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親鸞聖人と浄土真宗がやさしく分かる入門サイトです。 初めて学ぶ方も、イラスト入りの解説で分かりやすく学ぶことができます。

親鸞聖人のご生涯

浄土真宗の祖師・<strong>親鸞聖人</strong>は小説やテレビにも取り上げられ、
今日もなお多くの方からの尊敬を集めていますね。

両親との死別、肉食妻帯、権力者の弾圧、越後へ流刑、長子の勘当……。

<strong>親鸞聖人90年のご一生は、「たくましき親鸞」と多くの人を魅了しています</strong>。

親鸞聖人の目覚ましいご活躍の源はなんであったのか。
波乱万丈のご一代をたどります。

関東布教 日野左衛門の済度
親鸞聖人関東布教・日野左衛門の済度(1)

800年前、京都に生まれられた親鸞聖人は、35歳の時、無実の罪で越後(新潟)へ流刑となられた。5年後、赦免された親鸞聖人は、京への旅の途中で、恩師・法然上人ご逝去の報に触れ、帰京を断念、関東へ赴かれる。常陸(茨城)の稲田に居を構え、布教に専念されていました。 関東で親鸞聖人は、座の暖まる間もなく各地へ足を運び、精力的に仏法を伝えられました。その一つ一つのご苦労の積み重ねにより、関東一円に真実の仏法を聞き求める人々が次第に増えてきたのです。その中の一人、日野左衛門が、いかにして仏縁を結んだのか。 寒くともたもとに入れよ西の風 ある年の11月下旬、親鸞聖人は常陸の東北部へお弟子とともに赴かれました。夕暮れ時、道に迷われた親鸞聖人の一行は、ようやく見つけた民家に一夜の宿を請われます。主は猟師の日野左衛門(ひのざえもん)。彼は、たびたび目にする僧侶の堕落したふるまいから、すっかり仏教嫌いになっていました。 その夜、早くから酒をあおって憂さを晴らしていると、親鸞聖人が宿を請うて訪ねてこられたのです。 「夜分遅く申し訳ない。道に迷い難儀している者。一夜の宿を、お願いしたいのだが」 お弟子の頼みに、 「おれは坊主は大嫌いだ。出ていけ」 と、ナタを手にして大雪の中へ追い出してしまいます。 邪険窮まりない応対に弟子は憤懣をぶつけるが、親鸞聖人は、 「無理もない。せっかく気分よく休もうとされていたのだ」 と諭されました。だが、風と雪はいよいよ吹きすさぶ。近くに民家はない。田舎道を戻りかけたが、ふと聖人は門柱をたたいて、 「この門の下をお借りしよう」 と門前の石を枕に横になられた。弟子の西仏房(さいぶつぼう)、蓮位房(れんいぼう)は笠で風雪からお守りするが、吹きかかる雪はたちまちお体を覆い、まるで褥(しとね)のように親鸞聖人を白くしていく。 西仏が凍てつく手にハーッと息を吐きかけると、親鸞聖人は 「寒かろう」 と優しく声をかけられました。 「いいえ、お師匠さまこそ」 「いやいや……。 『寒くともたもとに入れよ西の風弥陀の国より吹くと思えば』 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 「もったいのうございます」 「阿弥陀如来からお受けした大きなご恩を思えばなあ、親鸞。物の数ではない」 「お師匠さま……」 西仏、蓮位は親鸞聖人に降り積もる雪を、涙ながらに払いました。 親鸞聖人はここで、 『寒くともたもとに入れよ西の風弥陀の国より吹くと思えば』 (吹きつける冷たい風も、はるか西方の弥陀の浄土から吹くと思えば親鸞、苦にならぬ) と歌われています。とはいえ生身のお体、身を切る寒さは大変な苦痛であったに違いありません。 その中、門前で休まれたのは、邪険な日野左衛門にも、何とか真実の仏法、弥陀の本願を伝えたいと願われてのことです。自分の肉体の辛苦を度外視してでも、布教せずにおれなかったのです。 世の中には、救われた、助かった、といっても色々あります。不治といわれた病を優秀な医師に治してもらった。海で遭難したが九死に一生、通りかかった船に救出されたなど。当事者であれば、救ってくれた相手に深い恩を感じて一生、忘れることはできませんし、どんなお礼でもしたいと思うでしょう。 しかし助けられたといっても、考えてみれば死ぬのがしばらく延びたということです。永遠に死ななくなったのではありません。 ところが真実の仏法は、私たちをこの世から未来永遠、最高無上の幸せの身に救い摂ってくだされる。その身に救いたもうた広大なご恩を思えば、一夜の寒さや苦痛など、物の数ではない、と親鸞聖人はおっしゃっているのです。 「すべての人よ、どうかこの親鸞と、同じ幸せの身になってもらいたい」 と、真実の仏法を、ひたすら教導なされています。 (続く:関東布教・日野左衛門の済度(2))

法然上人のご逝去
法然上人のご逝去

29歳の時、阿弥陀仏に救い摂られ、法然上人の門弟となられた親鸞聖人。当時、繁盛する法然門下に、仏教各宗や権力者から弾圧が加わり、念仏布教は禁止、教団は解散。35歳で聖人は流罪となり、越後(新潟)へ赴かれた。 配所での歳月を「一向専念無量寿仏」の布教にかけられた親鸞聖人の元に、ある日、赦免の知らせが届きました。 早春の日差しの下、越後の人々と別れを告げ、親鸞聖人のご一行は京へと向かわれる。 「生きて再びお会いすることはないと思っていたが、法然上人から、また真実の仏法をお聞かせいただけるのだ」 足取りも軽く歩んでいくと、 「親鸞どのー。親鸞どのーっ」 と呼ぶ声が。門下の法友・智明房(ちみょうぼう)が駆けてくる。 再会の挨拶を交わし、法然さまのご様子に話が及ぶと、途端に智明房の顔が曇る。彼は重苦しい表情で告げた。 「親鸞どの、実は……。実はお師匠さまが、先月、京都・大谷にてお浄土にお還りなさいました」 あまりのことに親鸞聖人は、茫然自失。膝からくずおれ、バッタリと大地に手を突き、 「お師匠さまああぁ」 悲痛な叫びとともに、人目もはばからず慟哭なされる。在りし日の恩師の面影が、親鸞聖人の脳裏に浮かんだ。 やがて親鸞聖人は顔を上げ、決然とおっしゃる。 「都行きは、やめる。お師匠さまのおられない京都には、親鸞、何の未練もない。東国へ行く。関東で、阿弥陀如来の本願を、力一杯、お伝えしようではないか」 驚く弟子の西仏(さいぶつ)、蓮位(れんい)に、 「すべての人と誓われている、弥陀の本願。関東の人々にも伝え切らねばならない」 と宣言され、関東へ旅立たれたのである。 親鸞聖人の師・法然上人は、75歳で四国の土佐(高知県)へ流刑となられました。ところが、すでに高齢であったこと、上皇の一時的な怒りによる処罰であったこと、貴族にも信奉者が多かったことから、配所に到着される前に赦免されたといわれます。 それから法然上人は、摂津(大阪府)にとどまられ、弥陀の本願を伝えられました。 親鸞聖人の元に赦免の報が届いたころ、法然上人も京都に戻られましたが、ご高齢と配流によるお疲れのため、病床に就かれ、建暦2年、80歳でお亡くなりになりました。 だれよりもお慕いし、尊敬する法然上人と、今生の別れを余儀なくされた親鸞聖人の悲しみは、余人の想像をはるかに超えていたに違いありません。 いかに法然上人を崇敬されたか。親鸞聖人はこう仰せです。 (意訳) 法然上人のご教導によって親鸞、果てしない過去から知ることのできなかった阿弥陀如来の誓願あることを知らされた。もし法然上人に会えなかったら、人生の目的も、果たす道も知らぬまま、二度とないチャンスを失い、永遠に苦しんでいたに違いない。親鸞、危ないところを法然上人に救われた。 どれだけ大事にしても80年か100年で滅びる肉体の病でさえ、救ってくだされた医師には感謝してもしすぎることはありません。 また、生んで育ててくれた両親の恩は大変重いものですが、与えられた命を真に生かせず、自殺していく人の、いかに多いことでしょう。世界一の長寿を誇るこの国の空の下、毎日90人余りが自ら命を絶っているのが悲しい事実。 何のために生まれ、苦しくとも生きるのは何のためか。生命の尊厳も歓喜も知らず、恨みのろいの人生にあって、どんな苦難も障りとならぬ、無限に明るい幸福に生かす教えを伝えられる明師との出会いは、何にも勝る喜びです。また、そのご恩は、親の恩にも勝るとも劣らぬ、深くて重いものであることもお分かりでしょう。 そんな法然上人との別れを乗り越えられて親鸞聖人は、恩師が命を懸けて貫かれた「一向専念無量寿仏」のさらなる宣布を誓い、踵を返し関東へと、新たな旅を始められるのです。 (次へ:関東布教・日野左衛門の済度(1))

恩師・法然上人との別離
恩師・法然上人との別離

親鸞聖人は29歳の時、法然上人のお弟子となられました。 仏教の結論「一向専念無量寿仏」の布教に力を尽くし、繁盛する法然門下に、やがて仏教各宗や権力者からの弾圧が激しくなります。念仏布教は禁止、教団は解散。法然上人(75歳)は土佐(高知)へ、親鸞聖人は越後(新潟)へ流刑となり、門下の名立たる人々も死罪や流罪に処せられました。有名な「承元の法難(じょうげんのほうなん)」です。 恩師・法然上人との別離 親鸞聖人35歳の御時、法然上人は土佐(高知)へ、親鸞聖人は越後(新潟)へ流刑を宣告されました。29歳で法然上人に巡り会われてわずか6年、生木を引き裂かれるように別れられたのです。 生涯おそばでご教導をと願われていた親鸞聖人にとって、それは、あまりにも急な別離でした。その悲しみから、次のお歌を詠まれています。 会うは別れの始めなり。いかに親しくとも、会った者には必ず別離の時が来る。これを仏教では「会者定離(えしゃじょうり)」といいます。 “この世は諸行無常・会者定離の世界であると、かねてお聞かせいただいておりましたが、お師匠さまとの別れが、こんなにも早く来ようとは思っておりませんでした。あまりにも、早すぎます……” 号泣される聖人に、法然上人は優しくお歌を返されます。 “法の友・親鸞よ、一時の別れを、どうかそのように嘆いてくれるな。この世で阿弥陀仏の本願に救い摂られた者は、やがて必ず弥陀の浄土で再会できるのだから” 小雪舞う京・岡崎の草庵。旅立たれる親鸞聖人を見送ろうと、多くの人が集っている。 別れの言葉を交わし、悲しみを後にして、藤井善信(ふじいよしざね)と名を変えた親鸞聖人は、西仏(さいぶつ)、蓮位(れんい)の二人を召し連れて雪深い越後へ赴かれました。 親鸞聖人の配所・越後へは、過酷な旅であったといわれます。敦賀(福井)、倶利伽羅(石川・富山)の険しい山越えや、断崖に激しく波寄せる親不知子不知の海岸(新潟)など、多くの難所が待ち受けていました。 特に親不知子不知の絶壁は、怒涛逆巻く海が足下に迫り、まるで海岸線にそそり立つ屏風のよう。大波が絶えず岸壁を洗い、親は子を、子は親を顧みる余裕もないので、この名がつけられたといわれます。命の危険にさらされる道中を過ぎると、流刑の地での過酷な生活が待っていました。 そんな苦難を親鸞聖人は、どう受け止められたのでしょう。こんなお言葉が伝えられています。 (意訳) 恩師・法然さまが、もし流刑に遭われなければ、この親鸞も新潟に流されることはなかったろう。もしそうならば、どうしてこの土地の人たちに阿弥陀仏の本願をお伝えすることができただろう。ひとえにこれ、お師匠さまのご恩の賜物。親鸞、喜ばずにいられないのだ。 風雪厳しい新潟に赴かれての艱難辛苦も、真実伝えるご方便と静かに喜ばれるお姿が彷彿とします。 雪の中のご布教 雪深い季節、寒中もいとわず一軒一軒、戸別に訪ねて回られる。だが家の主人は、いぶかしげに顔をしかめてピシャリ。鼻先で戸を閉める。 取りつく島もない応対に、なお忍耐強く親鸞聖人は、一言なりと法を伝えんと、また次の家、隣の村へと歩みを運ばれます。 当時の親鸞聖人の立場は流罪人。余程のことがなければ、そんな相手の話に耳を貸す人はないでしょう。 (意訳) この里に、親を亡くして悲しむ人はないか。諸行無常の世で、絶対に変わらぬ真実のみ法に耳を傾ける人がない。 聞く人なき魂の荒れ野原を耕すように、着実に親鸞聖人は弥陀の本願を伝え続けられました。たまたま話を聞く人があれば、少年のようにきらきらと瞳を輝かせ、懇ろに弥陀の本願真実を説かれます。 五年後、赦免されるも そして瞬く間に5年の月日がたち、親鸞聖人の元に、2つの知らせが届きます。 一つは、流刑を解く、との赦免の報。待ちわびた本師・法然上人との再会が果たせると喜ばれた聖人が、早速懐かしき京へと出立された時、もう一つの悲しい知らせが届いたのでした。 法然上人のご逝去でした。 (次へ:法然上人のご逝去)

善知識・法然上人に会われた親鸞聖人
善知識・法然上人に会われた親鸞聖人

まことの仏教の先生(善知識)を求めて親鸞聖人は、夢遊病者のように、京都の町をさまよわれました。そんな親鸞聖人に声をかけられたのは、かつて比叡山でともに修行をしていた聖覚法印でした。聖覚法印は、迷いの闇を晴らす善知識ましますことを、親鸞聖人に喜び一杯伝えられました。 *比叡山……京都と滋賀の境にある山。天台宗の本山がある ◇あいがたき善知識 仏教で知識とは先生のことで、正しい仏教を説かれる先生を「真の知識」とか「善知識」といいます。 真の知識にあうことはかたきが中になおかたし(高僧和讃) (意訳) 正しい仏教を説く先生にはめったに会うことはできない *高僧和讃……親鸞聖人がインド・中国・日本の七人の高僧を賛嘆された詩 800年前の親鸞聖人の時代と比べると今日は、飛躍的に科学が発達し、知りたい情報が世界じゅうから瞬時に得られる時代になりました。 スマートフォン一つあれば『広辞苑』も百科事典も、時刻表も地図も不要。お母さんが頭を悩ませる晩ご飯や弁当のレシピもあれば、言葉の通じない外国語の翻訳もしてくれ、どこの国の情報でも調べられる時代です。 そんな時代だから、真実の仏法を説かれる先生に会うのも、難しくないのではと思われますが、今日も親鸞聖人の時代と変わりません。 ◇答えの出せない「生きる目的」 アメリカのインターネット検索サービス会社が、こんな調査結果を公表しています。 検索サービスを始めてから、10年間の質問を調べて、インターネットでは回答を得られない10の質問を公開しました。 トップは「生きる目的は何ですか」でした。 2600年前、インドでお釈迦様が徹底して明らかにされたのは、私たちの「生きる目的」一つでした。 まさしく「なぜ生きる」の答えが、仏教に教えられているのです。 そのお釈迦様の説かれた真実の仏教を伝える先生が、世界にたくさんおられるのならば、「生きる目的は何か」に対して、無返答にはならなかったでしょう。 これは現在も、本当の仏教を説かれる方がいないことを、雄弁に物語っています。 仏教と聞いて思い浮かぶのは、葬式や法事・読経を生業とする葬式仏教。おみくじや護摩を焚いて、ゴ利益を振りまく祈祷仏教。建物や大仏を売り物にする観光仏教、また祖師の法要にかこつけて、金集めをする遠忌仏教などでしょう。 これらは真実の仏教からすると論外ですが、私たちを苦しめているのは欲や怒り・愚痴などの煩悩だと教え、それらとどう向き合い、人間関係を円滑に生きるかを説く僧侶は、今でも少しはあるでしょう。 しかし、後生暗い心の解決をして、本当の幸せを得るという、生きる目的を明示される「真の知識」(本当の仏教の先生)は、雨夜の星ではないでしょうか。日本には、コンビニの数の1.5倍ほどの寺院があり、そこには一応、38万人の僧侶がいるのに……です。 親鸞聖人が、その遇い難い真の知識・法然上人に巡り会えた有り難さを、このように喜ばれたのも、深くうなずけます。 真実の仏法を教える、法然上人に巡り会えた親鸞は、なんと幸せ者であったのかの喜びのお言葉でもあるのです。 (次へ:恩師・法然上人との別離)

会い難き真の知識 法然上人
会い難き真の知識・法然上人

親鸞聖人は、後生の解決を求め9歳から比叡山で修行なされましたが、20年の歳月がたっても、明かりがつかなかったのです。ついに比叡山での20年の修行に終止符を打ち、真の知識(まことの仏教の先生)を求めて山を下りられました。 *比叡山……京都と滋賀の境にある山。天台宗の本山がある ◇法友・聖覚法印(せいかくほういん)に導かれて 親鸞聖人は一息切れた後生の解決を求めて、京都の町を夢遊病者のようにさまよわれました。その時、かつて比叡山でともに修行された聖覚法印と出会われました。聖覚法印は、親鸞聖人より早く比叡山を下りて、京都吉水(よしみず)の法然上人のお弟子になっておられました。 「おや、親鸞殿ではござらぬか」 聖覚法印の声に、振り向かれた親鸞聖人のお顔は、晴れやかな聖覚法印の表情とは対照的な、沈痛な面持ちでした。 「肉体はどこも悪くはありませんが、親鸞、心の病気で苦しんでおります。聖覚殿、あなたはこの後生暗い心の解決、どうなさいましたか」 その問いを、待っていたかのように聖覚法印は、満面の笑顔で法然上人を紹介されるのです。 ◇会い難き法然上人 当時、法然上人には、380人余りのお弟子がありました。 浄土仏教の阿弥陀仏の本願を説かれる法然上人に導かれ、弥陀の救いにあわれた親鸞聖人はお弟子の一人に加わられたのです。 以来、親鸞聖人は法然上人を、会い難き師と尊敬され、生涯慕い続けられました。数多くの著作からそれは、ひしひしと伝わってまいります。 親鸞聖人が法然上人から直接教えを受けられたのは、29歳から35歳までの約6年間。親鸞聖人90年のご生涯の中では、ほんの短い期間です。しかし、このご縁が、親鸞聖人にとって生涯忘れえぬ、かけがえのない一時となったのです。 短いご縁でありながら、法然上人を生涯敬慕されたのはなぜだったのでしょう。その真の理由は、あまり知られてはいませんが、聖人90年のご活躍の原点を知るには、大変大事なことです。 ◇師への深い敬慕 聖人は76歳の御時、法然上人をたたえられたお歌(和讃)を20首作られています。終生絶えなかった恩師への謝念が拝察されます。その和讃の一節に、次のように書かれています。 「真の知識にあうことはかたきが中になおかたし」(高僧和讃) *高僧和讃……親鸞聖人がインド・中国・日本の七人の高僧を賛嘆された詩 「知識」とは「あの人は科学的知識のある人だ」などと使う「知識」とは全く違い、仏教用語で「仏教を伝える人」をいいます。「真の知識」とは、真実の仏教を教える先生のことです。 「真の知識にあうことはかたきが中になおかたし」とは、正しい仏教を教える師に巡り会うのは、難しい中になお難しい、めったにないことであると、親鸞聖人が仰っているお言葉です。 「本当の仏教の先生に会うのは、難しいそうですよ」と、他人事のように言われたのではなく、親鸞聖人ご自身が、血みどろの20年間のご修行から、骨身に徹して知らされた実感でした。 親鸞聖人が学ばれた比叡山は、当時、日本で一流とされた仏教者が講義をしていた仏教の中心地で、正しい仏教を学べる場所はここ以外ない、と誰もが認める学び舎だったのです。そこで刻苦勉励、叡山の麒麟児(きりんじ)と評され、厳しい大曼(だいまん)の難行まで遂げられた方が親鸞聖人でした。 ところが後生暗い心の解決ができるまことの教えを渇求するも、教授される師には会えず、29歳の御時、泣き泣き山を下りられました。9歳で出家されてより、20年の歳月が流れていました。 「真の知識にあうことはかたきが中になおかたし」 真実の仏教を教えてくださる方にお会いするのは、まことに難中の難なのです。 では、真実の仏教を教えられる真の知識とは、どんなことを教えてくださる方なのか。続きます。 *麒麟児……特にすぐれた才能を持ち、将来を嘱望される若者 (次へ:善知識・法然上人に会われた親鸞聖人)

心月
乱れる心に絶望された親鸞聖人

乱れる心に絶望された親鸞聖人 仏道を求め、親鸞聖人は世俗を離れた静寂な山へ入られましたが、時は末世、にわか坊主となった平家の落ち武者たちが、夜な夜な京の町へ遊びに出掛け修行の邪魔をする。人間の目はごまかせても、仏の目はごまかせないと、親鸞聖人は一人修行に励まれましたが、赤山禅院(赤山明神)で出会った美しい女性が、脳裏から離れない。 体は修行に打ち込んでいても、心は女を抱き続けている。上辺だけを取り繕い、平家の落ち武者よりもなお、あさましい自己の醜い心に、がく然となされました。 逆巻く煩悩の波 9歳で仏門に入られた親鸞聖人は、29歳まで、比叡山で想像を絶する難行苦行に専心されました。しかし、後生暗い心の解決はできず、天台宗の教えに絶望されたのです。 若き20年間、全てをなげうって修行なされた山を下りる決断は、いかばかりだったでしょう。 その時の苦悩が『歎徳文(たんどくもん)』に記されています。 静寂な夜、一心に修行に励む親鸞聖人が、比叡の山上から見下ろされた琵琶湖は、鏡のようでした。 「定水(じょうすい)を凝すと雖も識浪(しきろう)頻に動き」とは、定水は、静まり返って波一つない水面。「定水を凝す」とは、琵琶湖の静かな水面のように心を静めることです。 「識浪」とは心の波で、欲や怒り愚痴の煩悩の波が、絶えず逆巻いていることを「識浪頻に動き」と仰っています。 *比叡山……京都と滋賀の境にある山。天台宗の本山がある *歎徳文……存覚上人(覚如上人の長子)著。親鸞聖人のご遺徳を讃嘆されているご文 「ああ、あの湖水のように、私の心はなぜ静まらないのか。静めようとすればするほど散り乱れる」 仏さまのことだけを思おうとするが、思ってはならないことが、ふーっと思えてくる。考えてはならないことが、次から次と浮かんでくる。どうしてこんなに、欲や怒りが逆巻くのか。自分の心でありながら、どうにもならぬ心に、親鸞聖人は苦しまれました。 親鸞聖人が尊敬され『正信偈(しょうしんげ)』にもたたえられている、中国の善導大師(ぜんどうだいし)は、30年間、床を敷かず勉学修行に励まれ、また母親以外の女性を見られなかったと言われています。 余程、意志堅固な人でなければ、30年も貫くことはできませんが、その善導大師がこんなことを仰っています。 一日のうちに八億四千回、心が変わると言われています。八億四千とは、数のことではなく、無限を表しますから、心は盆の上の卵のように、コロコロ、コロコロ、変わり通しということです。 しかも、念々、心に浮かぶことは、苦しみの世界(三塗・さんず)へ堕ちる悪いタネ(三塗の業)ばかり、との告白です。 *正信偈……親鸞聖人が正しい信心を明らかにされた詩 *善導大師……中国の浄土仏教の大成者。親鸞聖人が最も尊敬されている一人 *三塗……地獄・餓鬼・畜生の3つの苦しみの世界。三悪道ともいう 仏教では、心をいちばん重く見られます。体や口を動かしているのは、心だからです。心がその人の真の姿であり、口や体に表れているものは、その人の本質ではありません。その心を静めようとすればするほど、動きづめの煩悩が見えてきたと「識浪頻に動き」と言われているのです。 次の「心月(しんげつ)を観ずと雖も妄雲(もううん)猶覆う」とは、さとりのことを「心月」と表され、「妄雲」は、さとりを得るのを妨げる煩悩です。 天を仰ぐと、青くさえる月光。どうしてあの満月のように、さとりの月が拝めないのか。煩悩の群雲が親鸞の心を覆い隠してしまう。 「一息切れたらどうなる」 この絶望の淵から、どうして一歩踏み出されたのか。 「而るに一息追がざれば千載に長く往く」。「一息追がざれば」とは「一息切れたら」ということ。平生、私たちは、当たり前のように息を吸ったり吐いたりしていますが、やがて必ず、吸った息が吐けない時、吐いた息が吸えない時が来ます。 こんな暗い心で、一息切れたらどうなるか。この一大事、どうしたら解決できるのか……。 「千載に長く往く」とは、果てしのない長い間、苦患に沈まなければならないことです。親鸞聖人は、この一大事の後生に驚かれた。一刻の猶予もなく、いても立ってもいられぬ不安に親鸞聖人は、追い詰められました。そしてついに、下山の決意をなされるのです。 「何ぞ浮生の交衆(ふしょうのこうしゅう)を貪って徒に仮名の修学(けみょうのしゅうがく)に疲れん、須らく勢利(せいり)を抛って(なげうって)直に出離をねがうべし」 世間のつきあいに振り回され、今死ぬとなったら意味のない学問に、どうしてこの命を費やせようか。一切の俗念を投げ捨てて、この後生の一大事を解決しなければ……。 かくして20年間の天台・法華の教えに絶望なされ、求道に精も根も尽き果てられた親鸞聖人は、 「どこかに煩悩に汚れ、悪に染まった親鸞を、導きたもう大徳はましまさんのか……」 と、29歳の春、まことの仏教の先生を求め、泣き泣き山を下りられたのでした。 (次へ:会い難き真の知識・法然上人)

親鸞聖人を絶句させた謎の美女の一言
恋に煩悶される親鸞聖人

求道に行き詰まられた親鸞聖人が、京都の慈鎮和尚(じちんかしょう)に悩みを相談なされたその帰り、赤山禅院(赤山明神)の前で一人の女性に呼び止められました。 9歳から比叡山に籠もり修行されていた親鸞聖人を、なぜ知っていたのか。一度も会ったことのない艶麗な女性が、経典の言葉を出して、比叡山への疑問を突きつける。『法華経』の教えで救われるのかと、疑問を抱かれていた親鸞聖人は、女性との出会いで、さらに悩まれるようになりました。 *慈鎮和尚……慈円ともいう。天台宗の最高位・座主を務める *比叡山……京都と滋賀の境にある山。天台宗の本山がある *法華経……お釈迦様の説かれた経典の一つ 平家の落ち武者らの朝帰り 親鸞聖人が比叡山で修行をなされていた頃、源平の合戦に敗れた平家の落ち武者たちは、源氏の厳しい追っ手を逃れるために、刀を持つ者が入山できぬ治外法権の比叡山へ入り、にわか坊主となって隠遁生活を送っていました。 仏道を求めるのは、財や権力、名誉を得るためではありません。後生暗い心を解決し、本当の幸せになることが目的です。しかし、にわか坊主たちは、もとより、修行をしようと思っての出家ではない。この間まで酒池肉林に溺れていた者たちにとって、形だけの修行であっても、耐え難いものだったに違いありません。 昼間は仲間の手前、ガマンしていましたが、人目につきにくい夜になると、血が騒ぎ、山を抜け出して、遊女と戯れては、朝帰りをしていたのでした。 楽しそうに遊んでいる人や、おいしいものに舌鼓を打っている人を見ると、 「自分も楽しんだり、おいしい物を食べたいな」 と心が動く。自分だけ真面目に努力するのがバカに思えて、そんなに苦しい修行に打ち込まなくても……と、努力精進に力が入らなくなるものです。 縁によって、どうにでも心が揺れる私たちですから、比叡山には、本来、仏道修行の妨げになるものは、ありません。 店も、遊ぶところもない、女性が入ることも禁じられていました。 そんな静寂な環境に、夜な夜な女と戯れ、朝帰りする者たちが入ってきたのです。悪い縁には引かれやすいもの。 風紀の乱れる中、それでも親鸞聖人は、 「ああ、何たることか。人間の目はごまかせても、仏さまの目はごまかせないのだ。オレだけでも、戒律を守り抜いてみせるぞ」 と、昼夜なく、ひたすら解決に打ち込まれました。 浮かんでくる女性の姿 ところが親鸞聖人は、先に赤山禅院で出会った美しい女性のことが、頭から離れなくなりました。修行をしていても、仏さまの顔が女性の顔に見えてくる。経本に笑顔が浮かんで、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。 仏道を求めながら、女のことばかり考えては修行にならぬ。頭を振って、修行に集中しようとしますが、払っても払っても、浮かんでくる彼女の姿態に狂おしいほどに悩まされました。 親鸞聖人は、どうして心で思われることに、それほど苦しまれたのでしょうか。 仏の眼をあざむく偽善者 仏さまは、見・聞・知(けん・もん・ち)のお方。おまえがどんなに隠れてやったことでも見ているぞ、誰にも聞こえないような声でしゃべったことも、聞いているぞ。心でひそかに思っていることも、皆知っているぞ、と私たちの体・口・心の全てをお見抜きです。 中でも仏教では、心をいちばん重く見られます。体や口を動かしている大元は、心だからです。 「心で何を思っても、体や口に出さねばいいじゃないか」 という人がほとんどでしょう。しかし、もし親友が、心では自分を憎み呪っていながら、笑顔で自分に話しかけているとしたら……。鬼の牙を隠し、善い人だと思わせて、他人をだまそうとするその心こそ恐ろしく、醜い心ではないでしょうか。 初めは、平家の落ち武者らを、仏の眼を欺くあさましい者と思われた親鸞聖人でしたが、赤山禅院で出会った女性に恋い焦がれ、かき乱され、 「ああ、何たることか。オレは、体でこそ抱いてはいないが、心では抱き続けているではないか。それなのに、オレほど戒律を守っている者はないとうぬぼれて、彼らを見下している。心のとおりにやっている彼らのほうが、よほど私より正直者ではなかろうか。 醜い心を抱えながら、上辺だけを取り繕って、仏の眼を欺こうとしているこの親鸞こそ、偽善者ではないか。ああ、この心、一体、どうしたらよいのか!」 と、やまらぬ心の悪に悲泣悶絶なされたのです。 その煩悶を、友達の覚明(かくみょう)に吐露されています。 「覚明殿。この親鸞ほど、あさましい者はない」 叡山の麒麟児(きりんじ)といわれた親鸞聖人ほど自己に厳しく、仏道一筋に修行なされる方は他にないと、親鸞聖人を慕い、そばで修行がしたいと入山した覚明には、何をあさましいと言われているのか分かりません。ところが親鸞聖人は、 「心は、醜いことばかり思い続けている。それが親鸞の実体なのだ。頼む。煩悩に汚れ切ったこの親鸞を、打って、打って、打ちのめしてくれ」 と懇願なされるのでした。 (次へ:乱れる心に絶望された親鸞聖人)

親鸞聖人を絶句させた謎の美女の一言
親鸞聖人を絶句させた謎の美女の一言

両親の無常に驚き、9歳で出家された親鸞聖人は、26歳になっても、後生暗い心の解決はつきませんでした。 「私は、道を間違えているのでは」と、師匠の慈鎮和尚(じちんかしょう)に苦悩を明かすと「仏道を求めることは、大宇宙を持ち上げるより重いのだ」と大喝されます。 聖人は「どれだけかかろうとも、解決つくまで求め抜きます」と、さらなる修行を決意されました。 女性に呼び止められた聖人 京都の慈鎮和尚を訪ねた帰り道、親鸞聖人が比叡山の麓の赤山明神の前を通りかかられると、どこからともなく美しい声に呼び止められました。振り返ると、そこには妙齢な女性の姿。そして、 「親鸞さま。私には、深い悩みがございます。どうか山にお連れください」 と言う。驚いた親鸞聖人は、 「それは無理です。このお山は、伝教大師が開かれてより、女人禁制の山。お連れすることはできません」。 だが、女性は鋭く迫った。 「親鸞さま。伝教大師ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか。涅槃経には、『山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)』と説かれていると聞いております。すべてのものに仏性が有ると、お釈迦様は、仰っているではありませんか。なのに、なぜこのお山の仏教は、女性を差別するのでしょうか」 七千余巻もあるお経の中で、『涅槃経』の言葉を知っているとは、この女性は一体何者か、どれほど経典を読んでいるのか、と聖人は驚かれたことでしょう。 *伝教……天台宗を開いた最澄のこと *涅槃経……お釈迦様の説かれたお経 なぜ女を見捨てるのでしょうか 二の句が継げぬ聖人に、女性はさらに畳みかける。 「親鸞さま。女が汚れているから、と言われるのなら、汚れている、罪の重い者ほど、余計哀れみたもうのが、仏さまの慈悲と聞いております。なぜ、このお山の仏教は、女を見捨てられるのでしょうか」 人間でも、苦しむ者を放ってはおけない、助けてやりたいとの慈悲を起こします。できのよい子より、不器用な子ほど親の心はかかるもの。ましてや仏の慈悲は苦ある者にひとえに重し。仏さまならなおさら、罪重く、苦しみの深い者ほど、何とかして助けてやりたい、 (人々の苦しみは私の苦しみである。人々の平安・楽しみは私の安楽だ) と慈悲を重くかけられるのです。 女の罪が重いのなら、そんな女ほど、より哀れみ救わんとなされるのが、仏さまのまことの慈悲ではないかと、女性は言うのです。 立て続けに発せられる理の通った言葉に、親鸞聖人は立ち尽くすばかり。とどめを刺すように女性は、言い放ちます。 「親鸞さま。このお山には、鳥や獣のメスは、いないのでしょうか。汚れたメスが入ると山が汚れると言われるならば、すでに鳥や獣のメスで、この山は汚れています。鳥や獣のメスがいる山へ、なぜ人間のメスだけが、入ってはならないのでしょうか」 仏教では、人も動物も、鳥や虫ケラに至るまで、全ての命は平等であり、仏の慈悲は、すべての衆生に注がれていると教えられます。 それなのに、なぜ女性だけは山へ入って仏道を求められないのか。女は山を汚すというのが理由なら、すでに鳥や獣のメスに汚されている。なぜ人間の女だけ入山を禁ずるのか。 女を見捨てる比叡山の教えは、仏の慈悲の教えといえましょうか。鋭い指摘に、叡山の麒麟児(きりんじ)と称された親鸞聖人は絶句させられたのです。 真実の仏教を懇願する女性 女性はこう告げて去りました。 「お願いでございます、親鸞さま。どうか、いつの日か、すべての人の救われる真実の仏教を、明らかにしてくださいませ。お願いでございます」 万人を救済できぬ教えは、本当の仏教ではない。きっぱりと言う謎の女性の言葉に親鸞聖人は、衝撃を受けられました。 出家してより17年、厳しい修行を重ねるも、後生暗い心の解決がつかず、道を間違えているのではと苦悩された聖人の心を、激しく揺さぶる出会いでありました。 (次へ:恋に煩悶される親鸞聖人)

比叡山での難行── 煩悩との闘い
親鸞聖人・比叡山での難行── 煩悩との闘い

親鸞聖人のご出家 幼くして両親と死別なされた親鸞聖人は、 「次は私が死んでゆく番、死ねばどうなるのだろう」 と、迫りくる後生の救いを求めて比叡山・天台宗の門をたたかれました。 訪ね来た9歳の親鸞聖人に、比叡山の座主(ざす)・慈鎮和尚(じちんかしょう)は、出家の願いを承諾しましたが、得度の式(髪をそり僧侶になる儀式)は明日と言います。 そこで親鸞聖人は一首の歌を記し差し出されました。 「明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」 切迫した無常観に驚いた慈鎮和尚は、すぐに得度を行いました。 約800年前、親鸞聖人の時代の僧侶は特権階級でした。そのため地位を求めて入門する、目的のずれた人も多くありましたが、9歳で天台宗の僧侶となられた親鸞聖人は、仏教の目的である後生暗い心(死んだらどうなるか分からない心)を晴らすこと一点に照準が定まっていました。 天台宗とは、『法華経』に説かれる修行を実践し、煩悩と闘ってさとりを得ようとする教えです。 当時の比叡山は「女人禁制(にょにんきんぜい)」、男性だけが僧侶となり、入山を許可されていました。 今日も残る「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」という難行は、12年間比叡山に籠もり、うち7年間は明けても暮れても、峰から峰を歩き続ける苦行です。 夜中零時前に起きて拠点を出発し、山上山下の行者道を30キロ歩く。その間に、堂塔伽藍や山王7社、霊石霊水など約300カ所で決まった修行を行います。始めの3年間は毎年100日修行し続ける。次の2年間は200日、翌年は100日、最後の1年は200日間と休まず修行しなければなりません。 途中の5年目には、9日間、比叡山の無動寺谷の明王堂に籠もり、断食断水、不眠不臥の「堂入り」と呼ばれる生死の境を切り抜ける荒行があります。 どんな天候、病気になってもやめられず、もし敢行できなければ、持参の短刀で自害するのが掟です。江戸時代には、多くの行者が自害しました。 合計1000日間に歩く距離は4万キロ、地球を一周するほどです。 親鸞聖人は、このような大難行に打ち込まれ、言語を絶する煩悩との格闘をなされたのです。 修行に挑んで知らされたこと ご修行中の聖人が、こうつぶやかれていました。 「人間は煩悩に汚れ、悪しか造れない。だから後生は地獄とお釈迦様は仰る。私の心の中にも欲望が渦巻き、怒りの炎が燃え盛り、ネタミ・ソネミの心がとぐろを巻いている。どうすればこの煩悩の火を消し、後生の一大事を解決することができるのか。どうすれば……!」 *後生の一大事……永久の苦患に沈むか、永遠の楽果を得るかの一大事 私たちを煩わせ、悩ませ、罪を造らせるものを仏教では「煩悩」といい、一人が108持っていると教えられています。中でも、特に私たちを苦しめる、「貪欲(とんよく、欲の心)」「瞋恚(しんに、怒りの心)」「愚痴(ぐち、恨み・ねたみ・そねみの心)」の三つを「三毒の煩悩」といいます。 「貪欲」とは、金や物が欲しい、褒められたい、認められたいという欲の心です。無いときはもちろん、どれだけ有っても、もっともっとと際限なく貪り求める心です。 欲が妨げられると、出てくるのが怒りの心「瞋恚」。「あいつのせいで損をした」「こいつのために恥かかされた」と抑え難い瞋恚の炎で一切を焼き尽くしてしまいます。 「愚痴」は、因果の道理が分からず、人の財産や才能、美貌や権力などを妬み、そねみ、恨む心です。 (関連:因果の道理(因果応報)とは?カルマとは?) すべては自業自得 仏教では自分の運命は全て自分の行いが生み出す「自業自得」と教えられます。善い運命も悪いのも、みな自分がまいたタネの結果、誰を恨むことも、憎むこともできません。 幸せそうに笑っているライバルを憎み、不幸を願う醜い心が「愚痴」です。因果の道理が分からず悪を造り苦しみ続けているのです。 私たちはこれら「煩悩の塊である」とお釈迦様は仰っています。ゆえに、悪因悪果で苦しみ続けなければならないと教えられます。 どうすれば、煩悩の火を消し、永久の苦患から救われるのか。9歳から29歳までの20年間、親鸞聖人は『法華経』の厳しいご修行に打ち込まれましたが、抑えても払ってもどうにもならぬ煩悩と後生暗い心に泣かれるのでした。 (次へ:親鸞聖人を絶句させた謎の美女の一言)

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わずか9歳で出家された親鸞聖人

親鸞聖人は、今から約800年前、京都にお生まれになりました。 お父さまは藤原有範(ありのり)、お母さまは吉光御前(きっこうごぜん)と言われ、貴族藤原家の生まれです。幼名は松若丸といいます。 わずか9歳で出家されたのは、何があったからなのでしょうか。 4歳の時にお父さま、8歳の時にお母さまを亡くされます。 幼くして、天涯孤独の身になられ、どれほど寂しい思いをされたか、わかりません。 お父さま、お母さまが亡くなり、次に死ぬのは自分の番だと思われた親鸞聖人は、 「死んだら、一体、どうなるのだろうか」、悩まれるようになります。 9歳の時、叔父・藤原範綱(のりつな)に手を引かれ、京都・東山の青蓮院(しょうれんいん)を訪ねられました。青蓮院は比叡山の座主(ざす)を務める慈鎮(じちん)和尚の寺でした。 親鸞聖人は、 「次は、私が死んでいかなければならないと思うと、不安なんです。何としても、ここ一つ、明らかになりたいのです」 と、比叡山の仏教に、不安な心の解決を求めたのです。 比叡山に入るには、出家得度を受けねばなりませんでした。 出家得度とは、この世のすべてを捨て、仏道に入り、僧侶になる為の儀式です。 親鸞聖人は、出家得度を願われました。 慈鎮和尚 「わずか9歳で出家を志すとは尊いことじゃ」と驚き、 「明日、得度の式をあげよう」と言われます。 しかし、聖人は、紙と筆を持たれて、一首の歌を書かれます。 明日ありと 思う心の あだ桜 明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは 「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。  人の命は桜の花よりもはかなきものと聞いております。  明日といわず、どうか今日、得度していただけないでしょうか」 みな、明日があると信じて、生きています。 しかし、交通事故で亡くなる人には、明日という日はありませんでした。 親鸞聖人は、明日があると信じていても裏切られる時がくるんだと言われています。 9歳でこのような歌を書かれたのは驚きです。 受け取った慈鎮和尚は、背を寒くしたように、その歌に打たれました。 「そこまでそなたは、無常を感じておられるのか……。分かった。じゃあ早速、得度の式をあげよう」 かくて、その夜のうちに得度の式を終え、聖人の髪はきれいに剃り落とされました。それは同時に、天台宗比叡山での、20年間に及ぶ、血のにじむご修行のスタートでもあったのです。

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親鸞聖人のご生涯(早わかり年表)

【親鸞聖人 略年表】 承安三年 京都・日野にご生誕 4歳 父君との別れ 8歳 母君と死別される 9歳 出家得度 比叡山の天台僧となられる 19歳 聖徳太子廟に参籠 夢告を受けられる 26歳 赤山明神で女性と出会われる 建仁元年 29歳 比叡山を下りられる 29歳 かつての法友・聖覚法印によって生涯の師・法然上人に出会い、阿弥陀仏の救いにあわれる 31歳 恩師の勧めに従い肉食妻帯を断行 34歳 法然門下の法友と三大諍論 承元元年 35歳 権力者や聖道諸宗の攻撃を受け、法然一門は解散 法然、親鸞両聖人が流刑に 35歳 越後国直江津(現在の新潟県上越市)に流刑 越後各地を布教 39歳 流罪赦免となる 40歳 法然上人逝去 関東へ赴かれる 45歳 日野左衛門を済度 49歳 弁円済度 52歳 『教行信証』を書かれる 59歳 報い切れぬ仏恩に苦しみ、発熱。床に伏される 60歳ごろ 京へ帰られる 76歳以降 著書の多くを著される 83歳 関東の同行が数名、京へ聖人を訪ねてくる 84歳 長子・善鸞を義絶 弘長二年 90歳 11月28日 入滅される