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親鸞聖人と浄土真宗がやさしく分かる入門サイトです。 初めて学ぶ方も、イラスト入りの解説で分かりやすく学ぶことができます。

親鸞聖人のご生涯

弟子一人も持たずの御心
親鸞聖人最期のお言葉「御臨末の御書」

「我が歳きわまりて」とは、親鸞いよいよこの世の命尽きたということです。 死んだらどうなるのか。 多くの人が、死んでみないとわからないという中、 親鸞聖人は、一息切れれば「安養浄土に還帰す」と仰っています。 安養浄土とは、阿弥陀仏の極楽浄土のことです。親鸞、死んだら、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くとハッキリ言われています。これを「往生一定(おうじょういちじょう)」といいます。 往生一定とは 往生とは、阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、仏に生まれることをいいます。一定とは、一つに定まるということで、ハッキリするということです。いつ死んでも阿弥陀仏の極楽浄土へ往って仏に生まれることがハッキリしたことを往生一定といいます。いつ死がやってきても崩れない幸せなので、絶対の幸福ともいわれます。 親鸞聖人は、29歳の時、往生一定の身、絶対の幸福になられて、身を粉に、骨を砕きてもと、絶対の幸福になる道を教えられた仏法一つに伝えられました。 35歳で越後(新潟県)へ流刑となられた親鸞聖人は、配所の地でも尽力なされました。 5年後、京の都へ歩みを進められる親鸞聖人に、恩師・法然上人ご逝去の知らせが届きます。悲しみに沈む親鸞聖人でありましたが、関東布教を決意。やがて関東は法の華咲く地となっていきました。 親鸞聖人が関東に打ち込まれた真実の杭は、人々の心深く入っていきました。仏法を嫌う日野左衛門(ひのざえもん)を救済せんと、石を枕に雪を褥(しとね)に、家の門前で休まれたことは、有名です。また、親鸞聖人を不倶戴天の敵と憎む山伏・弁円(べんねん)が、白昼、剣をかざして襲ってきた時も「御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)」、友よ、兄弟よと諭されました。お徳に打たれた弁円が、お弟子の明法房(みょうほうぼう)となったことも、今なお語り継がれています。 絶対の幸福に救い摂られた喜びは、どれだけご恩返しに励んでも、相済み、終わったということはない。どんなことがあっても、仏法を伝えずにおれない。ご恩返しは、真実の仏法を一人でも多くに伝え、人々を絶対の幸福に導くことと知らされた親鸞聖人は、生涯、仏法を伝えること一つに生き抜かれたのです。 しかし、まだ足らぬ、相済まぬと、90歳でお亡くなりになる時も、 「極楽でのんびりなどしておれない。寄せては返す波のように、親鸞、すぐに戻ってくる。だから一人いる時は二人、二人の時は三人だと思いなさい。うれしい時も、悲しい時も、親鸞がいつもそばにいるからね」 と呼びかけられているのです。 未来に生きる永遠の青年 「未来に生きるのが青年、過去に生きるのが老人」といわれます。たとえ肉体は70才80才であっても、素晴らしい未来に燃える人は、青年だといえましょう。 無窮の波動のように、限りなき衆生救済の未来に生きられた親鸞聖人は、永遠の青年でありました。

弟子一人も持たずの御心
親鸞聖人・弟子一人も持たずの御心

京都にまします親鸞聖人を慕って、関東からやってきた信楽房(しんぎょうぼう)というお弟子がありました。親鸞聖人からかわいがられ、直筆の御本尊やお聖教まで賜っていましたが、ある時、親鸞聖人の仰せに反発し、友達の制止を振り切って、門下から飛び出しました。 親鸞聖人に後ろ足で砂をかけて去る信楽房に、お弟子たちが、 「あいつ、お師匠さまから頂いた御本尊まで持っていったのではないか」 「許せん、取り返してくる」 と、息巻きます。それを見られた親鸞聖人は、 「もうよい。信楽房は、この親鸞との縁、尽きたのだろう」 と静かに言われました。 連れ添う縁あれば同行するが、離れる縁あれば別れねばならぬ、人の離合集散は入り組んだ因縁によると『歎異抄』に、親鸞聖人は仰っています。 利害目的が一致しているうちは仲良くても、利害が対立すると解散する。政界や企業などでよく見聞きしますが、仏法者の和合は、利害の一致ではなく、同じ教えを聞き求めるところに生まれます。 10年以上も親鸞聖人や友達たちと苦楽をともにしてきた信楽房でしたが、納得いかぬと言い張り、親鸞聖人から離れていきました。憤懣やる方ない弟子たちに親鸞聖人は、 「皆、よく聞かれるがよい。つくべき縁あれば伴い、離るる縁あれば離るることがあっても、決して、あれはわが弟子だとか、他人の弟子だとかの争い、仏法者にあってはなりませぬぞ」と諭されたのです。 親鸞聖人は「あれは私の弟子だ」「うちの門徒だ」「私が仏道へ導いたのだ」との不心得を厳戒なされました。本当の自己の姿を知らされた親鸞聖人は、以下のように仰っています。 (意訳) 是非も正邪もわきまえぬ、上に立つ値などなき身でありながら、先生とかしずかれたい名誉欲と利益欲しかない親鸞、どこまで狂い切っているのか。情けない限りである。 多くのお弟子がいた歴史上の事実 しかし実際は、親鸞聖人には多くお弟子がありました。それなのに「親鸞には、弟子など一人もいない」と仰ったのは、どういうことでしょうか。 「己の力で救えるのならば、わが弟子、ともいえよう。じゃが、阿弥陀如来のお力によらねば、アリ一匹、救われないのだからのぉ。それを己の弟子と思うなど、言語道断、断じてあってはならぬこと」 表面上、お弟子たちは、親鸞聖人に導かれ、生死の一大事に驚いて、真剣に聞法し救われたように見えますが、真実はそうでないことを、誰よりも親鸞聖人は深く自覚なされていました。 すべて阿弥陀仏のお力によって導かれている人たちを、わが弟子とは、毛頭思えなかったのでしょう。 (意訳) 微塵の慈悲も情けもない親鸞に、他人を導き救うなど、とんでもない。弥陀の大慈悲あればこそ、すべての人が救われるのだ。 去りゆく信楽房に向かって親鸞聖人は合掌し、 「信楽房よ。火宅無常の世界は、よろずのこと、皆もって、空事、たわごと、まことはないのじゃ。ただ弥陀の本願のみぞ、まことなのだ。いずこの里に行き、いずれの師匠につこうとも、これだけは間違ってくれるなよ」 信楽房の身を案じられる親鸞聖人のお気持ちに、お弟子たちは深く頭を垂れるばかりでした。 (次へ:最期のお言葉「御臨末の御書」)

「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」の真意
親鸞聖人「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」の真意

「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」と聞いたら、驚く人が多いのではないでしょうか。実は、親鸞聖人は、常に仰っていたお言葉として、親鸞聖人の曽孫の覚如上人の『改邪鈔(がいじゃしょう)』に記されています。 近年、自分の死後の心配をする人が増え、人生の終末に向けての活動を「終活」といわれています。自分が入る棺を自ら選び、墓をどうするか、葬儀の規模や誰を呼ぶかの段取りまでする人が、増えているようです。 逝く人も遺族も、葬式・法事・墓などで、死後、迷惑をかけないように、みなの幸せを願うのが一般的ですから、この親鸞聖人のお言葉に驚き、どういう心で仰ったのか、その真意は、なかなか、想像できないものです。 覚如上人は、『改邪鈔』に、その真意を書かれています。 (意訳) 皆、肉体の葬式ばかり考え、それを教えているのが仏教だと思っているが、そうではない。仏法の信心を最も重く見るのが仏教である。 仏法の信心とは、死んでからではなく、生きている現在に、いつ死んでも極楽往生間違いない身となり、絶対の幸福になることをいいます。 生きている時に絶対の幸福になるのが仏法の目的 私たちは、何の為に生まれてきたのでしょう。何の為に一生懸命、働いているのでしょう。苦しいことがあっても、生きねばならないのは、なぜでしょう。それは、生きてきてよかったと本当の幸せ、絶対の幸福になる為ではないでしょうか。 仏法を聞いて、絶対の幸福になることを、仏法の信心といいます。生きている時に、絶対の幸福になることを「平生業成(へいぜいごうじょう)」といいます。平生、生きている時に、人生の大事業である絶対の幸福になることが平生業成です。 平生業成は、親鸞聖人の教えの一枚看板といわれます。親鸞聖人は、平生業成一つ、教えられたということです。死んでからではなく、生きている時に、絶対の幸福になれる、これ一つ教えられたのが、親鸞聖人であり、仏教なのです。 それなのに、葬式、法事、墓など、死んだら用事があるものと思われていますので、このように仰っています。 (意訳) 葬式などは問題にならない、すぐに止めなさい。 葬式は意味がないのか では、葬式や法事・墓参りなどは無意味かといえば、そうではありません。心掛け一つで尊いご縁となります。 毎日、忙しい私たちは、立ち止まって自己を振り返ることがありません。毎朝届く新聞、テレビ・ラジオから、目に耳に飛び込むニュースに、悲惨な事故のない日は一日もありませんが、誰も皆、自分の死は想定外。海難事故、航空事故、人災・天災に、幾多の命が奪われても、わが身に振りかかるまで、真面目に人生の終着駅を考えようとはしません。 そんな時、葬儀に参列したり、墓前にぬかずく機会は、人生を見つめる得がたいご縁です。やがて逝かねばならぬ無常の身、夢のごとき一生だから、早く大事な仏法の信心を獲て、生きている時に、絶対の幸福になりなさいよと勧められている親鸞聖人の教えを聞くきっかけとなります。 亡き人は、生きている私たちに、何を望んでいるのでしょう。いろいろ想像できますが、やはり、生きている私たちに幸せになってもらいたいと思っているのではないでしょうか。亡き人の死を無駄にせぬよう、本当の葬儀・法要を勤め、親鸞聖人の教えを聞かせて頂きましょう。 なぜ川へ捨てて魚に与えよ、なのか 「地獄は一定すみかの親鸞。葬式なんぞもったいない。八つ裂きにされても足らぬ極悪人は川へ捨ててもらって結構」 一生造悪・極重悪人の本当の自己の姿を知らされた親鸞聖人は、忙しい中、多くの人が集まって葬式をしてもらったり、墓をつくってもらうのは、不要だと徹底した懺悔と拝することもできます。 「ああ。親鸞、生きるためとはいいながら、これまでどれだけ魚を食べてきたことか。せめて死んだ暁には、食べてもらうのが因果の道理」 自因自果の因果の道理をハッキリ知らされた親鸞聖人は、今度は私が食べてもらう番と、仰ったのでしょう。 「それにのぉ、南無阿弥陀仏に染まったこの身を食べて、人間界に生まれる縁にでもなればと思うてなぁ……」 親鸞の南無阿弥陀仏の大功徳に染まった体を食べて、やがて人間界に生を受け、仏法を聞いて、本当の幸福になってくれよと、生きとし生けるものすべてに慈悲を注がれたお言葉とも受け取れます。 (次へ:弟子一人も持たずの御心)

親鸞聖人の長子・善鸞の邪義と日蓮の出現
親鸞聖人の長子・善鸞の邪義と日蓮の出現6

(意訳) この上は、日蓮に従って念仏捨てようと、親鸞に同心して、念仏を信じたてまつろうとも、おのおの方の、勝手になさるがよかろう! 親鸞聖人お一人を心底慕い、信じ切ってやってきた関東の人たちだと、重々承知なされてのお言葉です。 “後生の一大事は一人一人の問題なのだ。親鸞が伝える弥陀の本願を信じて、浄土へ往くのか、日蓮の邪説に惑うて念仏を捨てるのか、勝手にしたらよい”「出て行け」と心を鬼にして子を叱る親心は、子供と絶縁したいのではない。抱き締めたい一杯なのだ。憎まれ嫌われても、過ちを二度と犯さぬようにと願う慈悲以外にないのです。 悪夢から覚めた関東の人たちは、懺悔の涙とともに、二度と迷うまいと心に刻み、晴れ晴れと帰路に就いたのでした。 関東から京都へやってきた人たちが帰った後、桜舞う庭先に下りられた親鸞聖人に、お弟子の蓮位房(れんいぼう)が不安げに申し上げました。 「お師匠さま。これから関東も大変なことになりそうでございますねえ」 すると親鸞聖人は、庭の桜の木の傍らで、 「だがのぉ、蓮位房。考えてみれば、このたびのことは、喜ぶべきことなのだ」 と、しみじみ仰ったのです。 関東で大事件が起き、そのために片道1ヶ月もかかる道を、関東の人たちは京都まで赴きました。治安のよい現代でさえ、長旅には危険が伴う。まして当時は、荒れた道なき道もあり、物取りや山賊などに命を奪われるなど、危険は現在の比ではありません。そんな旅に、田畑を売って路銀を作り、家族と水杯を交わしてきたのです。それなのに、なぜ喜ぶべきことと仰ったのでしょうか。 驚いてお聞きする蓮位房に、親鸞聖人はこう答えられました。 (意訳) 日蓮や善鸞の言葉ぐらいで、ぐらつくような心では、臨終の嵐の前には、吹き飛ぶのだぞ。まことの幸せになっていなかったことが知らされただけでも、喜ぶべきことではないか。 (次へ:「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」の真意)

 

1から分かる浄土真宗

けんか2
意見がぶつかった時の心の持ち方を聖徳太子に学びます

人類が発生して以来、人と人の意見のぶつかり合いは、絶えたことはないのではないでしょうか。ニュースを見ても、子供のいじめ、高齢者の介護問題、国家間の紛争など、幼い子供から大人にいたるまで、意見のぶつかり合いの毎日と知らされます。 私たちは、大なり小なり、家庭や職場で、意見があわず、ケンカになったり、黙り込んだりしています。そのままにしておくと、心が苦しくなり、場合によっては、心のわだかまりが大きくなり、二度と修復できないかもしれません。 意見がぶつかった時、どのような心の持ち方をすればよいのか、まず聖徳太子に聞いてみたいと思います。 聖徳太子の十七条憲法に学ぶ 聖徳太子といえば、十七条憲法ですが、十七条憲法の十条に、このような言葉があります。   (意訳)  私がいつも聖者、正しい訳ではない。相手がいつも愚者、間違っている訳でもない。私も相手も、ともに凡夫、誤った判断をする人間なのだ。 同じく十七条憲法の二条に 三宝とは、この世には、三つの宝があるということです。その宝とは、仏様であり、仏様の説かれた教え(法)であり、その法を正しく伝える人(僧)のことです。一言でいうと、仏教です。仏教は、すべての人を幸せにする教えだからであると書かれています。 聖徳太子は、仏教に造詣が深く、ここでも「凡夫」と仏教の言葉を使われています。 ともに凡夫とは 凡夫とは、仏教では、人間のことを言います。親鸞聖人は、煩悩具足の凡夫と仰っています。凡夫とは、煩悩具足である、具足とは塊ということで、煩悩の塊が人間であるということです。 煩悩とは、1人に108ありますが、特に私たちを煩わせ悩ませるものが3つあります。三毒の煩悩といい、欲、怒り、愚痴の心をいいます。私たちは、朝から晩まで、心の中で何を思っているかというと、欲、怒り、愚痴といっても言い過ぎではないでしょう。この欲、怒り、愚痴の心がある為、人間は、理屈ではわかっていても、理屈通りにできぬところがあります。 それは、私だけではなく、すべての人がそうだと仏教では教えられています。 「私もそうだが、相手もそうだ。お互いが凡夫なのだ。」 この人間観をもつことができれば、一時、自分の意見を抑えて、相手の意見を心静かに聞いてみることができるのではないでしょうか。 親鸞聖人の歎異抄「善悪の二、そうじてもって存知せざるなり」の断言 歎異抄という有名な本には、親鸞聖人は、こう仰ったと記されています。   (意訳) 親鸞は何が善で何が悪は、まったくわからない。 私たちは、ついつい、これは善、これは悪と、ハッキリわけてしまいますが、この世のことは、立場が変われば、今まで善だったのが悪になる、今まで悪だったのが善になることもあります。戦争は、その代表例です。 100%正しいということもなければ、100%間違っていることもないのです。 私は100%正しい、相手が100%間違っていると思い込んでいる時に、怒りの心が燃え盛ります。そんな時、100%はないのでは、と自分に問いかけることによって、少しは自分も間違っていた、少しは相手も正しいところがあると、意見を通わせる一端が見えてくるのではないでしょうか。 心のスイッチをもちましょう 「ともに凡夫のみ」「善悪、存知せず」「100%はない」など、スイッチになるような短い言葉を決めておきましょう。意見がぶつかった時には、この心のスイッチを押せばよいでしょう。聖徳太子、親鸞聖人は、常にそばにいるのです。

聖徳太子は日本のお釈迦様であると親鸞聖人は評価されている
聖徳太子は日本のお釈迦様であると親鸞聖人は評価されている

聖徳太子と親鸞聖人の関係 歴史の教科書にも登場する聖徳太子。今でこそ1万円札は福沢諭吉ですが、その前は、聖徳太子でした。 ここでは、聖徳太子はどんな人か、ではなく、聖徳太子と親鸞聖人の関係について、紹介したいと思います。 親鸞聖人は聖徳太子の夢を見られたことがある 親鸞聖人は9歳の時に比叡山に入られ、仏道修行に打ち込まれました。10年間、全身全霊修行なされましたが、これ以上どうすることもできないと、修行に行きづまられました。 幼い頃、お母さまから「夢に如意輪観音があらわれて、五葉の松を母に授けて私の出生を予告した」と聞かれたことを思い出し、観音と関係深い聖徳太子のお導きにあおうと思われて、聖徳太子ゆかりの磯長(しなが)の御廟へ参詣されました。 磯長(しなが)は、現在の大阪府南河内郡太子町にありますから、京都と滋賀の県境に比叡山はありますので、大変な距離です。 磯長の御廟に着かれた親鸞聖人は、3日間、一心不乱に出離の道を祈り念じ続けました。そして、ついに失神してしまったのです。その時に、聖徳太子の夢を見たと記録されています。 午前2時頃、自ら石の戸を開いて聖徳太子が現れ、廟窟の中はあかあかと光輝いていて親鸞聖人は驚きました。その時、聖徳太子が仰ったお言葉も記されています。ここでは、その内容までは触れないでおきたいと思います。 親鸞聖人 仏教の歴史をひもとかれる その後、親鸞聖人は29歳まで比叡山で修行を続けられましたが、とても修行を成就することはできないと下山されました。京都の町をさまよい歩いていたときに、友人の聖覚法印(せいかくほういん)を通して法然上人に出会うことができました。 法然上人から浄土仏教を聞かれ、親鸞聖人はたちまち、本当の幸せになられ、法然上人のお弟子になりました。 20年間、比叡山で苦労なされた親鸞聖人にとって、「法然上人から聞かせて頂くことがなければ、親鸞は、今、こんな幸せな身になれなかった」と法然上人との出会いはかけがいのないものでした。 さらに、仏教を説かれたお釈迦様は、遠い昔のインドの方。インドで説かれた仏教がどうして日本の自分のところまで届けられたのか、届ける人がいなければ、自分は幸せになれなかったと、親鸞聖人は思いをめぐらされました。 仏教の歴史をひもといてみると、今から2600年前にインドでお釈迦様によって説かれた仏教は、中国に伝えられます。そして中国から朝鮮半島を通って、日本に伝えられたのは6世紀頃と言われます。 当時の日本は、物部(もののべ)氏と蘇我(そが)氏が権力争いをしていました。仏教についても、物部氏は排仏派、蘇我氏は崇仏派と、意見が分かれていました。聖徳太子は、仏教を中心にした国作りをしたいという理念を実現するため、崇仏派の蘇我氏に味方し、蘇我氏は、物部氏との権力争いに打ち勝つことができました。 十七条憲法には仏教が出てくる 聖徳太子の有名な十七条憲法の第二条には、このようにあります。 三宝とは、この世には、三つの宝があるということです。その宝とは、仏様であり、仏様の説かれた教え(法)であり、その法を正しく伝える人(僧)のことです。一言でいうと、仏教です。仏教は、すべての人を幸せにする教えだからであると書かれています。 その後、日本は、仏教中心の国作りが進められ、日本の文化と仏教は、切っても切れない深い関係をもつようになります。 もし聖徳太子がいなければ、聖徳太子が仏教中心の国作りをしようと思わなければ、日本に仏教は伝わらなかったかもしれません。 日本の仏教が伝わらなかったら、法然上人が現れることもなかった、法然上人から仏教を聞かせて頂くこともなかった、今、こんな幸せな身になることもなかったと思いをめぐらせた親鸞聖人は、聖徳太子に深い御恩を感じられたのでした。 聖徳太子は日本のお釈迦様である 親鸞聖人の正像末和讃(しょうぞうまつわさん)に、このようなお言葉があります。 聖徳皇(しょうとくおう)とは、聖徳太子のことです。 和国の教主とは、和国とは日本、教主とは教えの主ということで、仏教を説かれたのはお釈迦様でしたから、仏教の教えの主とは、お釈迦様のことです。 聖徳太子は、和国の教主、日本のお釈迦様であると言われています。 聖徳太子がいなければ、日本に仏教は伝わらなかったであろうから、日本のお釈迦様のような存在であると、親鸞聖人は評価されています。 聖徳太子の御恩は、広大恩徳、広くて大きな御恩であり、その御恩に、どれだけ感謝しても、感謝しすぎることはないと、褒めたたえられています。 親鸞聖人の教えを学びますと、それまで歴史上の人物として見ていた聖徳太子が、大変身近な存在として、私たちに近づいてくると感じると思います。

一念発起の意味 仏教に語源があるが浄土真宗での意味は
一念発起の意味 仏教に語源があるが浄土真宗での意味は?

前向き発言の一念発起(いちねんほっき)とは 一念発起とは、それまでの考えを改めて、あることを成し遂げようと決意し、熱心に励むことをいいます。「一念」は、一つのことを思うという意味です。 「一念発起して試験勉強に取り組む」「一念発起して禁煙する」のように、使われています。 今まで、やりたいとは思っていたけどなかなか取り組めず、時間がどんどん過ぎ去っていき、「このままでいいのか」と、心の中に何か釈然としない、もやもやしたものがある。 それが何かをきっかけに、「このままではダメだ。『明日からやろう』では、明日になったら、また『明日からやろう』で、いつまでも先延ばしにしてしまう。やるなら今だ」と思い立つ。 林先生の「いつやるの」「今でしょ」の声が、心の中に響くかもしれません。今までの自分に終止符を打って、今から変わろうと決意する時に「一念発起」という言葉が使われます。 非常に前向きな取り組みに使われますので、素晴らしい言葉だと思います。 もとは、仏教の華厳経にある言葉だと言われています。 親鸞聖人の教えでは 浄土真宗、親鸞聖人の教えでは「一念発起」は、非常に多く使われています。しかし、読み方は違います。普通は「いちねんほっき」と読みますが、浄土真宗では「いちねんぽっき」と読みます。 仏教書で一番よく読まれている歎異抄にも出ています。 親鸞聖人の教えを正確に最も多くの人に伝えられた蓮如上人の御文章には、いたるところに出ています。その中で一番知られているのは、聖人一流章です。 では、同じ意味で使われているかというと、読み方も違いますが、意味も異なります。 浄土真宗では、一念発起とは、一念とは、あっという間もないくらい短い時間、瞬間のことです。教行信証には「時尅の極促(じこくのごくそく)」とあります。時尅とは時間、極促とは極めてはやいということで、時間の極まり、これ以上短い時間がない、何億分の1秒よりも短い時間をいいます。発起とは、発もおこる、起もおこるで、起こるということです。 入正定之聚とは、正定之聚(しょうじょうしじゅ)に入ると読みます。正定之聚とは、正定聚(しょうじょうじゅ)ともいわれ、今日の言葉でいうと、何があっても崩れることのない絶対の幸福のことです。正定之聚に入るとは、絶対の幸福になることをいいます。 そんな絶対の幸福にいつなれるのか。それは、一念発起です。生きている今、一念の瞬間に、絶対の幸福になれる。それは、今までの自分の心とは全く異なる幸せなので、発起と言われています。 一念発起して、本当の幸せになれるよう、親鸞聖人の教えを聞かせて頂きましょう。

蓮如上人と白骨の章
蓮如上人と白骨の章 書かれた経緯

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し……」 延徳元年8月、蓮如上人75歳。上人は有名な「白骨の御文」をお書きになった。どんな経緯があって、書かれることになったのでしょうか。 蓮如上人と海老名五郎左衛門とのやりとり 「蓮如上人さま、ありがとうございました。わが身に迫る無常が、深く心にしみ入ります」 「青木殿のことは、まことに悲しい出来事であった」 「まことに……」 青木殿とは、山科本願寺の近くの安祥寺村にいた青木民部という下級武士のことである。 *山科本願寺……現在の京都市山科区にあった聞法道場 海老名五郎左衛門と青木民部 「おう、民部よ。わしが戦に行っている間に、そなたの娘は何と美しく育ったものか」 「ははは、自慢の一人娘じゃ」 「いや、その優しさといい、評判どおりじゃのう、幾つになった?」 「清女も十七歳じゃ。実は、有力な武家から縁談を持ちかけられておる」 「何と惜しい。わしがもう少し若ければ、嫁にもらうところを」 「はははは、五郎なんぞにはやりはせんぞ」 やがて縁談が調い、挙式は8月11日に決まった。 しかし、民部は、下級武士ゆえ経済的な蓄えがない。 「致し方ない。先祖伝来の武具・馬具を売り払うよりない」 「そんな簡単に手離せるものか、戦の時は、どうするのじゃ?」 「いやいや、大事な娘の嫁入りじゃ、立派な衣装や道具を調えてやらねばのう」 「民部…」 ついに迎えた婚儀の日 青木民部の家では朝から両親は、お祝いに来た近隣の人々に衣装などを見せて喜んでいた。 ところが── 「うっ……」 「ど、どうした急に、清女!」 「う……う……」 「あなた、ど、どうしましょう」 「大変だ、たのむ、医者をたのむ」 「医者は隣村に行かねばおらぬぞ!わしが連れて来る間に、薬を!」 「清女、清女」 「清女ー!」 周囲の人々が、慌てふためくうちに、娘は息絶えてしまった。 「こんな、こんなことがあっていいのか!」 「うそよ、悪夢よ!こんなの信じないわ!」 「目を開けておくれ、清女、ああ!」 民部夫婦は半狂乱になって慟哭したが、氷のごとく冷たくなった亡骸をいかんともする術がなかった。隣近所の人たちが手伝って、その夜のうちに野辺送りし、翌十二日、骨を拾って帰った。 「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か……お、おおお……」 民部は、嗚咽のまま、息絶えてしまった。51歳であった その場にいた人々の驚きは、例えようがなかった。だが、そのままにもしておけない。娘と同じ火葬場で、荼毘に付された。 「清女……、あなた……、私一人を残して……、一体どうしたというの」 後に一人残った民部の妻は、ただ悲嘆に暮れていたが、翌十三日、愁い死にしてしまった。 37歳の若さであった。 青木民部の近所の人たち 「何ということだ。数日の間に、一家三人が亡くなってしまった……」 「何と人の命とは、はかなきことか……」 「戦場よりも激しき無常だ」 「この家はもう、住む者がいなくなった。誰が引き取るかのぉ」 「青木家の家財一切は、亡くなった三人が信奉していた、山科本願寺の蓮如さまに寄進するのがよいと思うが」 「うむ、それがよい」 「そうしよう」 蓮如上人 青木家の不幸をお聞きになり、大変哀れに感じられ、落涙されること、しばしであったという。 「何ということだ……、これを縁に、世の無常について文(手紙)に表そう」 ところが、続いて8月15日 「なんと、海老名五郎左衛門殿の息女が急死したとな!」 海老名五郎左衛門とは、山科本願寺の聖地を財施した武士である。その娘も17歳だった。 青木民部一家に起きた突然の不幸、そして海老名五郎左衛門の十七歳の娘も無常の風に襲われた。 蓮如上人と海老名五郎左衛門とのやりとり 娘の葬儀を終えた五郎左衛門が、8月17日、山科に蓮如上人を訪ねてきた。 「海老名殿。こたびの事は、まことに……」 「蓮如上人さま。青木民部殿のこと、悲しきこととはいえ、他人事だと思っておりました。まさか、私の娘が……、ううう……」 「一体、どうした訳で?」 「はい、その日は、家族で行楽地へ出掛けることになっておりました。娘は、朝早くから髪を結い、美しく化粧をして……、そして大勢の供を連れて門前に出たところ…… 「お父様、何だか胸が急に……」 「うん?ど、どうした」 「……」 「こ、これはいかん!家に引き返せ!医者だ!」 そのまま容体はどんどん悪化し、昼頃には、もう息を引き取ってしまいました。」 「なんと……」 「蓮如上人さま。我々のごとき仏道懈怠の者に、何とぞ人の世の無常を表すお文をお書きくださいませ。お願いでございます。」 「うむ。青木殿のこともあり、考えていたところじゃ。すぐに筆を執ろう。」 こうして五郎左衛門に書き与えられたのが、「白骨の章」であった。 白骨の章 (意訳) よく聞いてください。浮草のように不安な人生を、よくよく眺めてみれば、人の一生ほどはかないものはありません。生まれて大きくなり、やがて老いて死ぬ。まさに幻のような人生です。 いまだ千年、万年、生きたという人を、聞かないでしょう。人生長いようでも過ぎてしまえばアッという間の出来事。百歳まで生きる人はまれなのです。我や先、人や先、死ぬのは他人で、自分はまだまだ後だ、と思っているが、とんでもない間違いです。 覚如上人(かくにょしょうにん・親鸞聖人の曾孫)も仰せである。 「死の縁無量なり……病におかされて死する者もあり、剣にあたりて死する者もあり、水に溺れて死する者もあり、火に焼けて死する者あり……」 今日とも明日とも知れぬ、私たちの命。雨の日、木の枝から滴り落ちる滴のように、毎日、多くの人が後生へ旅立っているではありませんか。 朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なのです。朝、元気に出掛けた者が、事故や災害、突然の病などで、変わり果てて帰することも珍しくないでしょう。ひとたび無常の風に誘われれば、どんな人も二度と目を開かなくなる。一息切れたら、顔面は血の気を失い、桃李の肌色はなくなってしまう。 「お願い、もう一度笑って!お願い、もう一度笑って!目を開けておくれ!」 肉親や親戚が集まってどんなに泣き、悲しんでも、二度と生き返ってはきません。 泣いてばかりもおれないから、火葬場に送って荼毘に付せば、一つまみの白骨が残るだけ……。死者を哀れんでいる者も、やがて同じ運命をたどるのです。 老いも若きも、関係なく、いつ死ぬか分からぬのが、人間というものです。どうか皆さん、早く後生の一大事の解決を求め、阿弥陀仏に救い摂られ、仏恩報謝の念仏する身になってもらいたい。 (関連:蓮如上人の「白骨の章」 海老名五郎左衛門、また、その後、蓮如上人のお弟子たちも、このお文を拝読して感涙にむせんだ。そのほか、武家や公家にも広く伝わり、明日はなき無常の世を知らされ、山科本願寺へ聞法に訪れる人が多く現れたという。 この経緯は『御文来意鈔』に記されている。

 

お釈迦様物語

長者の心を変えた孤児・サーヤの布施の心がけ
お釈迦様物語 長者の心を変えた孤児・サーヤの布施の心がけ

お釈迦様ご在世の時、孤児となった少女サーヤが、給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)の屋敷に引き取られて働いていた。赤ん坊の世話と食器洗いが彼女の仕事である。 ある日、温かく抱き締めてくれる母がもうこの世にいないと思うと切なくなったサーヤは、道端に座り込み、大声で泣いてしまった。 そこを通りかかった僧侶が、父母を亡くした寂しさを訴えるサーヤに、“人は皆、独りぼっちである”というお釈迦様のお言葉を示して慰めた。 “じゃあ、どうすればその寂しい心がなくなるの?”と問うサーヤに、僧が「仏法を聞きなさい」と勧めると、彼女は大いに喜び、長者の許しを得てお釈迦様のご説法を聞くようになった。 ある日のこと。夕食を終えた給孤独長者が庭を散歩していると、サーヤが大きな桶を持ってやってきて、 「ほら、ご飯だよ。ゆっくりお上がり。ほらお茶だよ……」 と桶の水を草にかけ始めた。訳を聞くと、茶碗を洗った水を、草や虫たちに施していると言う。 「そうだったのか。だが“施す”などという難しい言葉を誰に教わったの?」 「はい、お釈迦様です。毎日、少しでも善いことをするように心がけなさい、悪いことをしてはいけませんよ、と教えていただきました。善の中でも、いちばん大切なのは『布施(ふせ)』だそうです。貧しい人や困っている人を助けるためにお金や物を施したり、お釈迦様の教えを多くの人に伝えるために努力したりすることをいいます。私は何も持っていませんから、ご飯粒のついたお茶碗をよく洗って、せめてその水を草や虫たちにやろうと思ったのです」 サーヤの話に、長者はこう言った。 「ふーん、サーヤは、そんなよいお話を聞いてきたのか。よろしい。お釈迦様のご説法がある日は、仕事をしなくてもいいから、朝から行って、よく聞いてきなさい」 幾日かたち、長者はサーヤが急に明るくなったことに気づいた。いつも楽しそうに働いているサーヤを呼び、再び話を聞いた。 サーヤは、「私のように、お金や財産が全くない人でも、思いやりの心さえあれば、七つの施しができると、お釈迦様は教えてくださいました。私にもできる布施があったと分かって、うれしくて」と言って、七つの施しの中にある「和顔悦色施(わげんえっしょくせ・明るい笑顔、優しいほほえみをたたえた笑顔で人に接すること)」を心がけ、一生懸命、優しい笑顔で接するように努力していると言った。 「ふーん。ニコニコしていることは、そんなにいいことなのかい」 「はい。暗く悲しそうな顔をすると、周りの人もつらくなるし、自分も惨めな気持ちになります。苦しくてもニッコリ笑うと、気持ちが和らいできます。周りの人の心も明るくなります。いつもニコニコしようと決心したら、親がいないことや、つらいと思っていたことが、だんだんつらくなくなってきました。泣きたい時もニッコリ笑ってみると、気持ちが落ち着いてくるんです」 聞いていた長者は胸が熱くなった。 「サーヤよ。そんなにいいお話、わしも聞きたくなった。お釈迦様の所へ連れていっておくれ」 長者が初めてお釈迦様のご説法に直接触れることになります。 *給孤独長者……古代インド、コーサラ国の長者。孤独な人々を哀れみ、よく衣食を給与したので「給孤独」と呼ばれた。「スダッタ」ともいう。

仏教に飲酒を禁じる不飲酒戒(ふおんじゅかい)ができた訳
お釈迦様物語 仏教に飲酒を禁じる不飲酒戒(ふおんじゅかい)ができた訳

ボルネオ島の人々の、猩々(オランウータン)を捕らえる、奇抜な方法があります。 アリックという、強烈な酒を愛飲する彼らは、数滴その酒を落とした水ガメを、猩々の巣の下に置く。間もなく猩々は、それを飲み干す。翌日から少しずつ、酒の量を増やしていく。 生まれつき、大酒飲みではないのですが、知らず知らずに猩々は、酒の味を覚え、好むようになっていくのです。 やがては生のアリックをも、ガブ飲みするようになります。さすがにその時は酔っ払い、石を投げたり木を折ったり、散々乱暴した揚げ句ゴロリ高鼾で寝てしまう。 そこを難なく、捕らえるという。飲んでいたつもりが、いつの間にかのまれている。そこに酒の怖さがあるのです。 お釈迦様ご在世のこと。インドの支提国に、獰猛な悪龍がいました。盛んに暴れ回って、村民を痛めつけ、牛馬を荒らし、残忍の限りを尽くす。村民や家畜はもとより、鳥までが恐れて、飛ばなくなったと評判でした。 お釈迦様に、莎伽陀(しゃがた)という弟子がいました。村人の難儀を救わんと、神通力を駆使して征服し、悪龍はついに、仏弟子にまでなったのです。国中に、莎伽陀の雷名がとどろいたのは言うまでもありません。 ところがある時、信者から酒を馳走になり、ついつい、莎伽陀は飲みすぎました。 夜更けの帰途で、道端に倒れ、汚物を吐くやら、苦しむやらで、大醜態をさらした。直ちに弟子たちを、一堂に集められたお釈迦様は、こう諭されています。 「皆の者、莎伽陀を見よ。彼は、かの悪龍を征服したほどの智者ではあるが、酒に征服されて、かくのごとき始末である。聖者ですら酒を飲んでは、かくのごとし。いわんや、凡人は厳に身を慎まねばならぬ。今後、酒を飲むことを禁ずる」 これが、仏教に、飲酒を禁じる不飲酒戒(ふおんじゅかい)が制定された動機であると伝えられています。 「酒は飲んでも飲まれるな」と言われます。酒で道を誤らぬように。

我は心田を耕す労働者なり 働くとは「はたをらくにする
お釈迦様物語 我は心田を耕す労働者なり 働くとは「はたをらくにする」

35歳の12月8日に、大宇宙最高のさとりを開かれたお釈迦様は、波羅奈国の鹿野苑で、仏として初めての説法(初転法輪)をなされた。その後、仏陀の教化によって数十人が出家した。その仏弟子たちにお釈迦様はこう説かれている。 「修行僧たちよ、我は無上の法をさとった。人々の真の幸福のために歩みを進めよう。教えを説け。行いを示せよ。我もまた、教えを説くために旅立つであろう」 仏弟子たちは各地へ散らばって仏の教えを伝え始めた。お釈迦様も、道俗、貴賎、貧富、賢愚、老少、男女の別なく、あらゆる人々に無上の尊法を説かれたのである。 ある日、お釈迦様はお弟子たちを連れて、托鉢に出掛けられた。食料などの布施を鉢に受け、広く大衆と仏縁を結ぶためである。 赴かれた土地では、男たちが牛を励まし、鋤や鍬で田畑を耕していた。いずれも今日の糧や、近い将来の豊かな生活を得るため、額に汗して、一心不乱に大地と格闘している。 そんな人々を目当てに、乞食に精を出されるお釈迦様とその弟子たちは、やがて大勢の農民が仕事を終え、食事を広げているのを認めた。鉄鉢を持って黙然と立たれたお釈迦様に仲間の頭らしい男が気づき、周囲に目くばせしながら、からかうように言った。 「よく、あなたたちは来なさるね。どうです、そんなに大勢の働き盛りの若者たちを連れて、ブラブラ乞食したり、訳の分からぬ説法などして歩かないで、自分で田畑を耕して、米や野菜を生産したらどうです。私らは難しいことは言わないが、自分で働いて、自分でちゃんと食っていますよ」 “ものを生産してこそ労働ではないか” 丁寧ではあったが彼の言葉には、人々の施しによって生きる修行者たちへの軽蔑と、肉体を酷使して働くことへの自負とが、ありありと見えていた。 男の言うことを静かに聞いておられたお釈迦様は、従容として、こう答えられた。 「我もまた、田畑を耕し、種をまき、実りを刈り取っている労働者である」 意外なお答えに、不審をあらわにして男は反問する。 「ではあなたは、どこに田畑を持ち、どこに牛を持ち、どこに種をまいていられるのか」 お釈迦様は、毅然として喝破なされた。 「我は忍辱という牛と、精進という鋤をもって、一切の人々の、心の田畑を耕し、真実の幸福になる種をまいている」 「財は一代の宝、法は末代の宝」といわれる。金や財産は楽しみを与えてくれても、この世だけのことである。だが、仏法は、未来永劫、我々を本当の幸福に生かし切ってくだされる。 その真実の宝を施す以上の、素晴らしい労働があるはずがない。お釈迦様は、「我は心田を耕す労働者なり」の大自覚を持って、最高の労働に身命を捧げられたのである。

お釈迦様と自殺志願の娘
お釈迦様物語 お釈迦様と自殺志願の娘

足が棒になって動かない。身重の体は、疲れで鈍く火照っている。 朝から当てもなくさまよって、この大きな橋にたどり着いた。日はもう中天にある。陽光にきらめく川面をぼんやり眺めながら、女はここ数日の出来事を思い出している。“もう、何もかもがイヤになったわ”。小さく一人ごちた。 その瞬間、つかえが外れたように膝を折って、彼女は辺りをはばかりながら、たもとへ石を入れはじめる。自殺の準備だった。 ややあって、背後から呼びかける声があった。 「……もし、そなた」 熱中していた彼女は、ハッと我に返り、顔を上げた。振り向くと、少し離れた所に、一目でそうと分かる尊い方のお姿がある。 涼やかな、慈愛あふれるまなざしが、すべてを了解したように向けられていた。たもとを隠し、恥じらいながら、彼女は立ち上がった。 名乗られたお名前には聞き覚えがある。最高のさとりを開いたお釈迦様が、各地で説法なされていると、世事に疎い彼女も聞いたことがあった。 “この方が……?あのお釈迦様……” わずかな光が心に兆す。慈悲深い尊容に安心感を覚えた彼女は、思わず知らず語りはじめた。 「お恥ずかしいことですが……、ある人を愛しましたが、今は捨てられてしまいました。世間の目はいよいよ冷たく、お腹の子の将来など考えますと、死んだほうがどんなにましだろうかと、ただ苦しむばかりです。どうかこのまま死なせてください……」 あとは言葉にならず、その場にしゃがみ込んだ。直後に響いたのは、威厳に満ちた仏陀の声だった。 「愚かなそなたには、例えをもって教えよう」 雷鳴に驚いた幼子のように、彼女は身を硬くして聞き入った。 「ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 “なぜオレは毎日、こんなに苦しまねばならぬのか、自分を苦しめているものは一体何なのか”と」 腹に手を当て、男を思い出す。責める心が胸の中で暴れていた。秘めた怒りや憎しみが膨れ上がり、自分でどうしようもなくなる。例え話は続く。 「“そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだ” 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当て、木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、“こんな乱暴な牛には、頑丈な車でなければまた壊される”と、やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さであった。その車で重荷を、同じように、毎日、引かせられ、以前の何百倍、何千倍、苦しむようになった牛は、深く後悔したが後の祭りであった」 一言一言が心に刺さり、“この牛は私だ”と、身震いしながら彼女はお釈迦様を見る。優しいまなざしが向けられていた。 「牛がちょうど、車さえ壊せば苦しまなくてもよいと思ったのと同じように、そなたは肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まなければならないのだ。その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」 “あぁ……、何と私は愚か者であったのか。お釈迦様にお会いしなければ、自ら苦しみの世界へ飛び込んでいたに違いない。危ないところであった” すべてを受け入れると、転嫁の苦しみが引いた。わが身の一大事を知った彼女は直ちに仏門に入り、救われたという。

 

基礎から学ぶ仏教

食後の「ごちそうさまでした」の深い意味

  食事を食べる時、食前には「いただきます」、食後には「ごちそうさまでした」と言います。   「いただきます」は、いろいろな説があります。 ・肉や魚を食べる時、「命をいただく」という意味 ・食事を食べるまでいろいろな人のご苦労があったから、その人たちへの感謝の気持ち いずれも感謝の心は共通しているようです。   では、「ごちそうさまでした」はどうなのでしょうか。 「ごちそうさまでした」について、少し掘り下げてみたいと思います。   目次 ・「ごちそうさま」は漢字で書くと「御馳走様」 ・「韋駄天(いだてん)」が走る ・仏教の本来の「馳走」とは   「ごちそうさま」は漢字で書くと「御馳走様」 「ごちそうさま」は漢字で書くと「御馳走様」です。 御馳走とは、客のために奔走して材料を集め、食事を出してもてなすこと。 その労に対する感謝の言葉として「御馳走様でした(ごちそうさまでした)」というようになりました。   「御馳走」は「馳走」に丁寧語の「御」の字がついて「御馳走」です。 「馳走」は「馳」は「馳(は)せる」、「走」も「走る」で、ともに走ることです。 どうして走ることと食事がつながったのでしょうか。 実は「馳走」は仏教から出た言葉なのです。確かに欧米では「ごちそうさまでした」のような言葉はないそうです。   「韋駄天(いだてん)」が走る 仏教では「韋駄天」が出てきます。韋駄天とは何者か。 仏教では、仏教および仏教徒を守護する神が教えられています。 その中に韋駄天がいます。 昔、足の速い人がいると「韋駄天のようだ」、また「韋駄天走り」と言われました。 なぜ足の速い人を「韋駄天」というのでしょうか。 お釈迦さまが亡くなられた後、仏舎利(ぶっしゃり)を盗んだ者がいて、韋駄天が盗人を追いかけて取り戻したという俗話から、「韋駄天」とは足が速いと言われるようになったそうです。 その韋駄天がお釈迦さまの為に駆け回って食材を集めてきたという話があり、駆け回る「馳走」が、食事を出してもてなすこと、また、食事そのものを表すようになりました。   仏教の本来の「馳走」とは 仏教では、この韋駄天の話から、食事だけではなく、他の人の為に奔走して、功徳を施して救う、苦しんでいる人を助けることを「馳走」と言います。   お釈迦さまは35歳の時に仏のさとりをひらかれて80歳でお亡くなりになるまでの45年間、インドを「馳走」されました。 親鸞聖人は29歳の時に阿弥陀仏の本願に救いとられ、本当の幸せになられてから、90歳でお亡くなりになるまで、京都、新潟、関東を「馳走」されました。 そのような「馳走」される仏教の先生がおられたからこそ、2600年の時代と国を超えて、今日、日本に仏教が伝えられています。 2600年たっても、なくならず、伝え続けられているのは、教えの内容が、時代や国を超えて、すべての人の苦しみを解決し、幸せになれる道を教えられているからですが、どんな素晴らしいものがあっても、伝える人がいなければ、誰も知ることはなく、やがてはなくなってしまいます。 「馳走」なので、走りのリレーで例えてみますと、お釈迦様から渡された仏教というバトンが、インドから中国、中国から日本へとつながり、今日、私のところまで届けられたのです。まさに「馳走」のおかげです。 そう思いますと「ごちそうさまでした」は、食事の感謝の言葉でありますが、私が仏教と巡り合った感謝の言葉ともいえるかもしれません。 仏教を聞くことができたことに感謝して「ごちそうさまでした」  

「縁起がよい」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」の「縁起」とは
「縁起がよい」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」の「縁起」とは

「縁起がよい」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」という言葉を耳にしますが、「縁起」とはどういう意味か、仏教で使われる「縁起」と全く違いますので、説明したいと思います。 目次 ・「縁起」の意味 ・仏教で「縁起」とは ・仏教の「縁起」は「縁起がよい」「縁起が悪い」を否定する ・まとめ   「縁起」の意味 「大辞林」によりますと、まず3つの意味が紹介されています。 1.物事の吉凶の前兆。きざし。前ぶれ。 「縁起がよい」「縁起が悪い」 「縁起をかつぐ」とは、吉凶にとらわれる、縁起がいいとか悪いとかを気にすることをいいます。 2.社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。また、それを記した文献。 「信貴山縁起」は有名です。 信貴山縁起(しぎさんえんぎ)は、平安時代末期の絵巻物で、2016年現在、日本の国宝に指定されている。『源氏物語絵巻』、『鳥獣人物戯画』、『伴大納言絵詞』と並ぶ四大絵巻物の1つと称される。朝護孫子寺が所蔵(原本は奈良国立博物館に寄託されており、当山内の霊宝館では複製を展示)。「信貴山縁起絵巻」とも称する。 (wikipediaより) 3.事物の起源や由来。 仏教で「縁起」とは 「大辞林」には、4番目に紹介されています。 4.因縁によってあらゆるものが生ずること。 縁起とは因縁生起(いんねんしょうき)を略したものです。すべてのものは、因縁によって生起するということです。 経典には、以下のような言葉があります。 一切法は因縁生なり。『大乗入楞伽経(だいじょうにゅうりょうがきょう)』 一切法とは、万物、すべてのものです。すべてのものは、因縁によって生じているということです。 これを因縁果(いんねんか)の道理ともいいます。 どんな結果にも、必ず因と縁がある。因と縁がそろってはじめて結果が生じる。これが道理、いつでもどこでも成り立つことである。因だけでも結果は生じない、縁だけでも結果は現れない。因と縁がそろって結果が生じる。これが因縁果の道理です。 米に例えると、米の因はモミダネです。モミダネだけでは、米はできません。モミダネが米になるには、水、土、日光などが必要です。これらを縁といいます。縁は、因が結果を生み出すのを助ける働きをいいます。 私たちの日常生活の因縁果の道理は、次のように教えられています。 善因善果(ぜんいんぜんか) 悪因悪果(あくいんあくか) 自因自果(じいんじか) よいタネをまけばよい結果が現れる。悪いタネをまけば悪い結果が現れる。 大根のタネをまけば大根が出てくる。スイカのタネをまけばスイカが出てくる。 まいたタネに応じたものが生えてくるということです。 自因自果とは、自分のまいたタネの結果は自分がかりとらねばならないということです。 ここで、因とは行い、果はわかりやすくいうと運命です。 よい行いをすればよい運命、悪い行いをすれば悪い運命が現れる。 よいのも悪いのもすべて、自分に現れる運命は、すべて自分の行いが生み出したものである。 仏教では、「よい結果がほしければ、よい行いをしなさい。悪い結果が嫌ならば、悪い行いをやめなさい」と廃悪修善(はいあくしゅぜん)を教えられています。 仏教の「縁起」は「縁起がよい」「縁起が悪い」を否定する 因縁果の道理を仏教では「縁起」といいます。仏教の「縁起」は、吉(善果)は、よい行いが生み出すものであり、凶(悪果)は、悪い行いが原因であると教えます。ですから、仏教では、縁起をかつぎません。 仏教は、今日はもともといい日だった、もともと悪い日だったという日の善悪を否定しています。カレンダーに「仏滅」とあると、仏教と関係があると思いがちですが、仏教では、仏滅の日だからといって、悪い日とは教えていません。廃悪修善の心がけ次第、「日々これ好日(こうじつ)なり」、毎日、心がけ次第でよい日になる、これが仏教の「縁起」です。 まとめ 廃悪修善に心掛けて、自分で「縁起」をコントロールしましょう。

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「天上天下唯我独尊」 お釈迦さまの誕生日は4月8日

4月8日は、仏教を説かれたお釈迦さまの誕生日です。 「花祭り」といい、小さな釈迦像に甘茶をかけているのを見たことのある人もあるでしょう。 この日を「花祭り」と祝うのは、お釈迦さまがルンビニーという花園で誕生されたからです。 このご生誕にまつわるお言葉から、今回は、私たちの生まれてきた意味を学びましょう。 苦しみの世界を離れて 当時、インド北部で栄えた釈迦族の長・浄飯王と后のマーヤー夫人には、永らく子供が恵まれなかった。ところがある時、待望の世継ぎが授かったのである。月満ち、初産であった夫人は、故郷の隣国へ里帰りした。その帰途にあったルンビニーの花園で、突如、産気づいた夫人は、後の仏陀、釈迦牟尼となるシッダルタ太子を出産される。 この時、太子は、東西南北に7歩ずつ歩まれて、右手で天を、左手で大地を指さしてこう宣言されたといわれる。 天上天下 唯我独尊 三界皆苦 吾当安此 (天上にも地上にも、人間〈我〉のみの独尊あり。人生〈三界〉はみな苦なり。吾〈釈迦〉当に此を安んずべし) いかにお釈迦さまでも、生まれてすぐに歩かれたり、話されたりするはずはありません。この話は何を示唆しているのでしょう。 まず、東西南北に7歩ずつ歩まれたとは、6より1多い「7」に意味があります。私たちの生命は「六道」という迷いの世界を輪廻している、と仏教では教えられています。 「六道」とは「六界」ともいわれ、次の6つの迷界のことです。 ○地獄界──最も苦しみの激しい世界 ○餓鬼界──餓鬼道ともいう。食べ物も飲み物も皆、炎となって食べられず飲まれもせず、 飢えと渇きで苦しむ世界 ○畜生界──犬や猫、動物の世界。弱肉強食の境界で、常に不安におびえている世界 ○修羅界──絶えない争いのために苦しむ闘争の世界 ○人間界──苦楽相半ばしている、我々の生きている世界 ○天上界──六道の中では楽しみの多い世界だが、迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある 7歩歩まれたとは、この6つの迷界(苦しみの世界)から1歩、出て離れることを表します。すべての人に、人間に生まれた目的は、この六道を出離して真の幸福になることであることを示されたのです。これが「7歩」の意味です。 「ただ私だけが尊い?」 続けてお釈迦さまは、「天上天下 唯我独尊」と仰います。一般には、「ただ自分(釈迦)だけが偉い」という意味だと思われていますが、そうではありません。 「実るほど 頭の下がる 稲穂かな」といいます。世界の三大聖人のトップに挙げられるお釈迦さまのような方が、自ら“オレは偉いんだ”などと言われるでしょうか。 これは「唯我独尊」の「我」をどう理解するかで意味が変わってきます。「我」は釈迦だけではなく、私たち人間のこと。釈迦自身を表す「われ」は、この後の四句目「吾当安此」の「吾」ですから、ここでお釈迦さまは、 「ただ我々人間にのみなしうる、たった一つの尊い目的(独尊)がある」と仰っているのです。 我々人間の命に差別はなく、皆、平等に尊いということです。 「人間に生まれてよかった」 ──盲亀と浮木のたとえ 生命の尊厳を、お釈迦さまはこうも仰っています。 「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。 この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」 (生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞けてよかった。今、この世で生きる目的を果たさなければ、いつの世でできるであろうか。永遠の幸せになるチャンスは今しかない) 「人身受け難し、今已に受く」 とは、生まれ難い人間に生まれることができてよかった、という生命の歓喜です。 いかに人間に生まれ難いか。お釈迦さまは『雑阿含経』に、有名な「盲亀浮木の譬喩」で説かれています。 ある時、お釈迦さまが 「例えば、大海の底に1匹の目の見えない亀がいて、100年に1度、海上に浮かび上がるのだ。その海には、1本の浮木が流れている。その木の真ん中にはひとつ、穴が開いている。目の見えない亀が100年に1度、浮かび上がった時、ちょうどその浮木の穴へ頭を突っ込むことがあるだろうか」 と尋ねられた。阿難という弟子が、 「そんなことは毛頭、考えられません」 と答えると、お釈迦さまは、 「誰でも、そんなことはありえないと思うだろう。だが何億兆年よりも永い間には、絶対にない、とは誰も言い切れない。人間に生まれることは、これよりも難しい。有り難いことなのだよ」と仰っています。 私たちが日常、口にする“ありがとう”は、仏教から出た言葉で、本来は“有ることがまれである”の意味です。 「他人から何か施してもらうことは、めったにない、有り難いことである」 ということで、ここから転じて「ありがとう」が感謝の言葉となったのです。 人間に生まれたことはいかに有り難いか、数の上から考えてみましょう。 例えば地球上には、およそ137万種の動物が確認されており、未発見の生物種も含めれば800万種以上ともいわれます。 その中の1種、魚のマンボウだけでも、メスが一度に産む卵の数は3億個。人間とは比較にならぬ個体数が生息しており、全ての動物の総数となれば、計測不可能でしょう。そういうありえないほどの確率で生まれた命ですから、親鸞聖人が大変、尊敬されている平安時代の高僧・源信僧都は、「まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり」と人間に生まれたかけがえのない命を喜んでおられます。 「仏法聞き難し、今已に聞く」 と続くのは、生まれ難い人間に生まれた意味を説く仏教を聞いてこそ、命の尊厳が真に知らされますから、聞き難い仏法が聞けてよかった、の喜びとなります。 どんな人もこの世で最高の幸福になれる 「天上天下 唯我独尊」のあとにお釈迦さまは、 「三界皆苦 吾当安此」と言われています。 「三界」とは、「苦海」「苦界」ともいわれ、私たちが住む世界を、三つに分けて教えられています。 ○欲界──さまざまな欲望のみで生きている世界 ○色界──「色」とは物質のこと。分かりやすく言えば、絵画や彫刻、音楽、文学などの芸術の世界。やはり苦悩の世界 ○無色界─物質を超越した精神の世界。いわゆる哲学、思想の世界。三界の中では最も高尚だが、「人生の目的」「真の幸福」は明らかにされていない いずれも苦しみ迷いの世界ですから、「皆苦(皆、苦なり)」と言われます。 「三界は火宅の如し、安きことなし」とも経典に説かれています。 しかし、お釈迦さまは、この三界にいながら、誰もが本当の幸福になれるのだよ、と 「吾当安此(吾当に此を安んずべし)」 と仰います。仏教を聞けば、苦しみの六道を離れ、どんな人も本当の幸せになれることを、ここで断言されているのです。 先の「人身受け難し」のお言葉では、「この身今生に向って度する」と表されています。 「此を」「この身」「今生に」とは、いずれも「この世で」ということであり、「安んず」「度する」が本当の幸福になったこと。生きている今、男女、年齢、貧富の差、人種や民族に関係なく、誰でも絶対の幸福になれる。これが、私たちが人間に生まれてきた本当の意味であり、今がこの幸せになれる最大のチャンスです。仏法を聞けば、「天上天下、この広い大宇宙で、今、私が生まれてきたのは、この幸せになるためであった」と心から喜べる人生が開かれるのですよと、釈迦誕生のエピソードで教えられているのです。

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「因果応報」を味方につける 今、この瞬間から運命が好転する6つの秘訣

運命について使う「因果応報」とは、仏教の言葉です。 悪事を働いて生きてきた人が、最後に破滅したような時に言うことが多いかもしれません。 しかし、実は悪い時ばかりに使う言葉ではないのです。 今回は「因果応報」という言葉から、仏教で教えられる運命のしくみについてお話しします。 今日から確実に運命が好転する「因果応報」を味方につけるとは、どんなことでしょうか。   目次 ・70歳からでも人生は変えられる ・因果応報──因(行い)に応じた果(幸・不幸)が現れる ・幸せになれる6つのタネまき──六度万行 ・縁を選ぶことも大事 70歳からでも人生は変えられる 「今日の運勢は……」 朝一番のテレビから聞こえてくると、ちょっと知りたくなります。“運命はどうして決まるのか”はどんな人もいちばん知りたいことでしょう。その最大関心事について、仏教は実に論理的に説かれていることをご存じですか。 19世紀ドイツの哲学者、ニーチェも、仏教についてこう称賛しています。 「仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう」 仏教では、今の自分の運命は過去の自分の行為が生み出したものであり、今の行為が未来の運命を生み出すのですよ、と教えられています。   カーネルおじさんが教えてくれたこと ところがそう聞いても、「理屈はそうだけど、今更行いを変えたって人生はそう変わるものじゃないよ」という方もあるでしょう。そんな思いは全く不要です。老若男女、貧富貴賤など全く関係なく、まいたタネ(行い)は、正直に結果を現しますから、何歳になっても人生を変えることができるのです。 町で見掛けるケンタッキー・フライドチキン(KFC)の入り口に、白いタキシードを着たおじさん(カーネル・サンダース)の人形が立っています。 彼は40歳で、幹線道路沿いにガソリンスタンドをオープンし、その一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー「サンダース・カフェ」を始めた。途中で息子の死、火災に遭うなどの困難を乗り越え、51歳の時には、147席のレストランを再建。客席を回り「私の料理がもしおいしくなかったら、お代は要りません」と意見を聞きながら、フライドチキンのオリジナル・レシピを完成させた。 ところが65歳の時、町外れに高速道路が通ると、車と人の流れが変わって、客が来なくなり、閉店を余儀なくされた。無一文になったサンダースは、ワゴン車で寝泊まりしながら各地を回り、フライドチキンのレシピを売り、1本売るごとに幾らかの利益をもらうビジネス(フランチャイズ)契約を取りに回った。1009回の断りを受け続けたが、73歳までにサンダースのフライドチキンを提供する店は600店舗以上になった。その後、自分の調理法が正しく行われ、きちんと提供されているか、年間数十万キロの移動もいとわず世界の店舗を見て回った。 現在、ケンタッキー・フライドチキンは世界で約1万8千店舗あります。 6歳で父が亡くなり、女手一つで3人の子供を養う母を助けるために、家族にパンを焼いて大喜びされたのが7歳の時。「おいしいもので人を幸せにしたい」との熱い思いが、フライドチキンとなって世界中に広まったのです。 「人生は自分でつくるもの。遅いということはない」(サンダース) 幾つになってもあきらめなければ、必ず道は開かれるのです。   *ニーチェ……ドイツの哲学者。当時、圧倒的に力のあったキリスト教に対して 「神は死せり」と宣言したことで有名 *「仏教は、~」……『キリスト教は邪教です!』ニーチェ(著)適菜収(訳) 因果応報──因(行い)に応じた果(幸・不幸)が現れる その運命の法則を仏教では「因果応報」という言葉で表しています。 「因果応報」は、仏教の根幹の教えである「因果の道理」から出た言葉です。 根幹とは、根や幹ということ。仏教を一本の木とすると、根っこがなければ、木は枯れ、幹を切ったら、木は倒れてしまいます。 ですから根幹の「因果の道理」が分からなければ、仏教の教えは一切分かりません。 では「因果の道理」とはどんなことでしょう。 「因果」とは、原因と結果ということ。 どんな結果にも、必ず原因がある、原因なく結果が現れるということは、万に一つもない。飛行機が墜落して海底深く沈んでしまった場合など、原因が分からないことはありますが、原因が“ない”のではありません。 それは、「運命が、何によって決まるのか」という誰もが知りたい問いについても例外ではありません。 「あの人は運がいい」とか、「あいつは運が悪い」とよく言いますが、運命というのは何の原因もなく、ただの偶然で決まるものではないのです。 運命の原因と結果についてお釈迦さまは、このように教えられています。  善因善果(ぜんいんぜんか)  悪因悪果(あくいんあくか)  自因自果(じいんじか) ここで因とは行い、果は運命を表しています。善い行いは善い運命となり、悪い行いは悪い運命を引き起こす。例えば植物なら、ダイコンのタネをまけばダイコンが、スイカのタネからは、スイカが出てくるということです。これは、いつの時代でも、どこの場所でもそうでしょう。江戸時代には、ダイコンのタネからカボチャの芽が出たはずだ、とは誰も思いません。同様に私たちの運命も、いつでもどこでも必ず原因(行為)に応じた結 果が現れるということです。 そして善いのも悪いのも、自分のまいたタネ(行為)は自分が刈り取らねばならないのだよ(自因自果)、とお釈迦さまは教えられました。 これを「因果応報」ともいうのです。 幸せになれる6つのタネまき──六度万行 では、どんなタネをまけば善果が得られるのでしょう。お釈迦さまは、たくさんの善を、具体的に誰にでもできる6つにまとめて教えられています。これを「六度万行」といわれます。次の6つです。 六度万行 ・布施(ふせ)   ── 喜捨(きしゃ)ともいわれる。親切のこと ・持戒(じかい)  ── 約束を守ること、言行一致 ・忍辱(にんにく) ── 苦しみに耐えていくこと、忍耐 ・精進(しょうじん)── 目的達成に向かっての努力 ・禅定(ぜんじょう)── 心を静め反省する ・智慧(ちえ)   ── 前の5つをまとめたもの、修養 この6つの善行が、運命を好転させる行いであり、このうちの、どれか1つを行うと、他の5つ全てを修めたことになると教えられています。お釈迦さまは自分ができそうな善を、まず実行しなさいと勧められました。 今回はその最初に挙げられる「布施」について解説いたします。   布施について 「布施」には大きく分けると、お金や物、無償の労働などを施す「財施(ざいせ)」と、正しい教えを説く「法施(ほうせ)」がありますが、最も身近で、物やお金を持たなくても、誰もが心掛け一つでできる和顔愛語(わげんあいご)という布施行を紹介します。 和やかな顔で接し、優しい言葉をかけることです。 高齢になり、施設に入って元気のなかったおばあさん。朝、施設の職員が部屋の窓を開けると、通学途中の子供が元気に笑顔で挨拶をしてきた。その子供たちに心を開いたおばあさん、毎朝、窓を開けて自分からも挨拶することを楽しみにし、リハビリにも積極的になって、施設職員をも喜ばせたという話があります。 子供の笑顔が、おばあさんを元気にし、おばあさん自身も笑顔で挨拶することで健康を回復させ、周りの人も幸せにしたのですね。 ある元警察官は、毎朝、庭から道行く人に挨拶をしています。それは、近所の人と心を通わせるだけでなく、犯罪を抑止して安心を得るためだそうです。 泥棒が犯行をあきらめる一番の理由は「近所の人に声をかけられた」「近所の人に顔を見られた」から。 あるホームセンターでは、店員がお客さんに笑顔で挨拶するようにしたところ、年間の万引き被害額が30パーセント減ったといいます。 どんな対策も、思うように効果が上がらず頭を抱えていた犯罪が、笑顔と挨拶で減らせるようになったのですから、善因善果、自因自果、和顔愛語の力が知らされます。 相手を思って声をかければ、犯罪を犯すようなささくれだった心をも癒やすのでしょう。   小さな善行を続ければ人生が変わる 「そんなささいなことで、変わるもんじゃないよ」という声も聞こえてきますが、小さなタネでもやがて大きな結果となります。樹齢2000年ともいわれる屋久島の縄文杉は、大人十数人が手をつないでようやく囲めるほど、太く大きい幹のものがあります。しかしそのタネは米粒よりも小さなタネ。そんな小さなタネから、時間がたつと考えらないほどの大きな樹木に育つのです。 ほんの少しの笑顔や挨拶、優しい言葉をかけることは、ささいなことのようですが、そのタネまきは人生を大きく飛躍させる可能性を持つのですね。 いつでもどこでも変わらない因果の道理を深く信じ、従って、どんな小さな善でも心がけていけば、必ず善果が現れ、幸せな毎日が送れるようになる。「因果応報」を味方につけるとは、このようなことです。だから今日から、否、ただ今から、少しでも善いタネまきを実践していきましょう。   縁を選ぶことも大事 ところで、原因が結果となって現れるには「縁」というものが必要です。原因が結果となって現れるのを助けるものが縁です。 簡単な例を紹介すれば、コシヒカリという品種のおいしい米のモミ種でも、育てる地域によって、米の味は変わります。同じタネでも縁によって結果は大きく変わりますから、縁を選ぶことも大事なこと。縁については、別の記事で解説したいと思います。   まとめ 運命の一切は自分のまいたもの、まかぬタネは生えぬと反省し、一つ一つ誠心誠意、できることから着実に対応していけば、人生、思わぬ道が開けてくるものです。

なるほど親鸞聖人

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どうせなら、「怒り」を「喜び」に転じてしまおう

親鸞聖人の教えを聞けば今までの悩みが吹き飛んで、生きるのがとっても楽になります 最近「アンガーマネジメント」という言葉をよく耳にします。 直訳すれば「怒りの管理術」。 こうした技術がはやるのも、それだけ怒りの感情に悩む人が多いからでしょう。 仏教では、私たちを苦しめ悩ませるものを「煩悩」といい、一人に108の煩悩があると説かれています。 怒りもその一つ。日々、煩悩に振り回されている私たちが、その苦悩から解放されることは、果たしてできるのか。 今月は親鸞聖人とお弟子・弁円の物語を通して、「苦悩がそのまま歓喜となる」 驚きの解決法をお伝えしましょう。   目次 ・私たちは「108の煩悩」の塊です ・冷静と焦燥の間で──弟子たちに〝大人の対応〟を見せる弁円(べんねん) ・「怒り」で失敗しないための仏教のアドバイス 「心の向き」がポイント ・ついに燃え上がる怒りの炎 その時、親鸞聖人は── ・暴走する怒りが一転、懺悔に 「変わりはてたる我が心かな」 私たちは「108の煩悩」の塊です 世界中で使われている「フェイスブック」の創立者として有名な、アメリカのマーク・ザッカーバーグ氏が、「仏教は素晴らしい宗教であり、哲学でもある。僕は徐々にそれについて学んでいるところだ。この教えについてもっと深く理解できるよう学び続けていきたいと思っている」 と自身のフェイスブックで語っています。 今回は仏教の中でも、特に広く知られている「煩悩」がテーマです。「煩悩」とは、すべての人に108あるので「108の煩悩」ともいわれます。 ただ煩悩の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる とは芥川龍之介の言葉ですが、そんな煩悩いっぱいの私たち人間が、幸せになる方法はあるのでしょうか。 その答えが、親鸞聖人と弁円という人の物語にあります。 約800年前、欲や怒り、恨み妬みの煩悩の火と燃えて親鸞聖人のお命まで狙った弁円という男がありました。しかし聖人に導かれ、恨みと呪いの人生が感謝と喜びの人生にガラリと転じ、お弟子の明法房と生まれ変わっています。 「え、殺しに来たのに弟子になった?」 一体、何があったのでしょうか。 *「ただ煩悩の~」……芥川龍之介・作『袈裟と盛遠』   冷静と焦燥の間で── 弟子たちに〝大人の対応〟を見せる弁円 40歳を過ぎ、越後(新潟県)から関東へ赴かれた親鸞聖人は、常陸国(茨城県)稲田を拠点に20年、関東で教えを伝えられた。 当時、常陸国で一大勢力を誇っていたのが山伏・弁円である。山伏とは修験道という教えで苦行を積んだ人のこと。修験道の信者は、山伏に加持祈祷してもらえば病気が治り、商売は繁盛、災難も消滅するなどのご利益が得られると信じていた。弁円も修験道こそ本当の仏教だと信じていた。親鸞聖人が稲田で真実の教えを説かれ始めると、参詣する人が一人また一人と増え、稲田の繁盛ぶりを語る、こんなうわさ話が弁円の耳にも届いていた「今、稲田で評判の親鸞とかいう者を知っておられますか」 「どんな悪人でも助かるとか言って、えらい繁盛しているそうじゃ」 「ああ、親鸞といえば昔、比叡山の修行がつらくて逃げ出した男だろう?」 「肉食妻帯した堕落坊主じゃないか」 じっと耳を傾けていた弁円は、 「皆さんはそんな軽薄な教えに迷ってはなりませんぞ」 と釘を刺すも、胸に異物の感触を覚える。 自分たちへの参拝者が日増しに減ってくると、いよいよ弁円の弟子たちは冷静さを失ってきた。 「この頃、親鸞にだまされて、稲田に行く者が相当いるようだ。み仏に代わって成敗してくれようか」 いらだつ彼らに弁円は、「まあ待たれよ。所詮は人集めに都合のよいことばかり言っているのだ。やがては我々の修験道こそ、正しい仏教だと分かる時が、必ずある」と制止した。 *肉食妻帯……魚などの肉を食べ、結婚すること 「怒り」で失敗しないための仏教のアドバイス 「心の向き」がポイント 弁円にとって親鸞聖人の出現は、自分の庭に無断で踏み込まれたようなものでした。私たちは、他人の利害には鈍感ですが、自分の損得が絡んでくると、途端に敏感になります。他人の車が傷つけられても「お気の毒さま」とあくびして聞けますが、自分の車が傷つけられたら、犯人を見つけるまで気が済みません。 しかし弁円は、リーダーのプライドもあってか、最初は全く相手にしないそぶりを見せます。 欲が妨げられた時、出てくるのが怒りです。腹を立てると、つい言ってはならぬことを言い、やってはならぬことをやってしまう。そして取り返しのつかないことになりがちなので、「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」と昔から戒められています。 はやりの「アンガーマネジメント」(怒りの管理術)はアメリカのビジネス界で考案されたもので、怒りをコントロールし、自分の成長や前向きな力に転じるいろいろな心掛け、テクニックが教えられています。例えば、 ○イライラを点数化してみる。 自分の怒りに、10段階評価で点数をつけてみる。点数の低い怒りに、いちいち振り回されずに済むようになる。 ○ゆっくり大きく呼吸する。 深呼吸することで、体の緊張をほぐし、頭に血が上った状態を鎮静化させる。 ○白黒つけない。 世の中には白黒つかないものが多いと、現実を受け入れる。 ○80点で満足する。 常に満点主義では、足りない点ばかり気になる。ダメな点より、できている点に目を向ける。 こうした助言が必要とされるのも、それだけ怒りの心がビジネスの現場で失敗の原因になっているからでしょう。 過日も、某宅配業者がむしゃくしゃして荷物を地面に投げつける映像がインターネットに出回り、大きな問題となりました。カッとなって暴言を吐き、大事な取引先を失ったり、会社の信用を落としてしまう例はよく聞きます。こうした怒りの恐ろしさに対して、仏教でも様々にアドバイスされています。 腹が立った時、私たちがすぐ思い浮かべるのは「あいつのせいだ」「こいつのせいだ」ということでしょう。ある主婦が、ブログに「家の中で何か不都合があると『あいつか』と夫の顔がまず浮かぶ」と書いていました。ささいな怒りも積み重なると爆発しかねません。でもそこで、「我、必ずしも聖に非ず。彼、必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫のみ」(聖徳太子)と思えば、許せぬ気持ちも少しは穏やかになるでしょう。「自分は悪くない」の心が、相手を責め、悲しい気持ちにさせる元です。「ともに凡夫、お互いさま」と思えば、衝突も減り、心が楽になる。今より良好な関係が築けるでしょう。「謗るまじ たとえ咎ある 人なりと 我が過ちは それに勝れり」、仏教では教えています。 また、自分の存在をないがしろにされ、「俺を無視するな」という寂しさからくる怒りもあります。特に年齢を重ねると、その傾向が強くなるようです。 いろいろと問題が重なると、自分だけが苦労の問屋のように思え、「何で私ばっかり」と怒りが込み上げてくることもあるでしょう。人一倍努力することは大切ですが、ともすると「俺はこれだけやっている」のうぬぼれ心が、怒り腹立ちの原因ともなります。そんな時は、ちょっと他人の頑張りに目を向けてみる。みんなも頑張っている。「苦労は自分だけ」と思ったら間違いだと謙虚な心を取り戻せたら、イライラもおさまり、「おかげさまで」「ありがとう」と感謝もできるでしょう。   ついに燃え上がる怒りの炎 その時、親鸞聖人は── さて、親鸞聖人の隆盛にいらだつ弟子たちに「冷静になれ」と言っていた弁円だが、内心は穏やかではいられず、弟子の一人に稲田の様子を探らせた。 すると、親鸞聖人の元には常陸国だけでなく武蔵国(東京・埼玉周辺)や相模国(神奈川県)からも人が集まり、参詣者であふれ返っているというではないか。しかも「加持祈祷は迷信で、本当の仏教ではない」と説かれていると知り、弁円の中にドス黒い心が湧き上がる。自分の信念が否定され、恨み、妬みの心が起きてきた。ついに弁円は、親鸞聖人を呪い殺す祈祷を始める。 そんなおり、親鸞聖人が柿岡村へ布教に行くため板敷山を通られることを知った。 「チャンスだ」。 自分が正しいと少しも疑わず、終始、肉食妻帯の聖人を見下している弁円は、弟子を従え板敷山で待ち伏せた。しかし聖人は現れず、やがて、すでに柿岡に到着しているとの知らせ。帰りこそはと潜伏するも、やはり失敗。実は親鸞聖人は別のルートで柿岡へ往復されていたのだ。次もその次も、聖人暗殺の陰謀はことごとく失敗に終わる。 やがて忍耐の限度を超える事件が起きた。有力な弟子が十数名を引き連れて造反したのだ。怒髪天を突いた弁円は、白昼、剣をかざして親鸞聖人の稲田の草庵へ押しかけた。 「やい、親鸞いるか!肉食妻帯の堕落坊主!み仏に代わって成敗してくれるわ!出てこい!!」 門前の怒号に、門弟たちは血相を変えて聖人のもとへ集まった。 「お師匠さま。どうか裏から安全な所へ」 懇願する弟子たちに聖人は諭される。 「親鸞が弁円殿の立場であれば、親鸞が押しかけていくだろう。謗るも謗られるも、恨むも恨まれるも、ともに仏法を伝える尊いご縁なのだ。会わせてもらおう」 弁円は門を破って境内に乱入し、玄関前に仁王立ちになった。 「出てこないなら、こちらから踏み込むぞ!」 叫んだが早いか、引き戸が開き、 「お待たせしました。弁円殿」 と聖人が姿を現される。 「親鸞か……。覚悟せえ!」 剣を振りかざし、親鸞聖人に向かっていく弁円。しかし数珠一連持たれたのみで、無造作に立たれる聖人のお姿に、ピタリと足が止まる。一瞬、弁円はわが目を疑った。燃やせる全てを燃やし、憎悪の炎を湯気のように立てている弁円に、「よく参られた」と手を伸ばさんばかりの聖人の笑顔は仏か、菩薩か……。これが不倶戴天の怨敵と呪い続けた親鸞か……。 見る見るうちに殺意は消え失せ、両の手から剣が滑り落ちた。 「ああーっ!俺は間違っていた。俺は、間違っていた」 がっくりと大地に膝を突き、血走っていた眼から、熱い悔恨の涙が止めどなくあふれ出た。 「弁円、一生の不覚。お許しくだされ、親鸞殿。稲田の繁栄を妬み、己の衰退をただ御身のせいにして憎んでいたこの弁円。思えば恐ろしい鬼であった。どうか今までの大罪、お許しくだされーっ」 泣き崩れる弁円の肩に、聖人はそっと手を置かれる。 「いやいや弁円殿。そなたは正直者じゃ。まこと言えば親鸞も、憎い、殺したい心は山ほどあり申すが、それを隠すにほとほと迷惑しておりまする。それに引き替え、弁円殿は思いのままにふるまわれる。素直な心が羨ましい」 「親鸞殿……。こんな弁円でも助かる道がござろうか」 「何を言われる弁円殿。こんな親鸞をも、阿弥陀如来は救いたもうた。煩悩逆巻く、罪悪深重の者こそが正客、と仰せの弥陀の本願じゃ。何の嘆きがあろうか」 「ああ、親鸞殿。どうか、この弁円をお弟子の一人にお加えくださるまいか。お願い申す。お聞きくだされ!」 「いやいや弁円殿。親鸞には一人の弟子もあり申さぬ。ともに弥陀の本願を聞信させていただくわれらは御同朋、御同行。喜ばしき友であり、兄弟なのだ。弁円殿も早くお聞きくだされ」 見守る弟子たちの頬にも涙が伝っていた。かくて弁円は、親鸞門下の一人、明法房と生まれ変わったのです。 *聞信……「まことだった」と聞いて知らされること   暴走する怒りが一転、懺悔に 「変わりはてたる我が心かな」 108の煩悩の中でも恨み、妬みの心ほど「負のエネルギー」が充満しているものはないでしょう。親鸞聖人は、「心は蛇蝎のごとくなり」(ヘビやサソリを見た時のようなゾッとする心だ)と言われています。 恨み、憎しみの鬼と化した弁円は一筋に聖人を呪い続けますが、弟子の裏切りによって、ついに怒りを爆発させました。 カッとなった時、自己の内面に目を向け反省するには、ある程度、心の余裕が必要ですが、分かっちゃいるけど、どうにもならぬ。まさに弁円がそうでした。 しかし弁円の幸せは、相手が親鸞聖人だったことでしょう。そのあと、弁円はどうなったのでしょう。 * 後日、明法房(弁円)が親鸞聖人と板敷山を歩いていた時、かつて恩師を殺害せんと待ち伏せた所に差しかかりました。 弥陀の本願によって「絶対の幸福」に救い摂られた明法房が、その時詠んだといわれるのが、次の歌です。  山も山 道も昔に 変わらねど 変わりはてたる 我が心かな 山も道も、あの時のまま。煩悩も少しも変わらない。それなのに、わが心は何と大変わりしたことか。最も憎んでいた人が、最も尊敬する方になろうとは。…続きを読む

カプセル
南無阿弥陀仏とは一言でいうと「幸せになれる特効薬」

仏教の言葉は、いろいろな場面で耳にします。「仏」「往生」「他力本願」など、聞いたことはあるが、本当の意味は?と聞かれて、答えられる人は少ないかもしれません。 その代表が「南無阿弥陀仏」ではないでしょうか。 テレビでも「南無阿弥陀仏」を称える人が出てきます。葬式、墓参りでも聞かれるかもしれません。浄土真宗が盛んな地域では、墓石に「南無阿弥陀仏」とあります。 台湾では、いたるところに「南無阿弥陀仏」のステッカー?が貼られているのを目にします。 南無阿弥陀仏と口で称えることを念仏といいます。称名(しょうみょう)の念仏、口称(くしょう)の念仏ともいいます。 南無阿弥陀仏とは、幸せになれる特効薬 南無阿弥陀仏とは何か。譬えで説明したいと思います。 病気で苦しんでいる人がいた。病人は、その病気の特効薬を飲んで、全快しました。その薬を用意してくれた人に、お礼の言葉を申しました。 その譬えでいいますと、このようになります。 病人 - 私 薬  - 南無阿弥陀仏 全快 - 絶対の幸福 お礼 - 念仏 南無阿弥陀仏は、病気を治す薬に例えられます。 どんな薬かを知るには、どんな病を治す薬か、病を知る必要があります。 南無阿弥陀仏を知るには、どんな病を治す薬か、病を知らねばなりません。 すべての人がかかっている病 「無明の闇」 仏教では、すべての人が病気にかかっていると教えられます。そんな自覚はないと思われる方が多いでしょうが、この病は自覚がないのです。 病名は「無明の闇(むみょうのやみ)」。 自覚はありませんが、症状は現れています。それは「有無同然(うむどうぜん)」です。 有無同然とは 「田なければ、また憂いて、田あらんことを欲し、  宅なければ、また憂いて、宅あらんことを欲す。  田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。  牛馬(ごめ)・六畜(ろくちく)・奴碑(ぬび)・銭財(せんざい)・衣食(えじき)・什物(じゅうもつ)、  また共にこれを憂う。有無同じく然り。」             (大無量寿経)  田畑や住居が無ければ、それらを求めて苦しみ、  有ればまた管理や維持のために苦しむ    他のものも、みな有無同然である お釈迦様は、無い人は、(鉄)の鎖につながれて苦しんでいるようなもの、有る人は(金)の鎖にしばられて苦しんでいるようなものと例えられています。 人類は、無から有へ、一生懸命、努力してきたといえるでしょう。 確かに、生活は豊かになり、便利になりましたが、お釈迦様が教えられるように、有無同然で、幸せを感じられず、不安をかかえた生活を送っています。 「人類の営みは、鎖からの脱出ではなく、鎖の質を良くしてきただけなのだ」 今から2600年前に、お釈迦様が教えられていることに驚かされます。 無明の闇を治す特効薬 病気にかかると、おいしく食事を食べられません。高級レストランで食事をとっても、おいしくありません。 おいしく食べられない原因は、食事にあるのではなく、病気にかかっているからです。 同じように、どんなにお金や物に恵まれても、幸せを味わえないのは、心が病気にかかっているから、その病こそが、無明の闇なのです。 病気が治り、健康になれば、どんな食事もおいしく食べられるように、無明の闇という心の病が治れば、どんな人も、そのままで、絶対の幸福になることができます。 この無明の闇を治す薬が南無阿弥陀仏です。 無明の闇が破れると絶対の幸福になれますので、 南無阿弥陀仏は本当の幸せになれる特効薬といえます。 どんな心で称えるかで念仏の意味が変わる 絶対の幸福になった感謝の心が称える念仏はお礼の言葉です。 涙といっても、悲し涙、くやし涙、うれし涙があります。 涙に色がついていれば、涙そのもので、どんな涙か、判断できるかもしれませんが、 どんな心で流すか、その心によって、涙の性質が変わります。 南無阿弥陀仏も、どんな心で称えるかによって、念仏の意味も変わるのです。 絶対の幸福になって、その喜びから、口からあふれる念仏は、感謝、お礼の言葉です。 無明の闇と絶対の幸福 では、南無阿弥陀仏を治す病である無明の闇とは何か。 その無明の闇が治ったら、どうして絶対の幸福になれるのか。 仏教では、くわしく教えられていますので、是非、聞いてみて下さい。

炎上
親鸞聖人の「肉食妻帯の断行」は炎上マーケティングだった

親鸞聖人は僧侶として公然と肉食妻帯された最初の方だった 親鸞聖人といえば、肉食妻帯(にくじきさいたい)と言われるぐらい、親鸞聖人と肉食妻帯は、関係が深いです。それは、親鸞聖人が、僧侶として、公然と肉食妻帯された、最初の方だからです。 肉食妻帯とは、殺した生き物を食べ、妻を持ち女性と一緒に生活することです。親鸞聖人は鎌倉時代の方なので、食べたのは牛や豚ではなく、主には魚です。 今日、僧侶であっても、肉食妻帯している人は多いように思いますので、それほど珍しいことのように思えませんが、親鸞聖人がなぜ最初の方だったのでしょうか。 親鸞聖人の師匠は法然上人ですが、法然上人、親鸞聖人が現れるまでは、日本の仏教といえば、聖道仏教(しょうどうぶっきょう)しかありませんでした。 聖道仏教とは、宗派でいうと、天台宗、真言宗、禅宗などです。聖道仏教とまとめられるのは、共通しているところがあるからです。それは、欲や怒りや愚痴などの煩悩を抑えて修行に励み、自分の努力精進で悟りを得よう、幸せになろうとするところが、共通しているのです。 煩悩といっても、1人に108あります。除夜の鐘の数はここからきていますが、108の煩悩の中でも、特に強いのが欲です。仏教では、五欲といって、五つの欲を紹介しています。   食 欲(しょくよく)   財 欲(ざいよく)   色 欲(しきよく)   名誉欲(めいよよく)   睡眠欲(すいみんよく) 煩悩を抑えて修行に励みますから、これらの欲を思いっきり満たすことは、禁じられていました。それで、聖道仏教の修行をする僧侶は、これはやってはいけない、あれはやってはいけないと禁じられた戒律というものがありました。 その戒律の中に、肉を食べてはならない、女性に接してはならないがありましたので、当時、僧侶といえば、肉食妻帯していない人だったのです。 なぜ親鸞聖人は公然と肉食妻帯されたのか? 親鸞聖人が肉食妻帯されたのは、自分の心に正直に生きられたから、という人もあります。9歳から29歳までの20年間、比叡山で天台宗のご修行に打ち込まれていましたので、そのように思う人もあるかもしれません。 もし、それが理由であれば、公然とされる必要はありませんでした。親鸞聖人は、公然と肉食妻帯された最初の方であって、ひそかに肉食妻帯している僧侶は、すでに、少なからずいました。 親鸞聖人は公然と肉食妻帯されることで、多くの人たちから「肉食妻帯の堕落坊主」「戒律を破った破戒坊主」「色坊主」「仏教を破壊する悪魔」など、聞くに堪えない悪口を浴びせられました。当時、僧侶は肉食妻帯しないのが常識だったからです。ひそかにやっているならまだしも、公然と宣言するとは何事だと、非難攻撃の的となられたのです。 親鸞聖人は、公然とすれば、非難攻撃を受けることは、当然、わかっておられました。それを覚悟の上で、公然とされたのです。 その覚悟を感じ取った夏目漱石は、このように評価しています。 「親鸞聖人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、   非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」 「非常な強い根底の有る思想」とは何か それは、阿弥陀仏の本願を伝えることでした。 親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願一つを伝えることを使命としておられました。 聖道仏教では、肉食妻帯が禁じられていましたので、僧侶と一般の人には、差別がありました。しかし、阿弥陀仏の本願には、そのような差別は一切ありません。 歎異抄(たんにしょう)という本には、このように書かれています。  弥陀の本願には、老少善悪の人をえらばず  ( 歎異抄 )  阿弥陀仏の本願には、老いも若きも、善人も悪人も、一切、差別はない。 戒律を守らねばならぬ僧侶も、肉食妻帯している一般の人も差別はありません。 親鸞聖人は、公然と肉食妻帯されることで、肉食妻帯している者でも、そのままで本当の幸せになれる、それが本当の仏教なんだ。それを知ってもらいたい。 当時、マスコミ、インターネットもない時代です。 どうすれば多くの人に伝えることができるだろうか。そうだ、自分が肉食妻帯を公然とすれば、多くの人が驚き、口コミで広がっていくだろう。 そうすれば、認知はされるだろうが、反面、どんな非難攻撃を受けるかわからない。もしかしたら、命を狙われるかもしれません。しかしそれでも、伝えねばならないことがあるのだ。 親鸞聖人の「肉食妻帯の断行」は炎上マーケティングだったのです。 親鸞聖人がそこまでして明らかにされた阿弥陀仏の本願とは何か。 わかりやすく説明していますので、是非、聞いてみて下さい。

波
親鸞聖人の晩年

関東からの道すがら、多くの人を勧化されながら、親鸞聖人は、懐かしき京都へお帰りになりました。無実の罪で越後へ流刑に遭われてより、約25年ぶりのことでした。90歳で、浄土へ還帰されるまでの30年間、親鸞聖人は、どのように過ごされたのでしょうか。 ご帰洛後のお住まい 京都に着かれた親鸞聖人は、何回も住まいを変えておられます。 「聖人故郷に帰りて往事をおもうに、年々歳々夢のごとし幻のごとし。長安洛陽の棲も跡をとどむるに懶(ものぐさ)しとて、扶風馮翊(ふふうふよく)ところどころに移住したまいき」(御伝鈔) 「或時は岡崎、または二条冷泉富小路にましまし、或時は、吉水、一条、柳原、三条坊門、富小路等所々に移て住たまう」(正統伝) このうち、平太郎と面会された場所が、上京区の一条坊勝福寺です。門前には「親鸞聖人御草庵平太郎御化導之地」と石柱が立っています。 平太郎だけでなく、親鸞聖人の教えを求め、命懸けで関東から訪ねてくるお弟子が多数ありました。狭いながらも、教えの花咲くお住まいであったに違いありません。 道珍の霊夢 西本願寺正面の細い通りヘ入ると、念珠店が立ち並んでいます。そのまま東へ進むと、突き当たりが紫雲殿金宝寺です。 金宝寺はもと、天台宗の寺でした。ところが、57代目の住職・道珍が親鸞聖人のお弟子になり、浄土真宗に改宗したのです。その経緯を、当寺の『紫雲殿由縁起』は次のように記しています。 道珍は、高僧が来訪される夢を3回も見た。そこへ間もなく、親鸞聖人が訪れられたのである。紛れもなく夢でお会いした高僧なので、道珍は大変驚き、心から敬服した。ご説法を聴聞して、たちまちお弟子となったのである。時に、聖人67歳、道珍33歳であった。 道珍は、親鸞聖人のために新しく一室を作り、安聖閣と名づけました。道珍がしきりに滞在を願うので、約5年間、親鸞聖人は金宝寺にお住まいになったという。 ここにも、関東の門弟が多数来訪した記録があります。片道1カ月以上かけて、聞法にはせ参じる苦労はいかばかりであったか。後生の一大事を知らされたからでしょう。 また、『紫雲殿由縁起』には、道珍が親鸞聖人に襟巻きを進上したところ、大変喜ばれた、と記されています。 報恩講の大根焚き 京名物の一つ、了徳寺の大根焚きは、親鸞聖人報恩講の行事です。 了徳寺は京都市の西、右京区鳴滝町にあります。山門をくぐると、すぐに大きなかまどが目に飛び込んできます。報恩講には、早朝から大鍋で3500本の大根が煮込まれ、参詣者にふるまわれるという。 どんないわれがあるのか。略縁起には、次のように記されています。 親鸞聖人80歳の11月、ご布教の途中、鳴滝村を通られました。寒風吹きすさぶ中で働いている6人の農民を見られ、 「一生涯、自然と闘い、体を酷使して働くのは何のためか。弥陀の救いにあえなければ、あまりにも哀れではないか……」 と近寄られ、阿弥陀仏の本願を説かれました。 初めて聞く真実の仏法に大変感激した農民たちは、親鸞聖人にお礼をしたいと思ったが、貧しさゆえ、何も持ち合わせていない。そこで、自分たちの畑で取れた大根を塩炊きにして召し上がっていただいたところ、親鸞聖人は大変お喜びになったという。 親鸞聖人は、阿弥陀仏一仏を信じていきなさいと、なべの炭を集められ、ススキの穂で御名号を書き与えられました。 以来、親鸞聖人をしのんで大根を炊き、聞法の勝縁とする行事が750年以上も続いています。 著作に励まれる親鸞聖人 晩年の親鸞聖人は著作に専念しておられます。 52歳ごろに書かれた『教行信証』六巻は、お亡くなりになられるまで、何回も推敲・加筆なされています。いわば、生涯かけて著された大著です。 このほか、主なご著書とお書きになられた年代を挙げてみましょう。 76歳 浄土和讃(じょうどわさん) 高僧和讃(こうそうわさん) 78歳 唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい) 83歳 浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう) 愚禿鈔(ぐとくしょう) 84歳 往相廻向還相廻向文類(おうそうえこうげんそうえこうもんるい) 入出二門偈頌(にゅうしゅつにもんげじゅ) 85歳 浄土三経往生文類(じょうどさんぎょうおうじょうもんるい) 一念多念証文(いちねんたねんしょうもん) 正像末和讃(しょうぞうまつわさん) 86歳 尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん) 88歳 弥陀如来名号徳(みだにょらいみょうごうとく) このほかにも、親鸞聖人が書写・編集されたり、加点されたお聖教(仏教の本)は、全部で20冊以上知られています。しかも、そのほとんどが76歳以降に書かれています。 ご高齢になられるほど、執筆に力を込められていることが分かります。「体の自由が利かなくなった分、筆を執って真実叫ぶぞ」と、親鸞聖人の並々ならぬ気迫が伝わってくるようです。 親鸞聖人のご往生 親鸞聖人は、弘長2年11月下旬より病床に就かれました。あまり世間事を口にされず、ただ阿弥陀仏の大恩ばかり述べられ、念仏のお声が絶えなかったといいます。 11月28日、午の刻(正午)、親鸞聖人は90九十年のご生涯を終えられ、弥陀の浄土に還帰なされました。 臨終には、弟子は顕智と専信、肉親は、第五子の益方さまと第七子の覚信尼さまのみが、わずかに臨んだといいます。一切の妥協を排し、独りわが道を行かれた親鸞聖人にふさわしい、ご臨終でありました。 親鸞聖人のご遺言 「御臨末の御書」は、親鸞聖人のご遺言として有名です。 29歳で阿弥陀仏の本願に救い摂られてより、90歳でお亡くなりになるまでの、親鸞聖人のご生涯は、まさに波乱万丈でした。 真実の仏法を明らかにされんがための肉食妻帯の断行は、破戒堕落の罵声を呼び、一向専念無量寿仏の高調は、権力者の弾圧を招きました。35歳の越後流刑は、その激しさを如実に物語っています。 流罪の地でも、無為に時を過ごされる親鸞聖人ではありませんでした。 「辺鄙(へんぴ)の群類を化せん」と、命懸けの布教を敢行されたことは、種々の伝承に明らかです。 関東の布教には、親鸞聖人をねたんだ弁円が、剣を振りかざして迫ってきました。邪険な日野左衛門に一夜の宿も断られ、凍てつく雪の中で休まれたこともありました。 今に残る伝承は、親鸞聖人のご苦労の、ほんの一端を表すにすぎません。まさに、報い切れない御恩に感じ、「身を粉にしても……」と、布教に命を懸けられたご一生でありました。 その尽きぬ思いが、「御臨末の御書」に表されています。 「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」 「和歌の浦曲の片男浪」とは、現在の和歌山県和歌浦、片男波海岸です。万葉の昔から美しい海の代名詞になっています。 親鸞聖人は、「命が尽きた私は、一度は浄土へ還るけれども、海の波のように、すぐに戻ってくるであろう。すべての人が弥陀の本願に救われ切るまでジッとしてはおれないのだ」とおっしゃっています。 「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」 「一人の人は二人と思いなさい。二人の人は三人と思いなさい。目に見えなくても、私は常にあなたのそばにいますよ。悲しい時はともに悲しみ、うれしい時はともに喜びましょう。阿弥陀仏の本願に救われ、人生の目的を達成するまで、くじけずに求め抜きなさいよ」と、すべての人に呼びかけておられるのです。 真実のカケラもない私たちが、どうして仏法を聞こうという心が起きたのでしょうか。そこには、目に見えない親鸞聖人が常に、手を引いたり押したりしてくださっているからではないでしょうか。