は、煩悩の塊であると教えられています。 「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。    (意訳) 人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、塊である。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない。 煩悩の塊である私が、阿弥陀仏に救われると、 煩悩あるがままで本当の幸せになります。 煩悩の珠を「糸」が貫いているのは、煩悩がそのまま幸せとなる喜びを表現しているのです。 大切な数珠・念珠ですから、粗末に扱わないようにいたしましょう。

お盆
浄土真宗とお盆とは

(質問)浄土真宗で、お盆とは、どんな意義がありますでしょうか。 (解答) お盆とは、正しくは「うらぼん」といいます。『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』から起こったものです。 仏説盂蘭盆経というお経には、どんなことが説かれているのでしょうか。 お釈迦さまの十大弟子の一人に目連(もくれん)という人があります。目連は、神通力(じんつうりき)第一といわれ、特に孝心の深い人でありました。 その目連が、神通力を得て三世(さんぜ)を観ました時に、痛ましいことに亡き母が餓鬼道(がきどう)に堕ちて苦しんでいることが分かったのです。 彼は深く悲しんで、直ちに、鉢に飯を盛って母に捧げましたが、喜んで母がそれを食べようとすると、たちまち、その飯は火炎と燃え上がり、どうしても食べることができません。 鉢を投げ捨てて泣きくずれる母を、目連は悲しみ「どうしたら、母を救うことができましょうか」と、お釈迦さまにお尋ねしました。 その時、お釈迦さまは、「それは、そなた一人の力では、どうにもならぬ。この7月15日に、飯、百味、五果などの珍味を、十方の大徳、衆僧に布施しなさい。布施の功徳は大きいから、母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」と教えられました。 目連が、お釈迦さまの仰せに従ったところ、母は、たちどころに餓鬼道から天上界(てんじょうかい)に浮かぶことができ、喜びの余り踊りました。 *神通力:人間の考えの及ばぬ、霊妙自在の力。 *三世:過去世、現在世、未来世のこと。 *餓鬼道:食べ物も飲み物も、炎となって食べられず飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界。 *天上界:迷いの世界の中では、楽しみの多い世界。 これが盆踊りの始まりだと言う人もあります。 盂蘭盆(うらぼん)は、この目連の故事から先祖供養の日となって、今日に続いているのです。 このお話は、現代の私たちに何を教えているのか、味わってみましょう。 盂蘭盆(うらぼん)とは、昔のインドの言葉で、意味は、倒懸(とうけん)ということです。倒懸とは「倒さに懸かれる者(さかさにかかれるもの)」ということですから、『盂蘭盆経』とは「倒さに懸かれる者を救う方法を教えたお経」です。 この「倒さに懸かれる者」とは目連の母だけでしょうか。仏教では、すべての人間が「倒さに懸かれる者」と教えられているのです。 「倒さに懸かれる者」とは、どういうことでしょうか。 仏教では「頭下足上(ずげそくじょう)」という言葉があります。頭が下で足が上、逆立ちしている状態をいいます。 平家物語の冒頭『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり』は有名です。諸行無常とは、仏教の言葉で、諸行とは、すべてのもの。 無常とは、常がない、続かないということで、すべてのものは続かないという意味です。 諸行無常、この世のものは一切続かない。聞けば、誰もが納得することで、反論する人はいないでしょう。ところが、私たちには執着の心があるため、「これは自分のもの」と思ったものは、無常のものとは思えず、常(いつまでも続くもの)と思い込んでしまいます。心は、逆立ちしている状態です。それで、苦しみ悩みが絶えなくなる私たちが、本当の幸せになれる道を教えられたのが仏教です。 お盆は、亡き先祖をしのぶ日であると共に、仏教を聞かせて頂いて、「倒さに懸かれる」私自身を振り返る日であることを忘れないようにしましょう。

彼岸
浄土真宗のお彼岸とは

(質問):お彼岸とは何でしょうか。 (解答) お彼岸とは、3月の「春分の日」と9月の「秋分の日」の前後3日間の計7日間をいいます。 それぞれの初日を「彼岸入り」、終わり日を「彼岸明け」といいます。春分の日、秋分の日が「中日」です。 親鸞聖人が尊敬されている善導大師(ぜんどうだいし)の有名な譬え話に、 二河白道(にがびゃくどう)の譬え話があります。 その譬え話では、水の河と火の河の二つの河があり、その河をはさんで、こちらの岸と向こう岸があります。そして、こちらの岸と向こう岸の間に細い白い道が伸びています。 こちらの岸が私たちの生きている世界、向こう岸が極楽に例えられています。こちらの岸を此岸(しがん)、向こう岸を彼岸(ひがん)といいます。彼岸とは、極楽のことをいいます。 仏教では、極楽は、西方にあると教えられています。 これより西の方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽という。(阿弥陀経) 「彼岸」は西にあるので西岸ともいい、「此岸」は東にあるので東岸ともいわれます。 3月の春分の日と9月の秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。 その日に、西方の極楽におられる阿弥陀仏を礼拝するのにふさわしいという考えから、次第に、極楽をしのぶ日、また、先祖をしのぶ日として、定着していったといわれます。 彼岸は「パーラミター(波羅蜜 ばらみつ)」という昔のインドの言葉からできた言葉です。今日は、寺院で、先祖供養すると同時に「六波羅蜜(ろっぱらみつ)」の教えを学ぶ行事になっています。 「六波羅蜜」とは「六度万行(ろくどまんぎょう)」ともいいます。 「六波羅蜜」「六道万行」とは、  布施(ふせ) 持戒(じかい) 忍辱(にんにく) 精進(しょうじん) 禅定(ぜんじょう) 智恵(ちえ) の六つの善い行いのことです。   (今日の言葉) 1.布施 = 親切 2.持戒 = 言行一致 3.忍辱 = 忍耐 4.精進 = 努力 5.禅定 = 反省 6.智恵 = 修養 (それぞれどういう意味かは、『とどろき仏教教室』で説明しています) 彼岸は、先祖供養の日であると同時に、「六波羅蜜」の教えを学び、実行する日といたしましょう。

法名・戒名
法名とは何ですか?戒名とは何ですか?

(質問):法名・戒名とは何ですか? (解答) 「法名」とも「戒名」とも言われますが、浄土真宗では「法名」といわれます。 「法名」とは死んだ人につける名前だと思われていますが、本来「法名」とは、真の仏弟子が生前、仏教の師匠から頂く名前のことを言います。 「真の仏弟子」とは、お釈迦さまの御心にかなうお弟子のことで、お釈迦さまの教えを聞かれて、本当の幸せになった人のことです。お釈迦さまから「偉大な智恵者だ」と褒められ、泥沼に咲きながら泥に染まらぬ白い蓮の華のような人だと讃えられます。 誰しも褒められると、悪い気はしません。子供に褒められても、うれしいです。 褒められると、心が潤い励まされ、いつまでも忘れないものです。 フランスの文学者、ラ・ロシュフコーは、 「褒め言葉を一度、否定してみせるのは、そうすることで同じ褒め言葉が、 もう一回聞かせてもらえるからだ」と言っています。 それほど褒めてもらいたいのが人間なのでしょう。 お釈迦さまから褒められる身になった自覚があれば、 大きな励みになり、生きる喜びをもって、生きていくことができるのです。 また、お釈迦さまは、私の親しき友であると仰っています。 すなわち我が善き親友なり (大無量寿経) 親しき友と呼びかけられても、私たちは、 「お釈迦さまの親友だなんて、もったいない。せめてお弟子にさせていただきます」と、お名前の「釈」の一字を頂いて、「釈~~」(男性)、「釈尼~~」(女性)とつけるのが「法名」です。 法名をつけたから極楽へ往けるようになるのではありません。法名とは、お釈迦さまの教えを聞いて、本当の幸せになった人が、仏教の先生より賜る名前なのです。 法名をご縁として、お釈迦さまは何を教えられた方なのか、知ることができれば、素晴らしいご縁となりましょう。